장재형목사 설립 OTCS 기독교 변증학 과정 신앙의 이유 탐구

장재형목사가 설립한 샌프란시스코 올리벳 신학대학 및 신학교(OTCS)는 2023년 겨울 학기에 “기독교 변증학” 현장 강의를 제공했습니다. 미국 학생과 유학생 모두 온라인 강좌에 등록했습니다. 학생들은 전도와 영적 성장과 관련하여 중요한 주제인 기독교 신앙의 이유에 대해 깊이 있게 탐구하게 됩니다. 조교수인 조셉 리 박사는 변증학 연구를 위한 주요 성경 구절을 공유했습니다: “너희 마음에 그리스도를 주로 삼아 거룩하게 하고 … Read more

낡은 오두막을 허물고 세우시는 하나님의 영광스러운 궁전: 장재형 목사의 로마서 6장 강해

20세기 기독교 지성의 거인으로 불리는 **C.S. 루이스(C.S. Lewis)**는 그의 저서 『순전한 기독교』에서 하나님이 우리 영혼을 변화시키시는 과정을 ‘집 수리’라는 탁월한 비유로 설명했습니다. 대다수의 인간은 그저 지금의 삶에서 비바람이나 피할 수 있는 수준의 ‘살만한 오두막’으로 남기를 고집합니다. 적당한 도덕성과 안락함에 안주하려는 것입니다. 그러나 위대하신 창조주 하나님의 계획은 우리의 예상보다 훨씬 장엄합니다. 그분은 단순히 낡은 벽지를 바르는 … Read more

장재형 목사가 조명하는 성전의 본질과 기도의 역동성

장재형 목사의 강론을 접하다 보면 성경 속 이야기가 단순한 텍스트를 넘어, 우리 삶의 기초를 다시 세우는 생생한 ‘현장’으로 다가옵니다. 그는 역대하 7장에서 솔로몬이 성전 봉헌을 마친 후, 하나님께서 밤중에 나타나 그곳을 ‘제사하는 처소’로 삼으셨다고 선포하신 장면에 주목합니다. 여기서 성전은 인간의 기술적 성취나 조직의 규모를 자랑하는 곳이 아닙니다. 오히려 하나님께서 “내가 이곳에 머물겠다”라고 약속하신 임재의 상징이며, … Read more

律法的圣洁与内心的争战,张大卫(Olivet University)牧师

《罗马书》7章7—25节把信仰揭示为一种“真实地活出来的争战”,而不是“把话说得正确的技巧”。保罗在进行教义性的论证时,并不掩饰生活的纹理;相反,他将自己里面发生的裂缝与抵抗、欲望与良心、渴望与习惯彼此牵引又彼此推拒的激战,毫无遮蔽地摆在我们面前。张大卫(Olivet University)牧师在解经这一段时反复抓住的核心,不是把律法简单贴上“恶”的标签,而是让我们看见:在律法的圣洁与罪的诡诈正面碰撞之处,人类存在的悲剧如何被揭开;以及这悲剧如何被恩典之路突破。“律法是罪吗?断乎不是!”保罗这句坚决的否定,并非推卸责任的借口,而是对律法本然之善的郑重平反。若律法是罪,那么上帝所赐的话语就成了罪,圣洁者的命令也被污染;但保罗绝不走这条路。律法是圣洁的。问题不在律法,而在于:罪在律法面前如何活动,以及被卖给罪的人如何回应。 张大卫牧师解释律法的圣洁时,提出一种“法度”的感受。自然不是无秩序的堆砌,而是秩序的交响;生命也不是任性放纵的奔逸,而是在既定的道路上得以繁茂。鱼在“水”的边界里活着,鸟在“天”的领域里飞翔。边界并非为了压迫生命而存在,而是为了托住生命,使生命按其本相运作。创世记2章17节的“不可吃”也是在同一脉络中理解:那不是为了折磨人而加上的锁链,而是守护人之为人的篱笆。然而罪总是把篱笆解读成监牢——让人把保护误会为压制,把爱的秩序怀疑为控制,最终走向不信任上帝。所以信仰的第一道裂缝,往往不是先从行为出轨开始,而是从认知被扭曲开始:当我把上帝为使我得生而赐下的话语,感受成夺去自由的暴力之时,罪已经在心的中心动摇了我。 保罗举的诫命例子是“不可贪恋”。这使我们无法只把罪理解为外在事件。伤害他人的行为、破坏规范的表面违背固然是罪,但诫命更进一步揭露:孕育一切行为的内在欲望本身,就是罪的温床。张大卫牧师强调十诫最后一条诫命的锋利深度——若此前我们把罪主要与“做出来的事”相连,那么“不可贪恋”却把罪与“里面的渴求”相连。至此,人无法逃避自己的内心。那些曾用来合理化自己的装置——“没人发现”“没有受罚”“宗教外形还在”——瞬间失效。罪不再只是外部发生的事,而成为我里面暗暗滋长的“想要”的方向。也正是在这里,律法的第一重功能显明:律法不是“制造”罪,而是使人“知道”罪。它会刺痛,但那痛是诊断的痛。为了掩盖病灶而止痛,最终只会让全身崩坏。律法揭开我里面的病,使我终于渴望真正的医治。 但保罗又更进一步,描述人在面对律法时所发生的悖论:“然而罪趁着机会,就借着诫命在我里面发动各样的贪心。”罪并非只是“坏选择的总和”,而被描绘为一种狡猾的力量:它能利用善来加固恶。越听见“不可”,越觉得“更想”,这种经验呈现出人类心理诡异却普遍的共性。禁果看起来更甜,紧闭的门更令人好奇,边界之外仿佛藏着更大的自由——冲动就这样被点燃。张大卫牧师所说“极其危险的属灵处境”正在此处:按理说,我们听见上帝的话语应当使罪退去;然而罪却把话语当作跳板,使欲望更执拗地翻涌。因此,在话语面前痛苦的人往往站在两条路口:一条路承认那是“罪被显明的痛”,于是更渴求救恩;另一条路为逃避痛苦,把话语本身转为不舒服的敌人,或滑向冷笑——“反正守不住,那就算了”。保罗揭露:第二条路正是罪的诡计。罪不是靠“除掉律法”而获胜;罪是借着律法,把人推向绝望或吹向骄傲,从而使人远离上帝赐生命的道路而获胜。 “从前没有律法的时候,我是活着的”这句话戳破了“无知的平安”。当人不把罪当作罪来觉察时,会觉得自己“似乎活着”;良心的警报关掉了,生活就轻松了。但那轻松不是健康,而是麻木。“但诫命来到,罪又活了,我就死了。”保罗所说的“死”,是人自义神话的崩塌:我以为自己还不错的自我解释碎裂了,“我不能救自己”的事实变得清晰,于是属灵死亡的阴影笼罩心头。张大卫牧师在此指出律法的界限:律法能显明罪,却不能除去罪。更准确地说,律法不是药方,而是诊断书。诊断书不能使人痊愈,但没有诊断书,人甚至不会承认自己需要医治。于是就出现一个悖论:那本该引向生命的诫命,在经验层面却似乎把人带向死亡。那并非律法失败,而是罪以暴力撕碎诊断书,阻止人走向医治。 在这一点上,张大卫牧师特别提醒要警惕:“借着诫命自我虐待或定罪他人”的态度。罪不只以“把一个人关进绝望”来工作;罪也会把律法扭曲成审判别人的权力。当“圣洁”变成对人的攻击,“公义”变成割裂关系的刀,“良善”堕落为令人窒息的规条主义,律法就不再以生命之路运行。正如保罗所说,诫命并不恶;但罪会利用那善来杀人。因此,福音的位置变得不可或缺。张大卫牧师把《约翰一书》1章9节“我们若认自己的罪,神是信实的,是公义的,必要赦免我们的罪,洗净我们一切的不义”带进来,正因为认罪不是自我解释的延续,而是放下辩护、把自己放在恩典之门前的行动。罪毁坏人的方式里,有一种极致致命的形式并非罪行本身,而是罪疚感的锁链。罪疚可以推动人奔向上帝;但若被撒但的控告扭曲,就会逼人远离上帝。福音不是廉价的纵容——把罪遮起来当作不存在;福音是把罪显为罪,却为罪人开出归途的上帝之爱。因此恩典不是“忽视罪的宽容”,而是“使罪人得生的能力”。 保罗用暗示创世记3章诱惑的方式,把罪的诡诈剖得更深:“罪趁着机会,就借着诫命引诱我,并且杀了我。”这句话的结构,与蛇对夏娃的提问惊人相似:“神岂是真说……吗?”那并非赤裸裸的反抗,而是细微的扭曲。罪起初并不正面否认上帝;罪先让人误会上帝——把诫命误会为压迫,把上帝感受为竞争者而非爱者,最终挑动“要像神一样”的骄傲。张大卫牧师强调的“信心”,不是单纯的乐观,而是对上帝话语之善作出的信任决定。信心在选择的瞬间起作用:当诫命临到,你是把它当作“使我得生的路”,还是误解为“挡住我的墙”,灵魂的方向就由此分岔。因此信仰不能只靠资讯的累积而完成;甚至存在一种反向的危险:知识越多,越容易把上帝当成分析对象,用计算取代信赖,用谈判取代顺服。罪只要达成一件事就够了:打破上帝与人之间的信任合一,把一颗心分裂成两颗心。 https://www.youtube.com/watch?v=mNQZbzWENHs 那么,保罗是不是要我们丢弃律法?恰恰相反。“这样看来,律法是圣洁的,诫命也是圣洁、公义、良善的。”张大卫牧师借此警惕一种“废律法”的误读。恩典越被强调,律法越容易看起来无足轻重;然而失去律法的恩典容易失去方向,失去恩典的律法则会使人窒息。说“在恩典之下”,不是“随便怎么活都行”的放纵,而是宣告罪不再能作主。“罪必不能作你们的主”不是说罪已经消失,而是说罪失去了统治权。因此信徒不是抛弃诫命,而是要站到“使诫命活起来”的位置:若守诫命的努力被当作得救条件,这努力立刻生出绝望;若无视诫命,罪的语言就会统治生活。恩典把这两个极端切开,开出第三条路——在爱里恢复诫命的真义。 保罗接下来的自白,掀掉信仰所有装饰性的假毯子:“因为我属乎肉体,是已经卖给罪了。”张大卫牧师在这里把“卖了”的重量打捞出来:那不只是“被抓住”,而是带着债务、归属、交易的意象——人像被丢进罪的市场的奴隶,无力自救。所以福音核心处出现“赎价/救赎”。救赎意味着有人付出代价,使奴隶得以释放。基督在十字架上付清了价银;那价银不是道德感动,而是生命的代赎。然而,既然已经得救,为什么“卖给罪”的告白似乎仍在持续?这正是成圣时间的所在。称义是地位与资格的改变;成圣却是状态与习惯被改变的漫长而细腻的旅程。人已经成了儿子,却仍带着奴仆的习惯;已经得了国籍,却仍用奴隶的语言思考与反应。在这缝隙里,保罗叹息:“立志为善由得我,只是行出来由不得我。”张大卫牧师所强调的基督徒实存,就是这种不协和音:想爱却先脱口伤人的话,想饶恕却怒火更快升起,这些心灵机制并非证明信仰是假的;恰恰是信仰越认真,这场战争越清晰。 在这一段里,保罗诚实得令人震动:“因为我所做的,我自己不明白;我所愿意的,我并不做;我所恨恶的,我倒去做。”这证明信仰并不把人变成机器人。恩典不删除人的人格;恩典反倒使人更像一个人,同时也使人对自身残存的扭曲更敏感。张大卫牧师提到彼得三次不认主、保罗自身的战兢、客西马尼的痛哭等场景,是为了不掩饰:连有信心的人也真实会惧怕,会摇动。强装刚强的信仰,往往是为了遮盖最软弱的点而戴上的面具;但福音的诚实揭示“软弱里的刚强”。我会跌倒,但跌倒不是身份的结论;我会失败,但失败不是上帝之爱的终结。相反,在失败之处会产生一种分辨:“这就不是我做的,乃是住在我里面的罪做的。”这不是推卸责任,而是属灵辨识——提醒人不要把罪等同于人格的本质。罪像“非法占据者”一般侵入人心,但占据不等于拥有。福音既不无视罪,也不让罪来定义人。因此信仰的智慧在于辨识:分开“按神形像被造的我”与“罪所覆盖的我”;该悔改的就悔改,却不绝望;该争战的就争战,却不自虐。 保罗最终“发现一条律”:他愿意行善时,便有恶与他同在;他里面的“里面的人”喜爱神的律,但肢体中另有个律,与心中的律交战,把他掳去。这里不是单纯心理冲突的描述,而是属灵现实的陈述。人不是只被一种欲望驱动:人既被爱之方向牵引,也被自我中心之方向拉扯;究竟哪一个掌握主导权,决定了生命的轨迹。所以保罗的呼喊“我真是苦啊!”不是败北宣言,而是向真实援助发出的求救信号——自力解决的骄傲终止了,向真正救主的渴望开始了。张大卫牧师说,这样的叹息在成圣之路上极其有益:若没有这叹息,信徒就会不断粉饰;外面装作完全,里面逐渐崩塌,最后落入更深的伪善与更深的孤独。但叹息是脱下面具的恩典:它承认“我仍在路上”,也在“已经”与“尚未”之间紧紧抓住神,成为信仰的呼吸。 在这一切张力的尽头,保罗忽然跳向光:“感谢神,靠着我们的主耶稣基督就能脱离了。”叹息不是最后一句;对罪的描写也不是结论;内心的争战更不是全部。张大卫牧师之所以不把这段经文停留在“人类学式的悲观”里,而要用感谢的颂歌把它缝合,是因为《罗马书》7章终究要过渡到《罗马书》8章的气息:在罪的律与神的律之间被撕裂的灵魂,最后抓住的不是自我修炼,而是基督的恩典。那恩典不只停在“赦罪的判决书”;恩典是在战场中央与我们同站的同在,是每一次跌倒时重新扶起的手,是斩断罪疚链条、使人再次呼吸的生命能力。 若用一幅名画来映照这一段经文,令人想到伦勃朗的《浪子回头》(The Return of the Prodigal Son)。这幅画描绘的是《路加福音》15章的比喻,却与《罗马书》7章所承载的情绪深深相通:画中的浪子筋疲力尽地倒在父亲面前,父亲用双手包住儿子的背;旁边站着的大儿子目光冷峻,带着评判与距离;周围的人物在暗处沉默。关于此画为伦勃朗晚年之作,并被认为收藏于圣彼得堡冬宫(艾尔米塔什博物馆)的说法,暗示这不只是故事插图,而是从生命最深处汲取出来的“归乡之奥秘”。《罗马书》7章里保罗的痛,像火一样灼烧于“为什么我做不出我所愿意的善”这个问题;但它最终抵达“谁能救我脱离这取死的身体呢”的呼求,而呼求的答案是“耶稣基督”。浪子不是先把自己洗净、恢复体面之后才回来;他是以再也无力装饰的破碎样子回来。就在那一刻,父亲的手先触到他。恩典不等待人的整理;恩典在人的崩塌中心开始。伦勃朗仿佛把光聚焦在父亲的手与儿子的肩上——这构图视觉上见证:律法揭开的罪之惨烈之外,恩典所拥抱的生命中心更为清晰。 张大卫牧师的《罗马书》7章讲道之所以对当代基督徒具体而真实,是因为这段经文既不是“努力就行”的简化道德主义,也不是“反正不行所以无所谓”的虚无主义。律法是圣洁的,诫命是良善的,所以我们不远离诫命;同时我们也不靠诫命救自己。我们必须识破:罪如何借着诫命把人推向死亡。当我们越听道越绝望时,要让那绝望成为悔改之门,而不要让它变成控告的牢房;当我们越听道越想定罪别人时,要立刻觉察:那正是罪把诫命变成武器的征兆。所谓在恩典之下,不是轻看罪,而是宣告罪不再拥有最后的判决权。罪仍会引诱、仍会欺骗、仍会伺机而动,但信徒在与基督联合之中仍能重新选择:不再抓住蛇让人误会上帝的语言,而抓住使人信靠上帝的福音语言。贪心涌上来时,与其绝望地认定那就是我的本质,不如分辨那是侵入我里面的“罪之律”,并立刻把它带到光中承认、告白,从而断开锁链。这个过程不会以一次决心终结。成圣是漫长的、重复的,有时甚至令人疲惫;但保罗最后唱出的感谢,是对这条路不徒然的确据。 因此,《罗马书》7章7—25节把我们从“自己”那里拉出来,移到基督面前站立。“我以内心顺服神的律,我肉体却顺服罪的律”这样的结语,并不美化一个人的分裂;它在承认分裂事实的同时,更高举那穿透分裂而运行的恩典真实。张大卫牧师在这段经文里反复打捞出的信息很清楚:不要丢弃律法,也不要把律法当作神。若不认识罪的诡诈而把诫命握在手里,我们很容易刺伤自己也刺伤别人;但若在恩典里领受诫命,诫命就会成为生命的篱笆、揭露罪本相的光,最终成为引我们回到基督怀中的路标。所以信仰最后的语言不是夸口,而是感谢。因为今天仍有一位主,使我们从“我真是苦啊”的位置,跨到“感谢神”的位置。在这条路上,信徒一次又一次学会:不是我用自己的力气把自己救出来;乃是当我把全部交托给那位救我者时,我才真正开始呼吸。而这呼吸,正是张大卫牧师借着《罗马书》7章要在我们里面重新点燃的福音真实。 www.davidjang.org

律法の聖さと内面の戦い―張ダビデ(Olivet University)牧師

ローマ書7章7〜25節は、信仰を「正しく語る技術」ではなく「真実に生き抜く闘い」として露わにする本文である。パウロは教理的な論証を進めながらも、人生の肌理(きめ)を隠さない。むしろ彼は、自分の内側で起こる亀裂と抵抗、欲望と良心、憧れと習慣が互いを引き寄せ、押し返し合う激戦を、そのまま告白する。張ダビデ(Olivet University)牧師がこの箇所を講解する際に繰り返し握りしめる核心は、律法を悪として断罪する単純な図式ではない。律法の聖さと罪の狡猾さが衝突する地点で露呈する人間実存の悲劇、そしてその悲劇を突き破る恵みの道である。 「律法は罪なのか。決してそうではない」というパウロの断固たる否定は、律法を退ける口実ではない。むしろ律法の本来的な善さを、いっそう鮮やかに回復させる宣言である。もし律法が罪だとするなら、神が与えたみ言葉が罪となり、聖なるお方の命令が汚れたものになってしまう。しかしパウロはその道を選ばない。律法は聖い。問題は律法そのものではなく、律法の前で罪がどのように動くのか、そして罪に売られた人間がどのように反応するのかにある。 張ダビデ牧師は律法の聖さを説明する際、「法度(はっと)」という感覚を取り出す。自然は無秩序の寄せ集めではなく秩序の交響曲であり、いのちは気ままな放縦ではなく、定められた道の上で繁栄する。魚は水という境界の中で生き、鳥は空という領域の中で飛ぶ。境界は生を抑圧するためにあるのではなく、生が生らしく働くことを支える枠である。創世記2章17節の「食べてはならない」という禁止命令も同じ文脈で読まれるべきだ。その命令は人間を苦しめる足かせではなく、人間が人間らしく存在するために守る垣根だった。ところが罪は、垣根をいつも「牢獄」に読み替えさせる。守りを抑圧と誤解させ、愛の秩序を支配と疑わせ、ついには神への信頼を崩す。だから信仰の最初の亀裂は、多くの場合、行動の逸脱よりも認識のねじれから始まる。神が私を生かすために下さったみ言葉を、私が自由を奪う暴力のように感じる瞬間、罪はすでに心の中心を揺さぶっている。 パウロが例として挙げた戒めは「貪ってはならない」である。これは罪を、外側に現れた出来事としてだけ見させない。誰かを傷つけた行為、規範を破った表面的な違反だけが罪ではない。そのすべてを孕む内面の欲望そのものが、罪の温床であることを戒めは暴く。張ダビデ牧師は十戒の最後の戒めが持つ鋭い深みを強調する。以前は罪を「実行」と結びつけて理解していたとしても、「貪ってはならない」は罪を「渇望」と結びつけて理解させる。このとき人間は自分の内側から逃げられない。誰にも見つかっていないから、社会的な処罰を受けていないから、宗教的な外形を保っているから――そうした自己正当化の装置が無力化される。罪はもはや外部の事件ではなく、内にひそかに育つ「欲しがる方向性」となる。そしてここで律法の第一の機能が現れる。律法は罪を「作り出す」のではなく、罪を「知らせる」。痛みを伴うが、それは診断の痛みである。病を隠すために痛みだけを消せば、やがて身体全体が崩れる。律法は内なる病を露わにし、ついに私が治療を渇望するよう追い立てる。 しかしパウロはさらに一歩進み、律法に向き合う人間の内側で起こる逆説を語る。「罪は機会をとらえ、戒めによって、私のうちにあらゆる貪欲を生み出した。」罪は単なる「悪い選択」の総和ではなく、善いものを利用して悪を強める狡い力として描かれる。「してはならない」と聞くほど、かえって「したい」が増幅する経験は、人間心理の奇妙な普遍性を示す。禁じられた実はより甘く見え、閉ざされた扉はより気になり、境界の外にこそ大きな自由があるかのように感じる衝動が生まれる。張ダビデ牧師が語る「危険きわまりない霊的状況」とはまさにこれだ。み言葉を聞けば罪が去るべきなのに、罪はみ言葉を踏み台にして、より執拗な欲望を起こす。だからみ言葉の前で苦しむ人は二つの道に立つ。一つは、その苦しみを「罪が暴かれる痛み」として認め、救いを渇望する道。もう一つは、その痛みを避けるためにみ言葉そのものを不都合な敵として退けるか、あるいは「どうせ守れないのだから、いっそ好きにしよう」という冷笑へ滑り落ちる道である。パウロは後者が罪の策略であることを暴く。罪は律法をなくすことで勝利するのではない。罪は律法を利用し、人を絶望へ追い込むか、逆に高慢で膨らませ、結局は神が与えるいのちから遠ざけることで勝利する。 「かつて律法を悟らなかったとき、私は生きていた」という言葉は、無知の平安を告発する。罪を罪として自覚しなければ、人は「生きているように」感じる。良心の警報が切れれば人生は楽になる。しかしその楽さは健康ではなく麻痺だ。戒めが来ると罪が生き返り、私は死んだ――というパウロの告白は、人が自分の義しさの神話を失う死である。自分は大丈夫な人間だという自己解釈が崩れ、「私は自分を救えない」という事実が鮮明になる瞬間、人は霊的死の影を実感する。張ダビデ牧師はここで律法の限界を語る。律法は罪を暴くが、罪を除去することはできない。より正確に言えば、律法は治療薬ではなく診断書である。診断書は病を治せないが、診断書がなければ治療の必要すら認められない。だから律法が本来「いのちへ導く戒め」であるにもかかわらず、かえって死へ導くもののように感じられる逆説が生まれる。その逆説は律法の失敗ではなく、罪が診断書を引き裂いて治療へ進ませない暴力である。 この地点で張ダビデ牧師が特に警戒するのは、「戒めによって自分を自虐し、あるいは他者を断罪する態度」だ。罪は一人を絶望に閉じ込める仕方でだけ働くのではない。罪は律法を歪め、他者を裁く権力としても用いる。「聖さ」が他者への攻撃となり、「正しさ」が関係を裂く刃となり、「善さ」が共同体を息苦しくする規律主義へ堕落するとき、律法はもはやいのちの道として機能しない。パウロが言うとおり戒めは悪ではない。しかし罪はその善いものを用いて人を殺す。だから福音の場が必要になる。張ダビデ牧師がヨハネ第一の手紙1章9節の「罪を告白するなら清めてくださる」という約束を引いてくる理由もここにある。告白は自己弁護の放棄であり、恵みの門の前に自分を降ろす行為だ。罪が人を破壊する最も致命的な仕方の一つは、罪そのもの以上に「罪責感の足かせ」である。罪責感は神へ走らせることもできるが、サタンの訴えとして変質すると神から逃げさせる。福音は罪を覆って罪でないことにする安っぽい放任ではない。福音は罪を罪として暴きつつ、罪人に帰る道を開く神の愛である。だから恵みとは「罪を無視する寛大さ」ではなく、「罪人を生かす力」なのだ。 パウロは創世記3章の誘惑を暗示するようにして、罪の狡猾さをさらに深く掘り下げる。「罪は機会をとらえ、戒めによって私を欺いた」という言葉は、蛇がエバに投げかけた問いの構造と似ている。「神は本当に……と言われたのか」という文は、露骨な反抗ではなく微細なねじれである。罪は最初から神を正面から否定しない。罪は神を誤解させる。戒めを抑圧と誤解させ、神を愛ではなく競争相手のように感じさせ、ついには「神のようになりたい」という高慢を刺激する。張ダビデ牧師が強調する「信仰」とは、単なる楽観ではなく、神のことばの善さを信頼する決断である。信仰は選択の瞬間に働く。戒めが聞こえたとき、それを「私を生かす道」と受け取るのか、「私を阻む壁」と誤解するのかによって、魂の向きは分かれる。だから信仰は情報の蓄積だけで完成しない。むしろ知識が信仰を崩す仕方も存在する。知識が増えるほど、神を分析対象にしてしまい、信頼ではなく計算を選び、従順ではなく交渉を試みる心が大きくなり得るからだ。罪が望むのはただ一つ――神と人との間にある信頼の一致を破り、つまり一つの心を二つの心へ裂くことである。 ではパウロは律法を捨てようと言っているのか。まったく逆である。「律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、善い。」張ダビデ牧師はこの言葉によって、律法廃棄論的な誤解を戒める。恵みが強調されるほど、律法が無価値に見えることがある。しかし律法を失った恵みは方向を失いやすく、恵みを失った律法は人を窒息させる。「恵みの下にある」ということは「どう生きてもよい」という放縦ではなく、罪がもはや主人ではないという解放の宣言である。「罪があなたがたを支配することはない」という言葉は、罪が消えたという意味ではなく、罪が統治権を奪われたという意味だ。ゆえに信者は戒めを捨てるのではなく、戒めが生きる場所へ立ち位置を移す必要がある。戒めを守ろうとする努力それ自体が救いの条件になると、その努力は直ちに絶望を生む。反対に戒めを無視すれば、罪の言語が人生を支配する。恵みはこの両極端を分かつ第三の道――愛の中で戒めの真意を回復する道である。 パウロの次の告白は、信仰を飾るあらゆる偽りの毛布を引き剥がす。「私は肉に属し、罪のもとに売られている。」張ダビデ牧師はここで「売られている」という表現の重さを汲み上げる。それは単に「捕まった」ではなく、負債と隷属と取引のイメージを含む言葉だ。人は自分を救い出す力がなく、罪の市場に投げ出された奴隷のように描かれる。だから福音の中心に「贖い」が登場する。贖いとは、誰かが代価を支払うことで奴隷が解放される出来事である。キリストは十字架で代価を支払われ、その代価は単なる道徳的感動ではなく、いのちの身代わり(代贖)である。けれども救われたのに、なぜ「売られている」という告白が続くのか。ここに聖化の時間がある。義認が地位と資格の変化なら、聖化は状態と習慣が変わっていく長く繊細な旅である。すでに子とされたのに、なお奴隷の習慣が身体に残っている。すでに市民権を得たのに、なお奴隷の言葉で考え、反応してしまう時間がある。このギャップの中でパウロは嘆く。「善を望む思いは私のうちにあるが、それを行うことができない。」張ダビデ牧師が強調するキリスト者の実存は、まさにこの不協和音である。したいことと実際にしていることの隔たり、愛したいのに傷つける言葉が先に飛び出る現実、赦したいのに怒りがより速く燃え上がる心のメカニズム――それは信仰が偽物だからではない。信仰が真剣になればなるほど、より鮮明に体験される戦いなのである。 この箇所でパウロは驚くほど正直だ。「私がしていることが分からない……私が望むことを行わず、かえって憎むことをしてしまう。」信仰が人間をロボットに変えるのではないことの証拠がここにある。恵みは人の人格を削除しない。むしろ人をより人間らしくしつつ、同時に人の内に残る歪みをより敏感に感じさせる。張ダビデ牧師がペテロの否認、パウロ自身の震え、ゲツセマネの涙のような場面を呼び起こすのは、信仰の人にも恐れと揺らぎが実在することを隠さないためだ。強いふりをする信仰は、しばしば最も弱い部分を隠すための仮面である。しかし福音の正直さは「弱さの中の強さ」を示す。私は倒れるが、倒れたことが私の正体の結論ではない。私は失敗するが、失敗が神の愛の終わりではない。むしろ失敗の場所で「それを行っているのはもはや私ではなく、私のうちに住む罪だ」という識別が生まれる。これは責任回避ではなく霊的識別である。罪を自分の人格の本質と同一視してはならないという警告だ。罪は不法占拠者のように人を占領するが、その占領が所有権を意味するわけではない。福音は罪を軽く扱わないが、罪が人を規定することも許さない。だから信仰の知恵とは識別の知である。内なる「神のかたちとしての私」と「罪が覆い被せた私」を分け、悔い改めるべきことは悔い改めつつ絶望せず、戦うべきことは戦いつつ自虐へ落ちない――その均衡が必要となる。 パウロはついに「一つの法則」を見いだす。善を行いたい自分に悪が共にあること、内なる人は神の律法を喜ぶが、身体のうちには別の法があって心の法と戦い、自分を捕虜にするという事実である。これは単なる心理的葛藤ではなく、霊的現実の陳述だ。人は単一の欲望だけで動かない。愛の方向にも自己中心の方向にも同時に引かれる。そのうち何が主導権を握るかによって、人生の軌跡は変わる。だからパウロの嘆き――「ああ、私はなんと惨めな人間なのだろう」――は敗北宣言ではなく、本当の助けを求める救難信号である。自分の力で解決しようとする高慢が終わり、真の救い主への渇望が始まる場所だ。張ダビデ牧師がこの嘆きを、聖化の道において非常に有益だと言う理由もここにある。この嘆きがなければ、信者は自分を粉飾し続ける。外側では完全なふりをし、内側では崩れ、結局さらに深い偽善とさらに深い孤独へ落ちる。しかし嘆きは仮面を剥がす恵みである。嘆きは「私はまだ道の途中にいる」という告白であり、「すでに」と「まだ」の間で神にしがみつく信仰の呼吸である。 このすべての緊張の果てに、パウロは突然、光へ跳躍する。「私たちの主イエス・キリストによって、神に感謝する。」嘆きが最後の文ではない。罪の描写が結論ではない。内面の戦いがすべてではない。張ダビデ牧師がこの本文を単なる人間学的悲観で終わらせず、感謝の賛歌で縫い合わせるのは、ローマ書7章が結局ローマ書8章の息吹へ渡っていくからである。罪の法と神の律法の間で引き裂かれる魂が最後に握りしめるのは、自己修養ではなくキリストの恵みだ。その恵みは罪を赦す判決文にとどまらない。恵みは戦場のただ中で共に立ってくださる臨在であり、倒れるたびに起こしてくださる手であり、罪責の鎖を断ち切って再び息をさせるいのちの力である。 この箇所を一幅の名画に照らしてみるなら、レンブラントの『放蕩息子の帰還(The Return of the Prodigal Son)』が思い浮かぶ。この作品はルカ15章のたとえを描くが、ローマ書7章が抱く情緒とも深く響き合う。絵の中で放蕩息子は疲れ果てた身体で父の前に崩れ落ち、父はその背を両手で包み込む。片隅に立つ兄の視線は冷たい評価と距離を宿し、周囲の人物は闇の中で沈黙している。この絵がレンブラント晩年の作品であり、サンクトペテルブルクのエルミタージュ美術館所蔵として知られているという事実は、この場面が単なる物語の挿絵ではなく、人生の最深部から汲み上げられた「帰郷の神秘」であることを暗示する。ローマ書7章におけるパウロの痛みは、「なぜ私は望む善を成し遂げられないのか」という問いとして燃え尽きそうになるが、その問いが最後に辿り着くのは「だれが私を救い出してくれるのか」という嘆願であり、その答えは「イエス・キリスト」だ。放蕩息子は自分の力で身を清め、体面を回復してから帰るのではない。もはや飾れないほど壊れた姿のまま帰る。まさにその場所で、父の手が先に触れる。恵みは人間の整えを待たない。恵みは人間の崩壊のただ中で始まる。レンブラントが光を父の手と子の肩に集中させるかのような構図は、律法が暴いた罪の惨状を越えて、恵みが抱きとめるいのちの中心を視覚的に鮮やかに証言している。 張ダビデ牧師のローマ書7章説教が今日のキリスト者にとって現実的である理由は、この本文が「頑張ればできる」という単純な道徳主義でもなく、「どうせ無理だから大丈夫だ」という虚無主義でもないからだ。律法は聖く、戒めは善い。ゆえに私たちは戒めを遠ざけない。同時に私たちは戒めによって自分を救おうともしない。罪が戒めを利用して私たちを殺す構造を見抜かなければならない。み言葉を聞くほど絶望が深まるとき、それが悔い改めの門となるようにしなければならず、訴えの牢獄にしてはならない。み言葉を聞くほど他者を断罪したくなるとき、それが罪が戒めを武器へ変えた兆候だと気づかねばならない。恵みの下にあるとは、罪を軽く見ることではなく、罪がもはや最終判決権を持たないということだ。罪はなお誘惑し、なお欺き、なお機会をうかがう。しかし信者はキリストとの結合の中で、再び選び直すことができる。神を誤解させる蛇の言葉ではなく、神を信頼させる福音の言葉を掴むことができる。貪欲が湧き上がるとき、それを自分の本質だと絶望するよりも、それが自分の内に侵入した罪の法であると識別し、ただちに光の中へ持ち出して告白することで鎖を断ち切ることができる。その過程は一度の決断で終わらない。聖化は長く、反復的で、ときに疲れさせる。しかしパウロが最後に歌う感謝は、その道が無駄ではないという確証である。 結局、ローマ書7章7〜25節は、私たちを自分自身から引き離し、キリストのもとへ移し立てる。「自分は心では神の律法に仕え、肉では罪の法に仕える」という結びは、人間の分裂を美化しない。むしろ分裂の事実を認めつつ、その分裂を貫いて働かれる恵みの実在を、いっそう大きく顕す。張ダビデ牧師がこの本文から繰り返し汲み上げるメッセージは明快だ。律法を捨ててはならない。律法を神にしてもならない。罪の狡猾さを知らずに戒めを握れば、私たちは自分と他者を刺してしまう。しかし恵みの中で戒めを受け取るなら、戒めは命の垣根となり、罪の正体を暴く光となり、ついにはキリストの懐へ帰らせる案内となる。だから信仰の最後の言葉は自慢ではなく感謝である。今日も「ああ……」の場所から「感謝する」へ渡らせてくださる方がおられるからだ。その道の中で信者は毎回新しく学ぶ。自分の力で自分を救い出すのではなく、自分を救い出してくださる方にすべてを委ねるとき、初めて息をするのだということを。そしてその息づかいこそ、張ダビデ牧師の説教がローマ書7章において私たちに蘇らせようとする、福音の現実なのである。 日本オリベットアッセンブリー教団 www.davidjang.org

La sainteté de la Loi et la guerre intérieure — Pasteur David Jang (Olivet University)

Romains 7.7–25 est un passage qui révèle la foi non comme une « technique pour parler correctement », mais comme un « combat pour vivre avec vérité ». Paul développe une argumentation doctrinale sans jamais dissimuler la texture de sa vie. Au contraire, il expose à nu les fissures et les résistances qui se produisent … Read more

The Holiness of the Law and the Inner War — Pastor David Jang (Olivet University)

Romans 7:7–25 is a passage that reveals faith not as “a technique for speaking correctly,” but as “a struggle to live truthfully.” Paul presents doctrinal argumentation, yet he does not conceal the grain of real life. Instead, he exposes—without varnish—the fierce battle within: fractures and resistance, desire and conscience, longing and habit, pulling and pushing … Read more

율법의 거룩함과 내면의 전쟁, 장재형(Olivet University)목사

로마서 7장 7-25절은 신앙을 “바르게 말하는 기술”이 아니라 “진실하게 살아내는 투쟁”으로 드러내는 본문이다. 바울은 교리적 논증을 하면서도 삶의 결을 숨기지 않는다. 오히려 자기 내부에서 일어나는 균열과 저항, 욕망과 양심, 열망과 습관이 서로를 끌어당기고 밀쳐내는 격전을 그대로 노출한다. 장재형(Olivet University)목사가 이 대목을 강해하면서 반복해 붙드는 핵심은, 율법을 악으로 몰아가는 단순한 도식이 아니라 율법의 거룩함과 죄의 간교함이 맞부딪히는 지점에서 드러나는 인간 실존의 비극, 그리고 그 비극을 돌파하는 은혜의 … Read more

장재형목사, 성막의 신비와 예수 그리스도

장재형목사가 전하는 히브리서 9장 묵상은 성막과 성전이라는 구약적 제도를 통해 단번에 이루어진 속죄의 본질을 드러내며, 새 언약의 대제사장이신 예수 그리스도를 중심으로 양심의 정결과 영과 진리의 예배가 무엇인지 깊이 성찰하게 한다. 히브리서 9장을 따라 묵상하다 보면, 신앙의 무게중심이 과연 어디에 놓여 있는지를 되묻게 하는 질문이 우리 앞에 선다. 장재형목사가 해설하는 이 본문은 제사장직의 우열을 논하는 데서 … Read more

디도서 1장 강해: 장재형 목사가 밝히는 장로의 자격

사도 바울이 영적 아들이자 사랑하는 동역자인 디도에게 남긴 편지는 오늘의 목회가 어디에 뿌리를 두고, 교회가 어떤 기초 위에 서야 흔들리지 않는지를 탁월하게 보여 준다. 디도서 1장 5절의 “남은 일을 정리하고 내가 명한 대로 각 성에 장로들을 세우게 하려 함”이라는 말은 행정 지침의 문구처럼 보이지만, 그 안에는 사도적 사명의 핵심과 교회론의 뼈대, 그리고 거짓과 진리 사이에서 벌어지는 영적 전쟁의 현장이 진하게 새겨져 있다. 장재형 … Read more

Pasteur David Jang – La parabole du fils prodigue

1. L’essence de l’Évangile contenue dans la parabole du fils prodigue Le chapitre 15 de l’Évangile selon Luc est largement reconnu comme l’un des passages qui exposent de la manière la plus claire l’essence de l’Évangile. Après la « parabole de la brebis perdue » et la « parabole de la drachme perdue », on … Read more