堕落と救い ― 張ダビデ牧師
張ダビデ牧師が創世記3章と4章を中心に説教した「人間の堕落、サタンの正体、そして聖徒の対応」についてまとめた内容である。創世記1章と2章の「創造」、そして3章と4章の「堕落」、さらにイザヤ書14章、エゼキエル書28章、ヨハネの黙示録12章など関連する箇所を総合的に扱い、最終的に主の祈りの中の「試みに遭わせず(=試みに陥ることなく)」という願いと結びつけながら、張ダビデ牧師が伝える教訓を深く掘り下げている。神が造られた被造物の中でなぜサタンが生じたのか、そのサタンが人間をどのように誘惑するのか、そして聖徒はどのような姿勢で対峙すべきかを取り上げた内容である。 1. 人間の堕落とサタンの戦略 張ダビデ牧師が創世記3章と4章を重点的に考察すべきだと強調する理由は、人間の堕落がどのように起こり、その根源がどこにあるのかを余すところなく把握するためである。創世記1章と2章には、神が全宇宙万物を創造された記録が収められている。神は闇の中に光を創られ、天と地を分け、海と陸、そしてさまざまな生き物を造られた。そしてそのすべての創造の頂点として人間を造られたが、男と女を神のかたちに造られたのである。これが創世記1章と2章の核心である。張ダビデ牧師は、「創世記1、2章を正しく理解することが、その後に登場する人間の堕落(創世記3章)や、その子孫であるカインの問題(創世記4章)を理解するための不可欠な前提だ」と語る。なぜなら、創造そのものが善であり完全であり、罪や死が存在しなかった世界を神が造られたという事実をまず知ってこそ、そこからいかに“変質”が起こったのか観察できるからである。 ところが創世記3章に入ると、全く予想外の存在が登場する。それは「神である主が造られた野の獣のうちで最も狡猾な蛇」である。この蛇は人間、すなわちアダムとエバに近づき、「本当に神は、園のすべての木の実を食べてはならない、と言われたのか?」と問いかけ、彼らの心に疑念を呼び起こす。張ダビデ牧師は、この問いこそが人間とサタンの接点において最も重要な場面だと指摘する。なぜなら、「神が仰せになった言葉」に従うのか、それとも人間が自ら別の基準を立てて不従順に進むのかが決まる分岐点だからである。 蛇はエバに「あなたたちは決して死なない」と語る。これは明らかに偽りである一方、とても魅惑的な宣言でもある。なぜなら神は「善悪を知る木から取って食べてはならない。その実を食べる時には必ず死ぬ」と仰せられたゆえ、それをそのまま信じて従う者には恐れや警戒心が芽生えるからだ。だが蛇はその恐れを崩し、「あなたたちは死なないだけでなく、むしろ神のようになれる」と扇動する。張ダビデ牧師は、この箇所からサタンの作動原理と特徴が明らかになると述べる。サタンは全く自分勝手な悪しき目的のために、神の言葉を偽りへと歪曲する。場合によっては非常にもっともらしく見える論理や、自分の都合に合わせた解釈を持ち出し、結果的に聖徒を「神中心」ではなく「自己中心」の位置へと引きずり下ろすのである。 張ダビデ牧師は創世記3章でのエバの反応に注目する。エバはこの善悪の木の実を「見ると食べるのによさそうで、目に慕わしく、賢くしてくれそうで好ましく思った」と言う。ここには、「見ること」(視覚的刺激)→「手で取ること」(直接的アプローチ)→「口にして食べること」(実際の行為)へと進む、一連の罪のメカニズムが示唆されている。罪は往々にして小さな好奇心から始まるが、最終的には全人格を汚し、やがて死に至らせるものである。 張ダビデ牧師はここに「試みに遭わせないでください」という主の祈りの願いが深く結びついていると説く。人間が受けうる最も大きな試みの一つは「神の座に上ろうとする高慢」であり、サタンが鋭く突いてくる部分だからである。人間は本来、神の被造物としてその言葉に従うことで祝福を享受するよう造られたが、自ら善悪を判断する座、すなわち自分自身を基準とする座に上ろうとするとき、結局は蛇の誘惑に陥る。これこそが張ダビデ牧師が力説する核心的な要旨である。 創世記3章のこうした流れの中で、アダムとエバは結局、禁じられた実を食べてしまう。その結果として最初に現れた兆候は何か。お互いに裸であることを恥じ、いちじくの葉をつづり合わせて腰の覆いを作ったことだ。また神が園を歩まれるとき、「恐れて隠れた」と記録されている。これは罪がもたらす結果を明確に示す象徴だ。罪は神の前で恥ずかしさ(霊的な羞恥心)を生み、そのため人間は自ら防御策を作り出し(いちじくの葉の衣)、最終的にその臨在から遠ざかってしまう(隠れてしまう)。 創世記3章の最後では、より決定的な裁きが宣言される。「あなたはちりであるから、ちりに帰るのだ」「人が善悪を知ることにおいて我々の一人のようになったので、命の木にも手を伸ばして永遠に生きることのないよう、その道が閉ざされた」といったくだりは、人間が「不従順」と「自己中心的な高慢」を選んだ結果招いた悲劇的結末を示す。サタンの最大の嘘は「決して死なない」だったが、実際には「必ず死ぬ」結果へとつながったのである。張ダビデ牧師はここで私たちが忘れてはならない真理を強調する。すなわち、人間の堕落はただエバが善悪の実を取って食べた瞬間にとどまらず、その後すべての人類へと原罪として受け継がれ、今日私たちもその影響下に生まれるという点である。 創世記4章に進むと、アダムの子孫カインの物語が登場する。カインは弟アベルを妬み、ついには殺人にまで至る。これは「自己中心的欲望」がどれほど急速に広がり、罪と死の実を結んでいくかを鮮明に示す事例だ。張ダビデ牧師はカインの堕落を「サタンが引き起こした堕落のさらなる拡大」と解説する。創世記3章で個人的次元から始まった堕落が、創世記4章では兄弟間の殺人によって本格的に世に広がっていく。すでに罪が入り込んだため、人間の心は「蛇の嘘」にますます振り回され、ついには兄弟殺しという極端な罪悪に進んでしまったのである。 聖書を一章ずつ読んでいくと、創世記4章でカインがどれほど自己中心的に振る舞うかが如実に表れている。神は彼がささげた捧げ物を受け入れず、「カインとその捧げ物を顧みられなかった」と記す。なぜ神がカインの捧げ物を喜ばれなかったのか、さまざまな解釈があるが、張ダビデ牧師はその中心の動機に着目すべきだと言う。カインに現れたのは、「自分が望むやり方で神を拝もう」という姿勢だった可能性が高い。心の中心が最初から神に捧げられたものではなく、自己中心的な満足のため、あるいは義務感で捧げた供え物であったならば、当然、神はその捧げ物を喜ばれないであろう。そこで生まれた嫉妬や怒りが、弟アベルを殺す大きな罪へと発展してしまうのだ。 創世記3章と4章のこの叙事が現代に生きる私たちに示唆するところは明白である。罪の始まりはかすかな疑いであるが、それが心に蒔かれ放置されると、高慢と虚偽の解釈、自己中心的判断へと走る。そして人間はその結果、霊的死、他者との葛藤、果てには殺人にさえ至ってしまう。張ダビデ牧師は、すべての聖徒がこの「起源的堕落の様相」をはっきりと認識すべきだと強調する。そうすることで、新約においてイエス・キリストが来られ、この問題を解決されたという事実を、創世記3章と4章の正確な理解を通してより深く悟るようになるからだ。 張ダビデ牧師は、人間が罪の根を正しく悟らなければ、イエス・キリストの贖罪の働きと十字架の恵みがいかに大いなる奇跡であり愛であるかを知ることができないと語る。結局のところ、私たちは創造主なる神が人間に与えられていた完全なご計画から遠ざかったが、その計画を回復するために御子を送られたという壮大なみわざこそが救いの本質なのである。すなわち、創世記3章で蛇が持ち込んだ「神のようになりたい」という野心を、イエス様はピリピ書2章が語るように「ご自分を無にして、しもべのかたちをとられ」ることで真正面から打ち砕かれたのだ。イエス様は神であられたにもかかわらず、徹底的にへりくだり、死に至るまで従順となられることで、サタンが煽った高慢に打ち勝たれた。ゆえに救いもまた、「高慢を捨て、自らを低くする」キリストに従う道においてこそ実を結ぶ。 こうした観点から、張ダビデ牧師は創世記3章と4章を学ぶ目的の一つとして、サタンの戦略と人間の内面の脆さを発見することを挙げる。そしてそれを的確に認識し、主の御前で悔い改めることで、もはや蛇の誘惑に屈しない実践が必要だという。そのためには日々み言葉を黙想し、共同体の中で真理の光に照らされ、自らが誤った道に陥らないよう点検する過程が欠かせない。その過程で常に「本当に神はこれを望まれているのか?」を基準としつつ、「主よ、私を試みに遭わせず、悪からお救いください」と祈りながら自分を省みる姿勢が決定的に重要となる。高慢こそサタンが蒔く最も強力な武器であり、あらゆる罪や堕落を引き起こすがゆえ、聖徒は常に目を覚まして祈り、自らを低く保たなければならないというのが、張ダビデ牧師の教えである。 2. サタンの正体と堕落した天使たち 張ダビデ牧師は、蛇の正体が最終的には「サタン」「悪魔」「竜」であると黙示録12章で明確に示されている、と解説する。蛇は単なる象徴的動物ではなく、神に反逆した堕落した天使長、または天使の群れの頭が具現化した存在である。この観点から、創世記3章の蛇を単なる動物的なヘビだと読むだけでは、聖書全体が語る救いの歴史を見失いかねない。サタン、ルシファー、悪魔、竜、全世界を惑わす者など、聖書のあちこちで多様な呼称が登場するが、その根源は同一である。この存在は神が造られた被造物の一つであったが、自らの地位を離れて高慢を抱き「いと高き方のようになろう」と試みた結果、堕落した天使の群れとなったのである。 張ダビデ牧師は、イザヤ書14章とエゼキエル書28章に言及されている「バビロンの王」や「ツロの王」への比喩が、事実上サタンの姿、特にそれらの王たちの背後にある「堕落した天使」の姿を指し示していると説く。イザヤ書14章の表現を詳しく見ると、「暁の子、明けの明星よ。どうして天から落ちたのか。諸国を倒した者よ。どうして地に切り倒されたのか」とある。この「明けの明星」(ラテン語訳聖書ではルシファーLucifer)は、もともと神のそばで光り輝いていた天使長であったことを暗示する。それにもかかわらず、「北の果ての山の上に座ろう。いと高き方のようになろう」と心に抱き、反逆を企てた。それこそがサタンの本質的な罪であり、彼が奈落へと落とされた最大の理由である。 エゼキエル書28章においてもツロの王への比喩の中で、もともと「油注がれた守護のケルブ」としてエデンの園にいた者が、その仲間とともに堕落し、縛られていくというくだりが出てくる。これは「原初の堕落」が人間より先に天使の世界で起こったことを示している。張ダビデ牧師は、「私たちは聖書を通して、人間だけが堕落した存在なのではなく、人間を誘惑し陥れようとする霊的勢力が実在することをはっきりと知る」と強調する。そして、それこそ教会が霊的な戦いを担わなければならない重要な理由だと説く。 黙示録12章では大きな竜が追い落とされるが、「その古い蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれる者、全世界を惑わす者」とはっきり名指しされる。このサタンが天から落ちるとき、天の星の3分の1を引き連れて地上に落ちたとも記録されている。これは堕落した天使の集団がそれほど多いことを示している。サタンはただ一人で堕落したのではなく、彼を追従する天の軍勢の3分の1ほどが共に反逆したのだ。彼らは空中の権を握り、今もなお絶えず人間に誘惑と欺きの手を伸ばし、ときには支配者や権威者を通じて歴史に働きかける。エペソ書6章に「私たちの戦いは血肉に対するものではなく、支配者たち、権威たち、この暗闇の世界の支配者たち、天上の悪の霊どもに対する」とあるが、まさにこの文脈を指しているのである。 張ダビデ牧師は、この霊的世界を知らなければ、世の多くの問題を単なる人間同士の対立や制度の矛盾だけにとどめてしまい、見落とすことになると警告する。実際の歴史の現場では、サタンは隙間を見つけて権力者や悪の勢力を用い、陰謀をめぐらす。パロが神の民イスラエルを苦しめたときや、バビロンの王やアッシリアの王が周辺国を征服し、残酷に民を虐殺したとき、その背後にはサタンの本性である「高慢と暴力」が潜んでいるという。こうした流れの中で、サタンは常に自分自身を高め、偶像礼拝を助長する。旧約時代に数々の偶像が存在したのも、結局は神の栄光を横取りしようとするサタンの企みの一つの形にほかならない。 バアル礼拝は民を性的に乱れさせ、モレク礼拝は子どもを人身供犠として捧げるという恐るべき行為まで誘導する。金の子牛の崇拝は富や財産を中心に据えるマモン主義を代表する象徴となる。張ダビデ牧師は、こうしたすべての偶像の背後に「サタンの高慢と暴力性が潜んでいる」と語る。サタンは神が受けるべき栄光と礼拝を、自分が横取りするために偶像を発展させ、人間はその誘惑に負けて金の子牛の前で踊り狂い、モレクの前で子どもを火で焼いて捧げるという、無知で残酷な行為を犯してきたのだ。 そしてこのサタンの惑わしは、旧約時代だけでなく新約時代、さらに現代に至るまで続いている。イエスが荒野で40日断食をなさったとき、サタンは自らやってきて三つの試みをしかけた。「もしあなたが神の子なら、この石をパンに変えてみよ」「神殿の頂から飛び降りてみよ。そうすれば天使たちが支えて、あなたは傷つかないだろう」「もし私を拝むなら、世のすべての栄華を与えよう」というふうに。張ダビデ牧師は、これこそサタンが人間を誘惑するときに使う基本パターン、すなわち「肉体的欲求(食べ物)」「名誉や人気(奇跡による羨望)」「物質と権力(世の王国)」を揺さぶり、最終的に信仰を崩そうとする作動原理であると指摘する。イエスは「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」と仰り、もっぱら御言葉によってサタンの誘惑を一蹴された。結局サタンは敗北して立ち去り、イエスのもとに天使たちが仕え始めた。この出来事は聖徒たちに大きな教訓を与える。み言葉を知り、その言葉に徹底的に従うとき、高慢や欲を煽るサタンの奸計を打ち破ることができるのだ。 張ダビデ牧師は、こうした霊的な戦いが今でも続いているのだと力説する。私たちが意識的にも無意識的にも「自分が神のように善悪を判断する」とか「自分がみ言葉より上位に立って独自の基準を設ける」といったとき、実のところサタンの論理に同調していることになる。教会の中でもいくらでもそういうことが起こりうる。パリサイ人や律法学者がイエスに敵対して、主の権威を認めず、「あの人は悪霊に取りつかれている」「安息日を破っている」と非難した姿こそ、宗教的な装いをしてはいるが実際にはサタン側についている典型例といえる。イエスは彼らに対し、「蛇ども、まむしの子らよ、おまえたちはどうして地獄の裁きを逃れることができようか」とまで仰せられた。一方、イエスは娼婦や取税人のように自ら罪を自覚し悔い改める者には救いをお与えになり、その憐れみと愛を体験させてくださった。 ユダの手紙1章6~7節にも、堕落した天使、すなわち自分の地位を守らず、自分の住むべき所を離れた者が、永遠の鎖で暗闇に閉じ込められたと宣言される。堕落した天使の中には即時に拘束された者たちがおり、まだ地上をうろつき人間を誘惑する悪霊もいる。ヨブ記1章と2章を見ると、サタンは「告発者」として登場する。彼は「ヨブが何の理由もなく神を敬うでしょうか。彼の財産と健康をすべて奪ってみてください。必ず神を呪いますよ」と神に訴える。神はヨブに試みを許され、ヨブは極度の苦難を味わう。これは、人間の生活の中でサタンの告発と苦難が避けられないときがあることを示す。しかし同時にヨブは最後まで神を呪わず、苦難の中でも神を信頼し続けることで、サタンの告発が虚偽であると証明する。張ダビデ牧師は、この出来事が神がなぜ一部の堕落天使をただちに完全に滅ぼされず、ある程度彼らの活動を許しておられるのかを説明する例だと主張する。サタンが「人間がどうして心から神を愛するだろうか。みな条件があるから信じているだけだ」というように告発する時、神はその苦難を許すことで、かえって真実な信仰の証を生み出される、ということである。 しかし、これらの過程は人間の側から見ると非常に苦しく、理解しがたいかもしれない。張ダビデ牧師は「なぜ神はすぐにサタンを滅ぼしてくださらないのか」と嘆きたくなることもあるが、ヨブ記の結末を見ると、ヨブは以前にも増して神を深く体験し、物質的祝福も回復し、何よりも霊的成熟へと導かれる。私たちもまた苦難と試みを通過する過程で、もし御言葉によって武装し、祈りつつ目を覚ましているならば、「サタンの告発」を振り払い、勝利を体験することができる。これこそが主の祈りの「我らを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ」という祈りの真の意味である。張ダビデ牧師は「私たちに試みが全くないわけではないが、その試みの中で勝利できるように求める祈りであるべきだ」と強調する。 結局サタンとは、「ルシファー、暁の子、明けの明星」と呼ばれた者が、自らの地位を離れた堕落した天使であり、今なお全地を巡って食い尽くすべき獲物を探している敵対者である。しかし同時に、イエスの十字架と復活によって、その正体はすでに暴かれ、最終的な裁きが備えられている存在でもある。張ダビデ牧師は「その事実を私たちは忘れてはならない」と語る。サタンは必ず敗北する。主が弟子たちに「わたしはサタンが天から電光のように落ちるのを見た」(ルカによる福音書10章)と言われたとき、すでに彼は決定的に敗北したのだ。聖徒はこの勝利を信じ、「イエスの名によって」サタンを追い払う権威を持っている。ただし、この権威はイエスに倣い謙遜に従う人にのみ与えられる。サタンが堕落したやり方が「高慢」だったとすれば、聖徒は「へりくだり、イエスの道に従う」ことによってサタンに打ち勝つのである。 3. 聖徒の対応と霊的勝利 張ダビデ牧師が強調する結論は、最終的に聖徒は主の教えと聖霊の力に依り頼みつつサタンの支配に対抗し、打ち勝たねばならないという点である。これまで見てきた創世記3章と4章が示す人類堕落の始まり、そしてイザヤ書14章やエゼキエル書28章に見るサタンの高慢と裁き、ヨブ記における試み、黙示録12章の霊的戦いなどは、すべて「神の救いの歴史」と切り離せない。神は人類を救うため、またサタンの嘘から解放するために御子を送られたという事実が、新約に至って完全に明かされる。イエス・キリストはアダムの失敗を覆す「第二のアダム」として来られ、サタンの誘惑をすべて退け、十字架で完全ないけにえとして死なれることで罪に対する刑罰を代償された。張ダビデ牧師は「この勝利の福音こそが、『試みに遭わせず』と祈るべき理由であり、同時に私たちに与えられた驚くべき特権」だと解釈する。 主の祈りで「我らを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ」と祈るとき、それは「神さま、私を蛇の誘惑から、サタンの欺きからお守りください。そして私の心の中でうごめく高慢と自己中心的欲望を聖霊によって制御してください」という告白と同じである。張ダビデ牧師は「聖徒は毎日この祈りを実際的に捧げるべきだ」と力説する。なぜなら、いくら長く教会に通っている人でも、自分を高めようとする「サタンのDNA」が心のどこかに潜んでいるからだ。その欲望が目覚めたとき、信仰者が立つべき場所は「主よ、私は主人の座から降ります。ただ主だけが私の人生の主権者です」という謙遜の座なのである。 しかしこの道は決して容易ではない。イエスもゲッセマネの園で「父よ、できることならこの杯をわたしから取り除いてください。しかしわたしの願いではなく、御心のままになさってください」と祈られたほど、従順とはときに非常に苦しい。張ダビデ牧師は、この祈りが信仰生活の本質を表していると解説する。真の従順とは「自分の思い」を折り、「神の御心」を選ぶところから始まるが、それが簡単であれば誰でもできる。しかし現実には「悪魔はしばしば、最も強烈な形で私たちの弱みを刺激し」「一挙にすべての問題を解決してあげよう」とか「これくらい大丈夫だよ」といった甘い嘘をささやく。そのとき聖徒はイエス様のように「わたしが望むのではなく、主がお望みになるように」という態度を取らなければならないが、これは口で言うほど簡単ではない。だからこそ、私たちは日々祈り、み言葉を黙想し、教会共同体の中で健全な霊的助言を受けつつ、信仰の善き戦いを戦い続けねばならない。 張ダビデ牧師はこう語る。「私たちは生まれつき、神の前では謙遜にひれ伏すべき被造物だ。しかしサタンは絶えず『自分で善悪を判断し、自分で王になれ』と誘う。高慢の道はいつも甘美に見えるが、その行き着く先は滅びと霊的死である。一方、謙遜の道は初めは狭く険しいように見えるが、最終的には永遠の命と復活の栄光が待っている。イエス様がその道を歩まれ、復活された。私たちはイエス様に従うべきである。」 この主張はピリピ書2章6~11節が語る「キリスト・イエスの心」と完全に重なる。イエス様は本来神の本質でありながら、ご自身を低くしてしもべの姿を取り、死に至るまで従順であられ、そのゆえにすべての名にまさる名を授けられた。こうした従順と謙遜こそイエスに似ることの本質であり、サタンが決して真似できない「神の国」の核心的価値なのである。 しかし、聖徒がこの事実を頭で知るだけでは、実際の生活の中でサタンの誘惑にまた負けてしまう恐れがある。張ダビデ牧師はこれを防ぐために「聖霊に満たされること」と「み言葉に満たされること」の重要性を強調する。イエスは荒野の試みで、毎回「『…と書いてある』」と申命記の言葉を用いてサタンの嘘を打ち破られた。同様に私たちも、創世記3章と4章が描く人間堕落の本質を認めつつ、「神さま、私は弱いです。私の内にもサタンが蒔いた高慢や欲望があります。しかし主のみ言葉が私を全うしてください。私を試みから救ってください」と祈るとき、聖霊はその「み言葉」を生きた力として私たちの魂に適用してくださる。み言葉によって自分を照らし、自己中心的な動機を絶えず悔い改めるとき、ようやく高慢は砕かれ、神中心の判断と選択が可能になるのだ。 また張ダビデ牧師は、もう一つ大事な点を指摘する。「私たちは一人ではない。教会共同体が共にある」ということだ。サタンは往々にして個人を孤立させ、試みに陥れようとする。悩みを一人で抱え、心配を一人で抱え、解決を一人で模索しようとすると、いつのまにかみ言葉から遠ざかりやすい。そのとき、身近な信仰の同労者や牧師、小グループのリーダー、兄弟姉妹に心を打ち明け、祈りを求めるならば、光の中に置かれることになる。光が差し込めば闇は退くように、サタンは「隠し事」と「密かな領域」でこそさらに力を発揮する。しかし共同体の中で互いに罪を告白し、互いに励まし合い、とりなしの祈りをささげるなら、悪魔がつけ入る隙はなくなる。ヤコブの手紙に「互いに罪を言いあって祈りなさい」とあるのも、この原理による。 特に主の祈りを共に暗唱し、祈るとき、「試みに遭わせず、悪から救い出してください」というこの一行の文言が、どれだけ強力な霊的武器となりうるかを悟らされる。イエス様ご自身が教えてくださった祈りであるがゆえに、そこに込められた霊的意味は深く、かつ教会全体で心を合わせて捧げる祈りのとき、聖霊が与える慰めと力はますます大きくなる。張ダビデ牧師は「主の祈りは教会共同体の祈りであり、同時に私の祈りでもある。教会は共に一つの心でサタンに立ち向かう霊的軍勢となるべきだ」という。そして、このような祈りとみ言葉の訓練を繰り返していくとき、聖徒は実際の生活の中でも罪と高慢に打ち勝つ経験を持てるようになる。 まとめてみると、創世記3章と4章を通して始まった人間の堕落とサタンの誘惑、そしてサタン自体がどのように堕落したのか(イザヤ書14章、エゼキエル書28章、黙示録12章)を学ぶことは、聖徒が霊的に目を覚ましているための不可欠な基礎である。サタンは人間が本来持つ弱さを悪用して、「自分が善悪を判断する」という態度、すなわち高慢へと誘う。しかしイエス様はへりくだりによって、十字架で死に至るまでの従順によって、その道を完全にひっくり返された。私たちはイエス様の勝利にあずかることで、サタンに対抗できる。「試みに遭わせず、悪から救い出してください」と願いつつ、み言葉のうちにとどまるとき、サタンはもはや本質的な影響力を及ぼせなくなるのだ。 張ダビデ牧師は言う。「私たちの戦いはすでに勝利が約束された戦いだ。主があらゆる『高慢』を打ち砕き、私たちの罪の代価を支払われた。しかし私たちがまだこの肉体をまとい地上で生きている間は、サタンは吠えたける獅子のように飲み込む者を探しているから、常に警戒する必要がある。だが恐れる必要はない。光である主が共におられるなら、闇が勝つことは決してできないのだから。」 この確信が聖徒の日常に具体的に適用されるとき、私たちはサタンを縛り、罪から離れ、自由になる恵みを味わうことができる。つまりイエス様はすでに勝利されたが、その勝利を自分のものとして体験するには、日々の御言葉の黙想と祈りが求められるということである。 最終的に、人間は自ら「神のようになろう」とした罪を悔い改め、イエス様が成就された十字架の贖いを信仰によって受け取り、聖霊によって聖なる道を歩むべきである。張ダビデ牧師の教えによれば、これがキリスト教の教理の核心であり、私たちの信仰生活全体を貫く重大な鍵である。「あなたがたのうちにこの思いを抱きなさい。キリスト・イエスの思いを。」(ピリピ書2章)という勧めこそ、サタンの誘惑と試みに勝つ最強の武器である。イエス様の思いは決して高慢ではなく、最後まで従順によって勝利された。だから聖徒は、安易な自信や独善に陥らないよう常に自分を省み、「善悪を主権的に判断されるのは神である」ことを認め、自分は被造物として、子として、また神の委託を任された管理者としての本分を尽くすのが正しい姿なのだ。 張ダビデ牧師は最後に、サタンについて過度に恐れたり、逆にその存在を無視してしまう極端に走らないようにと注意を促す。サタンは明らかに人間の敵であり、誘惑者であり、世の王や権力者を通じて活動するので警戒は必須である。しかし同時に、私たちはすでにイエス様にある勝利を確信できるゆえ、サタンを恐れる理由はない。「自らを低くされるイエス様を知り、その御言葉を大胆に宣言し、御言葉に沿って愛し仕える人に、サタンはどうすることもできない」という結論だ。ここであらためて強調されるのが「主の祈りの力」である。その祈りの最後の文言、「国と力と栄光は永遠にあなたのものです」は、永遠に真の主権者が誰であるかを告白する信仰の祈りだからである。 これらすべてを総合すると、創世記3章と4章の堕落の物語は単なる「過去の出来事」にはとどまらない。それは日々繰り返されうる人間の心の状態であり、高慢と不従順がどのように染み込んでいって極端な破壊をもたらすかを示す警告でもある。しかし同時に、神がイエス・キリストを通じて与えてくださる救いの計画がいかに驚くべき恵みであるかを告げる宣言でもある。人間が本来創造された時に持っていた聖さを回復するように、神はサタンのあらゆる企みを打ち破り、私たちを永遠の御国へ導く道を開いてくださった。だからこそ張ダビデ牧師は「私たちが主に従うなら、高慢の代わりに謙遜を、不従順の代わりに従順を、闇の代わりに光の中を歩むようになる」と力説する。その道を歩むにつれ、私たちは日々の試みの中でも勝利し、やがて永遠の命へと至るのである。 これはすなわち、すべての聖徒が「試みに遭わせずに」という主の祈りの願いを軽く受け流してはいけない、というメッセージで幕を閉じる。張ダビデ牧師は「私たちは常に御言葉と祈りによって武装し、共同体の中で光の中を共に歩み、高慢の扉を閉ざさねばならない」と語る。そうすればサタンが歴史の片隅でいくらあがいても、最終的には敗北した存在なので、私たちの歩みを妨げることはできない。現代の世の中は混沌としており、価値観は多様化し、教会もまた混乱を経験するかもしれない。しかしただ御言葉に基づいて「善悪を判別されるのは人間ではなく神である」と認めるならば、真理が私たちを自由にしてくれるであろう。 結局のところ、張ダビデ牧師が語ろうとしている結論はシンプルである。「創世記3章と4章の場面を毎日黙想しなさい。そして、サタンが高慢によって堕落したイザヤ書14章、エゼキエル書28章、黙示録12章、およびサタンに立ち向かったヨブ記の出来事とイエス様の荒野の試みを忘れないように。主の祈りを熱心に暗唱し、実際の祈りとし、『試みに遭わないように』御言葉のうちに目を覚ましていなさい。そうすれば、どれほどサタンが誘惑しようとも、神の民は勝利するだろう。」 これが張ダビデ牧師が聖徒たちに伝えるはっきりとした勧めであり、創世記3章と4章を見る際の中心的視座である。高慢によって奈落に墜ちたルシファーとは対照的に、イエス様は徹底してご自分を低くされることで「すべての名にまさる名」を授かった。この対比が聖徒に与える教訓は明白だ。自らを高めれば結局は黄泉の穴へ落ちるが、自らを低くして神を崇めれば永遠の命を得る。そのことを最後までしっかりと握り、高慢の試みに打ち勝って神の子どもらしい実を結ぶ道を、すべての聖徒が共に歩むことを切に願うものである。