張ダビデ牧師 – 放蕩息子のたとえ
1. 放蕩息子のたとえに含まれた福音の核心 ルカによる福音書15章は、福音書全体の中でも最も福音の本質を鮮明に示す章として広く知られています。「失われた羊のたとえ」「失われたドラクマのたとえ」に続いて登場する「放蕩息子のたとえ」は、特に長く豊かな物語を含んでいるため、教会の歴史を通じて多くの神学者や説教者がその解釈と教えを伝えてきました。張ダビデ牧師もまた、ルカ15章を非常に重要視し、この章に流れる福音的核心と神の心について繰り返し強調してきました。特に放蕩息子のたとえは、イエス様ご自身が語られた中でも、とりわけ罪人と食事を共にし、彼らを受け入れられた理由を説明する文脈で与えられたことに注目すべきです。パリサイ人と律法学者たちが、「なぜあの人は罪人を受け入れて一緒に食事をするのか?」と問いただし、不平を漏らすまでに至った時、イエス様は三つのたとえを続けざまに語られ、彼らが見落としている「神の心」と「福音の真の意図」を明らかにされました。 パリサイ人と律法学者は、当時の社会で非常に宗教的なエリートでした。自らを“聖別された者”とみなし、日常的に律法の規定を守り、御言葉を書写し教える責任を担っていたので、外面的には誰よりも敬虔で義なる集団に見えました。ところが彼らはイエス様を見た時、その振る舞いがどうにも異質に感じられました。なぜなら、イエス様は「罪人を歓迎し、彼らとの食卓の交わりをいとわない」姿を示されたからです。それはパリサイ人にとっては奇妙に映るのに十分でした。彼らは自分こそが常に敬虔に生き、律法の教えを重んじてきたのだから、当然「罪人との接触は避けるべきだ」と考えていたのです。ところがイエス様はその正反対、つまり「罪人を積極的に受け入れ、その場に入って共に食事をする」姿を見せられました。これを前に、パリサイ人と律法学者は単なる批判ではなく、さらに深いレベルの感情である「不平」を抱くようになりました。彼らの論理では、それは「神性を冒涜する態度」あるいは「清さを汚す行動」のように映ったでしょう。 しかしイエス様は、この不平に対して三つのたとえを順に語られます。その結論は「神は失われた一人を探し、戻ってきた一人を喜ばれる」ということです。そして三つ目のたとえが「放蕩息子のたとえ」です。私たちは通常、このたとえを通して「罪人の悔い改めと父の無条件の赦し」を思い浮かべます。ヘンリ・ナウウェン(ヘンリ・ナウエンとも。以下「ヘンリ・ナウウェン」と記す)の著書『放蕩息子の帰郷(The Return of the Prodigal Son)』が、レンブラントの名画『放蕩息子の帰郷』を黙想しながら書かれ、多くの人々に深い感動を呼び起こしたように、このたとえは非常に豊かな感動を与えます。放蕩息子の脱げかかった靴、ひざまずく姿、息子が帰ってくるまで待っていた父の表情、そして弟をねたむ兄の視線などは、人間の内面を劇的に描き出しています。 特にこのたとえは、福音のエッセンスを端的に要約する場面を含んでいます。ルカ15章11節以下を見ると、次男は父に対して「財産のうち、自分に与えられる分を下さい」と要求します。そして遠い国へ行き、その財産を「放蕩の限り」に使い果たし、結果的には物質的にも霊的にも底を突いてひどく貧窮します。飢えに苦しみ、豚が食べるいなご豆(鞘の実)でさえ食べたいと思っても、与えてくれる者はいませんでした。その絶望の中で彼は、「父の家には豊かな雇い人がたくさんいるのに、私はここで飢え死にしそうだ」と気づき、「私は天に対しても父に対しても罪を犯しました」と告白し、帰る決心をします。 放蕩息子が家へ戻る時に起こる最も劇的な場面は、父がまだ遠くにいる息子を見て「かわいそうに思い、走り寄って」首を抱き口づけしたというくだりです。そしてすぐに「最上の衣を着せ、指輪をはめさせ、足にくつを履かせ、肥えた子牛を屠って宴会を開こう」と宣言します。聖書は、この父の行動についていかなる「条件」も付していません。放蕩息子がいかに財産を浪費したか、その過程でどんな罪を犯したかなどを具体的に追及せず、ただ「帰ってきた」という事実自体を喜び歓迎しています。一方、それに反発するのが兄です。彼は「なぜ弟にそんなに寛大なのですか?」と問い詰め、「私は長年父のそばでお言いつけを破ったこともないのに、子ヤギ一匹さえくださったことがありません」と不満を訴えます。すると父は「おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ(ルカ15:31)」と語ります。そして最後に、戻ってきた弟について「この息子は死んでいたのに生き返り、失われていたのに見つかったのだから、喜び合うのは当然だ」と宣言します。 張ダビデ牧師は、このたとえを解説する際、二人の息子の姿を通して「人間が置かれた霊的状態」を多角的に省察することの重要性を強調します。次男が家を出るに至った動機は、所有に対する「誤った理解」でした。彼は「父の財産のうち、自分に分配される分」を要求し、それをまるごと「自分だけのもの」と考えました。ところが父はその要求を受け入れ、それによって息子は自らの選択によって惨めに崩れ落ちてしまったのです。しかし父は、その息子を見て怒ったり裁きを執行したりすることはありませんでした。むしろ遠くから息子が戻ってくるのを見つけた瞬間、走り寄って抱きしめ、あらゆる良いものを再び息子に与えました。 このように、パリサイ人や律法学者、あるいは教会の中で信仰歴が長い人々が陥りやすい勘違いがあります。それは「私はいつも父と共にいて、御言葉を熱心に守ってきたのだから、当然祝福を受ける資格がある」という意識です。そして「あのように罪深く、放蕩してきた者が父の愛を受けるなどおかしい」と判断するのです。ところがイエス様がこのたとえで明かされたのは、その逆です。「帰ってくる者なら、誰でも喜んで迎えてくださる父」、そして「すでに父の家にいた者でも、依然として父の心を知らなければ真の喜びを得られない」ということです。 ここに“福音”の本質が現れます。福音は「罪人への救いの良い知らせ」であると同時に、すでに宗教の枠内で自分なりの義を積み上げてきた人々にとっては時に馴染まず不愉快に感じられる面を持ちます。なぜならこの福音は「自分で自分を義だと思う者を招きには来なかった」という主の宣言だからです。イエス様は「悔い改めを必要としない義人九十九人よりも、悔い改める一人の罪人をこそ喜ぶ」と言われました。張ダビデ牧師は、この福音の逆説をたどりつつ、教会共同体は時に放蕩息子の状況に陥る者、あるいは兄の立場にある者、それぞれを省みる必要があると語ります。私たちは常に「私は家にいるから大丈夫」と安心しているだけではなく、実は父の心を知らずに生きている“兄”のような姿を見せうることを警戒すべきです。また、世でさまよい、疲れ切った人が戻ってくる時、教会が“無条件の歓待”と“憐れむ心”をもって受け入れる準備ができているかを問い続ける必要があります。 一方、この放蕩息子のたとえはエレミヤ書31章を背景にしています。エレミヤ31章ではエフライムが遠く離れ、自ら嘆きながら「主よ、私をみこころにかなうように立ち返らせてください。そうすれば私は帰ります」と訴える場面が登場します。そして神は「エフライムはわたしにとって愛する息子、喜びの子ではないのか。わたしが彼を責める度に心は深く揺さぶられる。彼を必ず憐れもう」と宣言されます。ルカ15章で父が放蕩息子に示した態度と全く同じ神の御心が、エレミヤ31章で預言されているわけです。このように聖書は、旧約と新約を通じて一貫して「神の愛、罪人への憐れみ、そして戻ってくる者を喜ぶ心」を描いています。これこそが福音の根幹であり、核心です。 当時、イエス様に従っていた人々でさえ、ましてや“神の民”を自称していたパリサイ人と律法学者でさえ、この愛と喜びの本質を見失っていました。彼らは「聖なる神がどうして罪人と食事を共にし、彼らを受け入れることなどできるのか?」と抵抗感を示しましたが、実のところ福音とは「人間の狭い法則や観念を超え、罪人が戻ってくるのを待っておられる神の父なるご性質」を告げる知らせだったのです。教会がその福音を真に体験しようとするならば、私たちもまた“父の心”を学ばなければなりません。そしてその心とは、遠い国でさまよい疲れて帰ってくる者を無条件で抱きしめることであり、すでにそばにいる者であっても父の望みを理解していないなら、真の喜びを得られないことを示してくれることでもあります。 張ダビデ牧師は「悔い改めと赦し」が具体的に何を意味するかを語る時にも、しばしばこの放蕩息子のたとえを引用します。放蕩息子が帰ってくる際にした告白は「私は天に対しても父に対しても罪を犯しました」というものでした。彼が悟ったのは「本来、父と私は一つであり、父の懐を離れてはまともに生きることができない」という事実です。イエス様がヨハネ14章20節で「その日には、わたしが父のうちにおり、あなたがたがわたしのうちにおり、わたしがあなたがたのうちにいるのをあなたがたは知るようになる」と言われたように、人間は本質的に神と分かちがたく結ばれています。しかし私たちは、所有や物質的欲望を“自由”と勘違いし、その結果、自ら父を離れる道を選ぶことがあります。放蕩息子の姿こそ、その典型例です。けれども真の自由は「父と一つである関係の中でこそ得られる自由」であり、真の愛は「完全な自由を前提とした選択」の中で花開きます。 だからこそ、放蕩息子の帰還は単なる教訓以上の「存在論的回帰」なのです。人間が神を離れては決して満ち足りた人生を送れないことを示しています。そして私たちが悔い改める時、父は何の条件もつけずに走り寄って私たちを抱きしめてくださるという真理が現れます。これは教会共同体が決して忘れてはならない福音の本質的メッセージであり、人々を霊的感動へ導く知らせです。私たちが福音を伝えるとは、結局このたとえが示す「無条件の歓待」と「父のあふれる愛」を伝えることとほとんど変わりません。 注目すべきは、兄の態度です。兄は「私は家から離れず、命令を破ったこともないのに、なぜこのような宴会を一度も開いてくれなかったのですか?」と問い詰めます。父は「おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものなのだ」と答えます。兄が心情的には父を離れていたことがわかります。兄は自分が「家の中に留まった功績」によって何かを受け取るべきだと思っており、初めから「私は父のもので、父は私のもので、すべては共有されていた」という事実に気づけなかったのです。これは今日、教会の中で長年信仰生活を送ってきた人や、いつの間にか「奉仕や犠牲をたくさんした」と思う人々にもよく見られる姿かもしれません。「私は長らく教会に尽くし、献身してきた。なのになぜ世で放蕩していた人々をあのように歓迎するのか? そしてなぜ私を特別に喜んでくれないのか?」という心が湧き上がることがあります。しかし父は「おまえの見方に問題がある」「すでに私のものはすべておまえのもので、私たちは一つなのだ」と語られます。実はこれ以上ないほど大きな祝福が既に与えられているのに、兄はこの真理を知らないゆえに自ら怒りと疎外感に沈んでいきます。 このたとえは、二人の息子どちらにも「私たちの内にある罪性と霊的無知、そして父の心を知らない姿」を示すよう迫ります。次男であれ長男であれ、どちらも人間の限界を象徴します。そして彼らに対して父は無条件の愛と所有、そして宴会を用意します。失ったものを取り戻すことはより大きな喜びであり、死んだようであった者が生き返ったことは、さらに大きな感謝の理由となります。これこそイエス様の答えであり、罪人と食事を共にされる御姿を正当化する根拠です。パリサイ人と律法学者は「罪人とは関わってはいけない」という律法的規定に囚われていましたが、イエス様は「失われた者を探し救うために来られた」という福音の原理を実際に体現されました。 こうして放蕩息子のたとえは、一方では罪人、あるいはさまよっている者への無条件の愛を示し、他方ではすでに信仰の囲いの中にいると思っている人々に対して、「より深い悟り」がなければ実は父と共に生きる喜びを見失っている可能性があると教えます。張ダビデ牧師は、教会共同体がこの二つの面を共に大切にすべきだと語ります。教会はいつでも遠い国から戻ろうとする人を開かれた心で迎え入れるべきであり、同時にすでに教会に属している人々も「私は本当に父の心を知っているだろうか? 父と一つである喜びを味わっているだろうか?」を省察すべきです。このどちらか片方をおろそかにすると、福音はねじ曲げられ、共同体の本質は揺らいでしまいます。 放蕩息子が「天に対しても父に対しても罪を犯しました」と告白しながら、「自分の罪が具体的に何か」を列挙していない点も重要です。人間が神から離れる根本原因は「物質」それ自体ではなく、「所有に対する執着と誤った解釈」であることをこのたとえははっきり示しています。次男は「自由に生きたい」という欲望を実行する中で、「父との関係」が根本的に壊れてしまいました。自分の分を持って遠い国へ行き、そこで放蕩して生涯を消費してしまったのです。これこそ罪の本質です。結局のところ、罪とは「神なしで自分で善を享受できると勘違いする態度」であり、「父のものがすでに自分のものでもあると知らず、それを自分のものだと主張して遠くへ逃げてしまう行為」です。 しかし息子はある瞬間、自分の存在のどん底を見ます。その時に彼が悟ったのは「父の家を離れては真の命を得られない」ということでした。そしてその悟りを「悔い改め」と呼び、父が走り寄って抱きしめてくださったことを「赦し」と呼びます。張ダビデ牧師は、この「悔い改めと赦し」という言葉が単なる宗教的概念として形骸化するのではなく、実際の私たちの人生で「父との関係が回復される出来事」として味わわれるべきだと説きます。この出来事が起こる時、人間は初めて「豚が食べる鞘の実で飢えをしのいでいた悲惨さ」を脱し、「肥えた子牛を屠って祝宴を開く豊かさ」にあずかれるのです。 このように放蕩息子のたとえは、イエス様の地上での宣教にとどまらず、旧約の時代から続く神の救いのご計画、そして教会の時代を生きる私たちの道しるべにもなります。私たちはそれぞれの人生のある瞬間に放蕩息子のようにさまよい出ることもあれば、兄のように「自分こそ正しい」と勘違いして神の心を見失う時もあります。大切なのは、父のもとへ帰り「自分が本来どこに属しているのか、誰がこれほどまでに私を待っておられるのか」を知ることです。これがルカ15章が伝える福音の中心であり、教会が繰り返し味わい、語り続けるべきメッセージなのです。 このたとえの結末は、「おまえの弟が帰ってきたのだから、私たちが喜び楽しむのは当然だ」という父の言葉で結ばれます。そこには大袈裟な教理や義務ではなく、「自然な歓待の反応」があります。大切な人が戻ってきたら出迎え、一緒に喜び、宴会を催すというごく単純な論理です。しかし人間の罪や利己心は、これさえも難しくすることがあります。特に兄のように「なぜ私だけ特別扱いされないのか?」という嫉妬心が湧いてくる時があるのです。その時、私たちは自らに問いかけるべきです。「私はもうすでに父のそばで何もかも与えられていたのに、そのことを忘れてはいなかっただろうか?」。なぜなら「すでに父のうちにいるのなら、すべては私たちのもの」だからです。そしてこの、より大きく根本的な真実を思い出す瞬間、私たちの心には言い尽くせないほどの自由と喜びが湧き起こってきます。 張ダビデ牧師は、この出来事を通して教会が絶えず刷新されるべきだと言います。教会共同体は「帰ってくる放蕩息子」を歓迎する場であるべきであり、同時に「いまだに父を誤解している兄」にも悟りの機会を与える場所でなければなりません。外面的な宗教生活や奉仕がいくら熱心であっても、自動的に神の心を理解できるわけではないからです。むしろ本当の霊的成熟とは、「私と父は既に一つであり、すべてが共有されている」という事実を喜びつつ受け止め、兄弟姉妹を歓待する態度にこそ現れるのです。どんな見返りや条件なしに父に倣おうとする人が増える時、教会はこの地上で「神の国」の現実を初めて示すことができるでしょう。 ヘンリ・ナウウェンの『放蕩息子の帰郷』が長年にわたり多くの人々に愛読されているのは、まさにこの理由です。彼はレンブラントの絵画『放蕩息子の帰郷』を通して、ひざまずいてみすぼらしく帰る息子の姿や、その背中に手を添える父の手、そして遠巻きにその光景を見つめながら嫉妬のこもった視線を向ける兄の姿を克明に観察しています。その絵そのものが、すでにこのたとえが告げるメッセージを強烈に視覚化しているのです。そこには人間の内面の心理的・霊的状態が見事に描き出されており、誰しもかつて放蕩息子であったし、誰しも兄であった時もあると気づかされます。そして究極的には「父の心」に倣う道を選べ、という招きがこのたとえの中に込められています。 イエス様はこの放蕩息子のたとえを語られた時、その前提となる状況であるパリサイ人たちの不平を解消するだけでなく、彼らがもう一度「神が本当に望んでおられること」を発見するように願っておられたのでしょう。なぜならパリサイ人たちは間違いなく敬虔に生活し、御言葉を書写し、人々に教え、清めの規定を遵守することに熱心でした。しかし実際には、神がいかに罪人に対して「憐れみ」を抱き、彼らに近づいてくださる方かを知らなかったのです。罪人が悔い改めれば天では大きな喜びがある、という御言葉を聞かせても、彼らにとっては異様な話に聞こえたでしょう。「これまで私たちが積み上げてきた敬虔や義は一体何だったのか? あんな罪人をただ受け入れるなんて正しいのか?」という疑問を拭えなかったはずです。しかし主はまさにその「父なる神のご性質」と「罪人への無条件の愛」を知らせたいと願っており、放蕩息子のたとえによってその衝撃を最大限に高められたのです。 私たちは信仰生活を長く送るうちに、いつの間にか「兄」の姿勢に固まってしまうことがあります。「私はいつも礼拝に出席しているし、献金もしているし、奉仕もしているし、御言葉にも通じている」という意識が積み重なり、ある日突然戻ってきた人々をむしろ歓迎するよりも、心のどこかで「私はこれほどまでにやってきたのに、おまえは一体何なのだ?」という態度を取ってしまう危険があるのです。しかし父は私たちに変わらず語ります。「子よ、おまえはいつも私と一緒にいたし、私のものはすべておまえのものだったのだ。だけどおまえの弟は死んでいたのに生き返ってきた。だから私たちが喜ぶのは当然じゃないか?」。この言葉を心で受け止められない瞬間、兄は自分の義の枠に閉じ込められ、同時に父がくださる本当の恵みや喜びを体験できなくなります。 だからこそ教会は、放蕩息子のような存在が戻ってくることを最も喜ばなければならないし、同時にすでに教会にいて働いてきた人々も「私は父と共に歩む喜びを日々味わっているだろうか? それともまだ父を誤解している部分があるのだろうか?」と問うべきです。これこそイエス様の御心であり、福音の力が現実化する道です。「教会の敷居が低くあるべきだ」という表現は、単なる寛容やキリスト教的倫理で終わる話ではなく、「神の父なる御心自体が、どんな条件もつけずに戻ってくる者を受け入れるお姿なのだ」という事実を真似ようとすることなのです。 パリサイ人が抱いた不平は、ある面から見れば私たち全員が共有する「義に対する欲求」や「不公平に対する不満」かもしれません。私たちは「罪人をああも簡単に受け入れたら正義が損なわれるのではないか」と言いたくなる時があります。ところがこのたとえが示す結論は驚くべきことに「それこそ神の国が持つ正義の本質」だということです。神の国は「悔い改めた罪人に救いを与えることを決して惜しまず、むしろ宴会を催す場所」なのです。父は自らどん底へ落ちた息子であっても、戻ってくるならば彼を抱き寄せて口づけし、再び指輪をはめさせます。人間的な視点から見ると不公平に思えるかもしれませんが、それこそが神の義(正しさ)なのです。なぜなら神の義は「功績」ではなく「恵み」によって働くからです。 ここで私たちは、ローマ書が強調する「義人はいない、一人もいない」という宣言を思い起こせます。誰もが神の前では「自ら闇に傾いている存在」であり、ただ神の恵みと憐れみによってのみ救いを得るのです。その恵みは、放蕩して財産を浪費した次男にも、家にいながら父の心を知らなかった兄にも同じように必要です。ここに私たちは「悔い改めと赦しの奇跡」を目の当たりにします。人は誰でも帰らなければならず、誰でも改めて父の心を知る必要があります。そしてそのプロセスは「私のために肥えた子牛を屠ってくださる」という神の喜びと切り離せません。 放蕩息子のたとえが投げかけるメッセージは大きく二つです。第一に、罪人に必要なのは「帰ること」であり、神はその小さな歩みに即座に反応し、無条件の歓待を与えてくださるという事実です。第二に、すでに教会の中にいる人々は「私は家にいるから大丈夫」と思い込むのではなく、「本当に父の心を知っているのか? すでに父と共にいてすべてを享受できるという事実を心から喜んでいるのか?」を点検しなければならないということです。このどちらか一方を逃しては、私たちは福音の完全な喜びにあずかれません。 張ダビデ牧師は、このメッセージをしばしば日本や韓国などの教会の現実にも当てはめて語ります。教会の内部でさまざまな紛争や対立が起こる時、その根源をたどると、多くの場合「自分のもの」への執着、つまり「これは自分の取り分だ」という意識から始まることが多いのです。放蕩息子が家を出た理由がまさに「父の財産のうち自分に与えられる分」を先取りしようとしたところから始まったように、現代の教会で起こる数々の対立や分裂の背後にも同じ姿が透けて見えます。しかし父は「私のものはみなあなたのものなのに」と言われ、もともと何もかもを共有し分かち合うべきだと教えておられます。神の恵みは本来、誰でも受け取れるものであるのに、それを知らなければ、結局放蕩息子のように疲弊したり、兄のように自分の義を誇って逆に喜びを失い嫉妬に陥ったりします。 教会が所有の問題で揺れるたびに、自らに問うべきは「すでに父は私にすべてをお与えになったのではないか? 私は今何をしっかり握ろうとしているのか?」という問いです。真の弟子は、パウロの告白「何も持たないようでいて、すべてを所有している」に倣い、むしろ手放すことを通して与えられる恵みを存分に味わう人です。もしある共同体が絶えず「自分の分」「自分の権利」を主張し合う雰囲気に陥っているなら、それは既に放蕩息子や兄が示した「歪んだ所有観」を踏襲していることに他なりません。ゆえに私たちは放蕩息子のたとえを通して、父の心を取り戻し、所有を主張するより恵みを先に思う姿勢を育まねばならないのです。 福音書の全体の流れから見ると、イエス様は放蕩息子のたとえの直後、ルカ16章で「不正な管理人のたとえ」を続けて語り、お金の取り扱い方について教えられます。元々、聖書には章の区分はなかったため、15章の「放蕩息子のたとえ」と16章の「管理人のたとえ」は一続きで読む必要があります。放蕩息子のたとえが「所有に対する間違った理解とその結末」を示すのなら、管理人のたとえは「富を賢く取り扱う方法を学ぶべきだ」という教訓を与えています。イエス様はすでに放蕩息子の物語を通して、所有に対する執着が結局は分離を招き、父の心と断絶させてしまうことを示されました。そして続いて「もしあなたが富を得たなら、いかに生きるべきか?」「管理人としての意識を持って歩むことがなぜ重要か?」を強調されます。張ダビデ牧師はこれら二つの物語を連結して説き、教会が豊かになればなるほど、放蕩息子が財産を誤用したように、共同体の中でも所有争いが起こる危険が高まると警告します。教会が「管理人精神」を失わなければ、むしろ神の国を拡大することができる一方、そうでなければ「自分の取り分」にこだわり共同体が分裂に向かうリスクが高いからです。 結局、ルカ15章と16章は私たちに同じ教訓を拡張的に伝えます。放蕩息子のたとえを通して「神の御子が私たちのためにすべてを差し出し、父なる神もまた私たちの罪を赦し、戻ってさえくれば歓待してくださる」という福音のメッセージを確認できます。そして管理人のたとえを通して「では、もし私たちが富を持った時、その使い方はどうあるべきか?」を問いかけるのです。イエス様は「不正の富で友を作れ」と言われ、その富が永遠の住まいを準備するために用いられるようにせよと教えられます。これは先の放蕩息子のたとえで示されたように、「結局すべてが父に属していると悟り、感謝と惜しみない思いでそれを取り扱え」という教えとつながっています。 こうして放蕩息子のたとえは、個人のレベルの悔い改めや救いだけでなく、共同体としての歓待と分かち合い、さらには最終的に「神と人間の関係がいかに回復されるべきか」までも包括する深いテーマを含んでいます。張ダビデ牧師は、信徒にルカ15章を学ぶたびに「二人の息子の物語」と呼び、教会の中にも“放蕩息子的傾向”と“兄的傾向”の両方を持つ人々が存在することに気づかせようとします。実際の私たちの人生でも、ときには罪の誘惑に負けて衝動的に遠い国へ飛び出し、ある瞬間には手ぶらで帰り悔い改めることもありますし、またあるときには「なぜ私があの人より待遇が悪いのだ?」と不満や恨みを抱くこともあります。ですが最終的には父がそのすべてのゆがみを癒し、一つに結び合わせてくださいます。それが「神の国」であり、「教会」がこの地上で実現すべき姿です。 放蕩息子の帰還の場面が特に感動を呼ぶ理由は、父が示す「憐れみに満ちた心(Compassion)」があまりにも大きいからです。世の論理なら、その息子は財産を無駄にして帰ってきた敗者にすぎないので、「この者をどう処罰するか父が決めるだろう」という冷淡な態度が当然に見えるかもしれません。ところが父は走り出します。息子が何かを言う間もなく首を抱き、口づけをします。そして僕たちに叫びます。「最上の衣を着せ、指輪をはめさせ、足に靴を履かせよ! 肥えた子牛を連れてきて屠れ!」。息子には「天に対しても父に対しても罪を犯しました。雇い人の一人にしてください」と言うすきさえ与えず、すでに祝宴が始まるのです。これこそ福音の「狂おしいほどの喜び」であり、「分別を超えてあふれ出る恵み」です。 この点でパリサイ人は「到底納得できない」と思ったことでしょう。実際、長年信仰生活を送ってきた人々でさえ、ときにはこの恵みが不思議に感じられます。「何の功績もない者がどうしてこんなに簡単に宴会の主役になれるのか?」。しかしこれが福音の逆説です。「悔い改める一人の罪人のために、天では九十九人の義人よりも大きな喜びがある」というイエス様の言葉は、人間の功績主義的観念を根底から覆す宣言なのです。では私たちにできることはただ一つ、「その恵みを受け入れて、一緒に喜ぶこと」だけです。これこそ「喜び楽しむのは当然だ」という父の結論なのです。 また一方で、父は兄に対しても変わらず優しく「子よ」と呼びかけ、その本心を温かく伝えます。「おまえはいつも私と一緒にいた。私のものは全部おまえのものだったのだ」。これが兄への最終的な診断です。「おまえは元々、満ち足りた中に生きていたのだ。それなのになぜわざわざ孤独と欠乏感の中で怒っているのか?」という問いかけです。これは「私の霊的状態」を点検する問いでもあります。私たちは教会の中で長く過ごし、奉仕もたくさんしたのに、「なぜ私には何の祝宴もないのか?」と不満を抱いてはいないでしょうか? もしそうなら、既に父の家にいる喜びを失ってしまったのではないかと省みるべきです。父と共にある毎日が、本来祝宴のような豊かさで満たされるはずなのに、なぜか私たちはその豊かさを感謝とともに享受できず、むしろ外から来る者に嫉妬を覚えるのです。 結局、放蕩息子のたとえは信仰生活の二つの柱、すなわち「悔い改め」と「赦し」を同時に具体化してくれます。次男の悔い改めと、父の無条件の赦しが交わるときに繰り広げられる祝宴こそ、このたとえのクライマックスです。そして長男にも同じように開かれている父の心がフィナーレを飾ります。この物語全体が、「罪人を受け入れ、一緒に食事をするイエス様」を非難するパリサイ人と律法学者に対する答弁として与えられたという事実が重要です。ルカ15章2節で始まる「なぜイエスは罪人を受け入れるのか?」という問いに対する最終的な答えが、32節の「おまえの弟は死んでいたのに生き返り、失われていたのに見つかったのだから、私たちが喜び合うのは当然だ」という宣言によって締めくくられるのです。 このたとえは、現代の教会が直面する数多くの課題に対する根本的な指針にもなります。教会の敷居を低くし、悔い改めて帰ってくる人々を喜んで迎えること、同時に教会の中で長く過ごしてきた人々にも「自分に与えられている恵みの大きさを忘れてはいないか?」と絶えず気づかせること。この二つの呼びかけが、繰り返しこだまします。私たちは人生の歩みの中で、時に「次男のように」世の誘惑に負けて放浪したり、どこかの時点で「兄のように」自分の義を誇り他人を排除しようとすることもあります。けれども最後に行き着くべき場所は「父の心を抱く」ところです。張ダビデ牧師は、これこそが「霊的に成熟した教会」の目指す姿だと教えます。つまり「放蕩息子」が赦され、そして「兄」もそれを喜ぶ共同体こそが天国の縮図なのです。 失われた者、さまよう者が戻ってくる時、あるいはすでに教会にいる者が自らを義とみなし他者を排除しようとする時に、「父の心」を改めて思い出させることこそ教会の使命です。その心は何か特別で大袈裟なことではなく、「遠方にいる息子が見えるやいなや走っていく憐れみ」であり、「天に属する霊的現実と喜びを味わい、人に寛容である姿勢」です。これがイエス様がパリサイ人と律法学者に示された福音の核心です。また二人の息子を通して示される人間の多様な内面を理解し、そのすべてを包み込む父の度量を黙想する時に、私たちは教会の中で互いをどう扱うべきかを明確に見いだすのです。 「悔い改めと赦し」とは放蕩息子のたとえにおいて、単なる宗教的義務や道徳的教えを超えて、「本来一つであった関係を回復し、神の豊かさに再びあずかること」を意味します。放蕩息子は遠い国へ行きましたが、父が彼を忘れたことはありませんでした。そして彼が立ち返った瞬間から、すでに歓待と回復が始まります。兄に対しても同様です。兄がなぜ怒っているか、父は十分承知されています。そして兄にも「すでに全部おまえのものだった」という事実を思い出させるのです。この悟りがあれば、教会の中で起きるさまざまな対立や誤解が解決される糸口が見えてくるでしょう。互いに「自分のもの」を主張するのではなく、「すでに父のものであり、それは私たち皆のものだ」という真理を共有できる時、放蕩息子のたとえに描かれた美しい宴会が日常の中でも実現されていくのです。 こうしてルカ15章の「放蕩息子のたとえ」は、福音が持つ異質で驚くべき面を改めて思い起こさせます。パリサイ人や律法学者、そして今なお心を閉ざしている人々にとっては「あまりに急進的すぎる話」に思えるかもしれませんが、実際には福音にはそれ以上に大きな愛が含まれています。イエス様が十字架で、最後に残った衣さえ兵士たちにくじ引きで分け取られるほどすべてを差し出されたように、神は私たちにご自身のすべてを与えてくださったのです。だからこそ父が息子に言った「あらゆるものはすべておまえのものだ」という宣言は、神の声でもあります。この声を聞き入れる人々は、もはや「豚小屋」のような悲惨さに留まることなく、父の家という豊かさに参加することができます。そして自分の義や努力で父の愛を買おうとした兄の姿勢からも解放され、既に与えられた恵みを喜ぶ自由人として歩めるのです。これこそ福音の力であり、教会の希望なのです。 張ダビデ牧師はこの箇所を引用しながら、「人間は神が与えた自由を正しく理解できないで罪に陥ることもあるが、その自由ゆえにいつか戻る道も開かれている」と教えます。神は私たちにロボットのような決定論的従順を望んでおられるのではありません。むしろ「自由意志によって愛を選び取る者」になることを望んでおられます。このたとえの中で放蕩息子は、その自由を誤用して放蕩し苦しみを味わいましたが、最終的には再び“その自由”を用いて父のもとへ戻る決断を下します。そして父は待っていましたと言わんばかりに彼を抱きしめ、口づけして宴会を開いてくれます。兄にも同じ自由が開かれています。「中へ入って弟を共に喜ぶか、それとも外で不満と嫉妬に飲み込まれて立ち尽くすか?」。それもまた兄の自由な選択です。神はこの全過程を通して、人間が自由に「真の愛」に加わることを望んでおられます。そしてその愛の完成こそ、「失われていた者を取り戻す喜び」であり、「死んだようだった者が生き返った者と共に味わう祝宴」です。 … Read more