ただ恵みにより、ただ信仰によって ― 張ダビデ牧師

1.ただ恵みによって ローマ書4章9~12節に示されているパウロの主張は、私たちの救いと義が人間の行いや功績によるのではなく、神の恵みによって与えられることを明確に示しています。これは、現代の私たちが教会生活や信仰生活を送る中で、うっかり見落としてしまいやすい核心的真理でもあります。パウロはその例としてアブラハムを挙げて説明します。特に「アブラハムにはその信仰が義とみなされたといえる」(ローマ4:9)という御言葉を通して、アブラハムが義と認められたのは割礼を受けたからではなく、神の約束を信仰によって受け入れたからだと強調されます。ここに含まれる霊的意味を深く探ってみると、人間の側の律法的努力や宗教的儀式によっては罪から自由になることは決してできず、ただ神の恵みの御手だけが罪人である人間を義とするという福音の原理が鮮明に浮かび上がります。 張ダビデ牧師が多くの説教や著述で繰り返し強調しているように、人間は本質的に弱く、自らの資格や功績で神の前に立てる存在ではありません。ユダヤ人であれ異邦人であれ、すべての人類が罪に支配されていたことを、パウロはすでにローマ書3章で宣言しています。「義人はいない、ひとりもいない」(ローマ3:10)、「すべての人は罪を犯して神の栄光を受けられなくなっている」(ローマ3:23)と示すことで、律法やイスラエル民族の選び、あるいは割礼の有無が、救いの決定的条件になり得ないことを明らかにしたのです。こうした前提の上でパウロは、アブラハムが義と認められた時期を想起させることによって、「割礼の有無」や「律法順守の有無」ではなく、「神の恵みと、その恵みを受け入れる信仰」がいかに決定的であるかを説き明かしています。 アブラハムに割礼が求められたのは、彼が99歳頃のことでした(創世記17:24)。しかし、創世記12章を見ると、アブラハムはすでに75歳のときに神から召しを受け、その御言葉に従いました(創世記12:4)。その時点で彼は神の約束を信仰によって受け入れ始め、創世記15章の記述の通り「アブラハムが主を信じたので、それが彼の義とみなされた」(創世記15:6)のです。つまりアブラハムが義と認められたのは、割礼を行う24年前だったのです。そうであるならば、アブラハムの義とされた理由は、決して行いや宗教的儀式、あるいは血統的な選民という身分にあったのではありません。彼が異邦の地で召され、割礼を受けていない状態でも「神の約束を全面的に受容する信仰」を示したため、神が一方的に義を賜った出来事だったのです。 この「一方的な賜物」こそが、恵みの核心です。恵み(ギリシア語でχάρις,カリス)とは、本来受ける資格のない者に対して注がれる神の好意を指します。私たちが救いについて深く考えるとき、限りなく聖なる神の前で、すべての人間は罪責から逃れられないという事実に突き当たります。罪人は贖いを必要とし、その罪の代価が支払われない限り、決して聖なる神の御前に立つことはできません。だからこそヘブライ書の記者は、「聖潔がなければ、だれも主を見ることはできない」(ヘブライ12:14)と宣言しました。問題は、罪人である人間が自分の力で罪の問題を解決できないことにあります。人が罪の代価を払おうにも、すでに罪の本性の中に囚われているゆえ、どんな功績や儀式も完全なる代償とはなり得ません。旧約の律法によれば、動物のいけにえによる犠牲の儀式は、一時的に罪の清めを象徴的に示すものでしたが、究極的・永遠的な贖いにはなり得ませんでした(ヘブライ10:4)。ただ聖なる神がみずから用意された道、すなわちイエス・キリストの十字架による代償だけが、罪からの解放を可能にしたのです。キリストの十字架が「血潮による功績」と呼ばれるのも、まさにこの理由によるのです。 張ダビデ牧師は説教を通して、神の恵みと愛がどれほど大きく驚くべきものかを繰り返し強調します。それによれば、人間は律法によって自らの罪を罪として認識するようになったものの、律法自体が罪人を義とし、完全に救いへ導くことはできませんでした。聖なる神の基準の前で、「いったいどれほどの義を積めば神に近づけるのか?」と問い続けても、最終的には「人間の行いでは不可能」という結論しか出ません。そのとき初めて、私たちは神の恵みなくしては救われないという切実な事実を思い知らされるのです。これは、パウロがガラテヤ書で鋭く指摘している「律法の行いによっては、義と認められる肉はひとつもない」(ガラテヤ2:16)という御言葉と正確に一致します。結局、パウロがローマ書とガラテヤ書全体で導き出した結論は、私たちの義は「自分の功績」ではなく「キリストの功績」にあり、そのキリストの功績を受け入れるよう招いてくださった神の恵みこそが救いの源泉だということです。 では、このような恵みは具体的にどのように働くのでしょうか。ローマ書4章でパウロが「割礼」に関する論争を取り上げる文脈に目を向けると、ユダヤ人たちは「選民としての誇り」を非常に重要視していました。その代表的な象徴が「割礼」でした。割礼はアブラハムの子孫であり、神と契約を結んだしるしとして行われ、これによって自分たちが神の民であることを証ししました。エルサレム教会の一部のユダヤ人たちは、初代教会に加わった異邦人も救われるためには、この「しるし」を必ず受けなければならないと主張したのです。「神は我々の民族を選び、我々にだけメシアをお与えになった」という意識の中で、アブラハムとの契約(割礼)を受けてこそ初めて選民となり、その上でイエス・キリストを受け入れるべきだと考えたわけです。しかしパウロはこれを正面から反駁します。アブラハムが義と認められた時点そのものが、すでに割礼を受けていない状態だったのだから、決して割礼が救いの前提条件にはなり得ないと主張し、救いが人種や文化を超えて万民に開かれていることを宣言しました。 神の恵みは、いかなる民族的優越や儀式をも要求しません。割礼もまた、すでに「割礼を受けていない時点」で与えられた「義」を証印(シール、seal)する役割にすぎず、義そのものを与える原因ではなかったのです。言い換えれば、今日の洗礼も同じです。洗礼は、キリストを信じることによって「すでに」罪の赦しと救いの恵みを受けた信者が、自分の内に成し遂げられた救いを「儀式」として公に告白するものであって、洗礼行為そのものに罪を赦す力があるわけではありません。ですからパウロはローマ書4章11節で「彼(アブラハム)が割礼のしるしを受けたのは、割礼を受けない時に得た信仰による義を保証するものであったのです」と説明します。私たちの信仰的行為は、すべてすでに神が恵みによって与えてくださった救いを「確証」あるいは「告白」する手段にすぎず、救いを「獲得」する道具にはなり得ないのです。 なぜ神の恵みがこれほど絶対的なのでしょうか。それはイエス様ご自身がお語りになったたとえ話に表れた「ぶどう園の労働者のたとえ」(マタイ20章)を通して、私たちは恵みの本質をさらに深く味わうことができます。朝早くから働いた者も、昼頃に来た者も、日が暮れる寸前に来た者も、同じ1デナリオンを受け取ります。ぶどう園の主人は言います。「わたしは気前がいいのだから、あなたは妬むのか?」と。ここに見えるのは、論理や計算ではなく「一方的な施し」こそが神の恵みであるという点です。朝から働いた者にとっては、後から来た者と同じ賃金をもらうのは不公平に思えるでしょう。しかし、それが「神の国の原理」なのです。神の国では、人間が誇れるいかなる特権も、努力も、血統も、決定的地位にはなりません。ただ無条件の愛、一方的恵みがすべてを支配するのです。これはローマ書3章でパウロが「私たちは本来みな罪人であったが、ただで義とされた」(ローマ3:24)と明かす文脈と一致しています。 では、なぜ教会の中や各人の信仰生活において、この恵みがしばしば霞んでしまうのでしょうか。ローマ書4章の問題やガラテヤ書全体の問題を見渡すと、律法主義的な考え方こそが、恵みを曖昧にさせる最大の原因であることがわかります。律法主義とは、人の行いや功績によって義と認められると主張したり、あるいは少なくとも「神の恵み+自分の律法的功績」という二重の方法を追い求める立場です。しかしパウロはそうした試みを「ほかの福音」と断言し(ガラテヤ1:6-7)、それは結局、人を罪の重荷から解放するどころか、むしろ重い律法の束縛の下に置いてしまうと警告しています。恵みを受けなければ、私たちは罪の重荷を下ろすことができず、気づかぬうちに高慢になり、「自分は救われる資格がある」と錯覚したり、逆に律法の重さに押しつぶされて絶望するという両極端に陥りやすいのです。一方の極端は、自分の義に酔いしれて高慢になることであり、もう一方の極端は、罪責に打ちひしがれて自分を絶望の中に閉じ込めてしまうことです。 張ダビデ牧師は、このような律法主義的な弊害を指摘しつつ、十字架の恵みを悟ることこそが信仰の出発点であり、結論でもあると強調します。イエス・キリストの十字架の代償は、神の御子が「私たちの代わりに罪となられ、私たちが神の前で義となるようにしてくださった」救いの出来事です(第二コリント5:21)。罪人であった私たちが義人へと逆転されるこの出来事は、まったく神のご計画と愛によってのみ成し遂げられました。この愛なしには、人間のいかなる努力や功績も救いを保証してはくれません。結局、恵みとは、罪人である私たちが「資格あり」とみなされて神に近づくのではなく、何の資格もないにもかかわらず神が「子どもとして受け入れよう」と言ってくださり、招いてくださる賜物なのです。これを受け入れる姿勢が、「主よ、どうか私をあわれんでください」と祈るへりくだった心であり、その心こそが恵みを体験する通路となります。 パウロが「しかし、神の恵みによって、私は今の私になりました」(第一コリント15:10)と告白したのも、同じ意味を持ちます。彼はかつて教会を迫害し、ステパノの殉教にも加担していた(使徒7:58、8:1-3)自分自身の過去を振り返るとき、そんな自分を使徒として召された神のご計画がどれほど驚くべき恵みだったかを悟るのです。それは、いかなる資格でも説明できない一方的な愛でした。だからこそパウロは「恵みが恵みであるためには、ただ神が施される愛であるべきだ」と強調し、ローマ書4章でもアブラハムを例に挙げて「この幸いは割礼を受けた者だけにあるのか、それとも割礼を受けない者にもあるのか」(ローマ4:9)と問いかけます。そして明確に答えます。「割礼を受けたときではなく、割礼を受けないときであったのです」(ローマ4:10)。つまり、救いはユダヤ人にも異邦人にも等しく開かれているという事実です。神の恵みは、ある特定の民族や領域だけに限定されず、罪に縛られたすべての人に開かれており、彼らを義と宣言される神の救いのご計画は、「恵みのうち」に完成されるのです。 この恵みが私たちに与えるメッセージは非常に大きいのです。私たちがどんな過去を背負っていても、神は罪人である私たちをあわれみ、十字架によって罪の問題を解決されました。もはや罪責に囚われる必要はありません。私たちは神の前で「すでに義」と宣言されており、その根拠は「イエス・キリストの血」と「神の愛」です。この事実に気づくとき、ある人は悔い改めと涙を流し、ある人は自由を体験し、ある人は神に感謝と賛美をささげます。こうした感激こそが、真の恵みを体験した証です。 問題は、時間が経つにつれて教会の中にある恵みへの感激が冷め、代わりに形式的な礼拝や慣習的な信仰行為が根を下ろすと、「私はこれこれをしたから義とされる」という律法的な態度が自然に頭をもたげることです。張ダビデ牧師が指摘するように、これこそが教会の病弊であり、キリスト教信仰が本質を失い形式化したときに現れる特徴なのです。私たちの出発点が恵みによるものであることを見失うとき、信仰生活は重荷になってしまいます。ディートリヒ・ボンヘッファーが述べた「高価な恵み」が「安価な恩恵」に堕落するという指摘も、まさにこの点を指しています。高価な恵みとは、神が独り子を犠牲にされるほど私たちを愛してくださった愛であり、その結果、私たちが罪から解放され自由を得たという出来事です。これを思い出すたびに、私たちはさらに深い感激と献身、そして隣人への憐れみの心を抱くようになります。ところが恵みを忘れれば、教会生活は義務感だけが残り、宗教的習慣に埋没して逆に霊的高慢や排他性を生み出すのです。 ローマ書4章11節でパウロが「これは割礼を受けないで信じるすべての人の父となって、彼らも義とみなされるためでした」と述べる際、その意図は明確です。神はひとつの民族だけの神ではなく、全人類の神であり、その救いの実りを、割礼を受けた者も受けていない者も共に受け取ることができることを確証しておられるのです。これがまさに「恵みは境界を打ち壊す力」であることを示す場面です。旧約時代に神との特別な契約のしるしであった割礼は、「今や割礼は不要」という結論のために存在していたのではなく、むしろ「より根本的なものがある。すなわち神の恵みと、その恵みを受け入れる信仰である」という福音を説き明かすための雛型だったといえます。 したがって4章12節にあるように、アブラハムは割礼を受けた者の父であり、同時に割礼を受けていない状態で示した信仰の足跡をたどるすべての異邦人の父ともなったのです。彼の役割は、「信仰と恵み」の普遍性を明らかにする決定的な例証です。彼は75歳の時点で、無条件に神の御言葉に従って故郷と親族と父の家を離れ、全く未知の約束の地へと旅立ちました。その歩みは、恵みに対する従順であり、信仰そのものでした。このようにアブラハムは神の恵みに身をゆだねて進み、結果としてすべての信仰者の「祖先」、すなわち「模範」となったのです。これがキリスト教の歴史においてアブラハムが占める特別な位置づけです。 今日、私たちの信仰的適用は明白です。私たちは教会の中で奉仕をし、礼拝にあずかり、献金をささげ、聖書を読み、祈りなど様々な信仰生活を行います。しかし、これらすべての行為が前提とすべきことは、「すでに受けている恵み」です。恵みが先で、行いはその後です。行いは恵みに対する感謝と献身の表現であるべきです。この順序が逆転すると、教会での奉仕や礼拝への参加、さらには祈りや伝道さえも、いつのまにか「自分の義」を積み上げる道具に変質してしまう恐れがあります。そうなれば、キリストの十字架の恵みは忘れ去られ、人間の誇りや傲慢だけが残ってしまいます。 実際、高慢は恵みを忘れたときに生じます。恵みを握りしめるなら、自然と私たちの心はへりくだり、感謝に満ちあふれます。「もしキリストの血によらなければ、私は生きる望みのない者だったのだ」という事実を悟れば、決して他者を裁いたり、隣人を蔑視したり、自分が何か大層な義を持つかのように思い上がることなどできません。私たち全員が「赦しを切実に必要としていた者だった」という悟りこそが、互いへの憐れみと愛を生み出します。それは教会共同体の中で和合と真の一致をもたらす基盤となります。張ダビデ牧師が強調しているのも、この点にほかなりません。教会は「恵みを受けた者たちの集まり」なのだから、結局、恵みに根ざした愛と分かち合いこそが共同体の本質であるべきだというのです。 結局、ローマ書4章9~12節でパウロが示す神学的結論は、「救いは人間から出たものではなく、ただ神の恵みから来る」ということであり、アブラハムがそれを証言する生ける例だという事実です。そしてパウロはこの教えを通して、教会内にある律法主義や排他主義、特権意識、あらゆる形態の自己義を厳しく退けます。神の恵みが強調されるとき、教会はようやく世の中で福音の力を示すことができるようになります。恵みのない教会生活は冷たい形式主義や人間的権力争いに陥りやすいですが、恵みに満ちた教会は互いの過ちさえも受け入れ、赦しと悔い改めがあふれ、愛に満ちて社会を変えていく生命力を放つのです。 パウロがこれほど「恵みの教理」を力説するのは、神の国が「恵みを悟った者たちの共同体」だからです。イエス様が罪人たちとともに食事をし、取税人や娼婦、病人や悪霊に苦しむ者を訪ねられた姿こそ、この「恵みの神」が罪人である人間を訪ねてくださる出来事の雛型でした。私たちがこれを現代でも同じように体験する道は、十字架の前に自分を明け渡し、「ただ恵みによって」近づくことだけです。その瞬間、私たちはこの恵みの内にとどまり、恵みの中で新しい命に生きる力を得るのです。このすべての過程を通して、パウロは、人間の功績や善行、儀式を救いの条件にしようとする試みを断固として排除しました。この点は今の時代にも変わらず有効です。 ローマ書4章9~12節に目を通し、「ただ恵みによって」という主題を特に心に刻むとき、教会が本当に回復すべき霊的基礎が何であるかが見えてきます。世の基準で人を計る心や、教会の中でさえ序列意識を作り出し互いを批判し分裂する態度、さらには「神の業」という名目で自慢や誇示にふける姿があるとすれば、それはすでに恵みに背を向ける道です。ただ恵みを握る人は自分が「罪人のかしら」であったことを忘れないので、互いを愛をもって受け入れ、教会と社会に対してへりくだって仕え、神の前で常に感謝と謙遜を告白するようになります。アブラハムが割礼を受けていない状態で受けた「無条件の義とされた恵み」を深く黙想するとき、私たちは「自由」と「感謝」に満ちあふれます。この自由と感謝の喜びを味わうことこそ、真の福音の力です。 最後に、張ダビデ牧師が述べるように、高価な恵みを決して「安価な恩恵」にしないよう注意しなければなりません。安価な恩恵は、「どうせ救われたんだから好き勝手に生きてもいい」というように堕落した形をとり得ます。しかし高価な恵みは、「こんなにも大いなる愛を受けたのだから、どのように主を喜ばせられるだろうか?」という感激と情熱へと私たちを導きます。救いは無償ですが、イエス様にとっては非常に高い代価が支払われました。人間の罪を贖うために十字架の上で流された血は、あまりにも尊い犠牲だったのです。私たちがこの犠牲によってただで義とされていることを知るならば、決してその恵みを軽んじて放縦に陥ることはできないはずです。むしろ日々主に感謝し、その恵みによって新しい人へと変えられ、神の御心に従う熱い思いを抱くようになります。これこそが「恵みが恵みである」真の姿であり、ローマ書でパウロが教えている福音の精髄です。 このように見ると、ローマ書4章9~12節に含まれている「ただ恵みによって」という教えは、教会の本質と信仰生活の方向を打ち立てる礎石といえます。現代の私たちもこの恵みの上にしっかりと立ち、律法主義や人間的な義の誇りから離れ、罪人を生かす神の驚くべき愛をあがめながら、信じる者にもまだ信じていない者にもその道を開いてくださる神の憐れみを豊かに体験していく必要があります。まさにこの恵みこそ、ローマ書が一貫して語る「義人は信仰によって生きる」(ローマ1:17)という福音の核心なのです。 2.ただ信仰によって 先に「ただ恵みによって」という主題が神の救いの御業においていかに根本的意義を持つかを見てきました。ところが驚くべきは、この恵みが「客観的事実」として存在するだけでなく、私たち一人ひとりに適用されて「義とされる」ために必ず必要な要素があることです。それこそが「信仰」です。人間の側で唯一求められる応答であり条件が「信仰」であるという真理は、宗教改革の時代に「ただ信仰によって(Sola fide)」というスローガンとして凝縮され、張ダビデ牧師も数多くの講解説教において、この真理が過去のある時代だけのことではなく、いまこの時代を生きる私たちにも最も切実な福音であると強調してきました。 ローマ書4章9~12節でもパウロは、義と認められる決定的な鍵として「信仰」を繰り返し提示しています。「アブラハムには、その信仰が義とみなされたといえる」(ローマ4:9)、「彼が割礼のしるしを受けたのは、割礼を受けない時に得た信仰による義を保証するものであったのです」(ローマ4:11)という言葉を通し、アブラハムがどのようにして義を得たのか、またその義の確証がいかに示されたのかを明快に説き明かします。ここに含まれる核心は明白です。アブラハムが救われたのは信仰によるのであって、その信仰を裏づけるものとして「割礼」という行いが後から伴ったのであり、割礼自体が救いの条件ではなかったという事実です。 信仰とは、聖書的に見ると、単に「神様はいるだろう」と漠然と思うレベルを超えています。むしろ聖書的信仰とは、神が与えた「御言葉」を「心」で受け入れ、その上で「生活を動かす」力となる動的な態度です。ヘブライ書11章1節は、信仰を「望んでいる事がらの実体であり、まだ見ていない事がらの証拠」と定義します。アブラハムは、現実とはまるでかけ離れた状況(自分も妻サラも年老いていて子を産めない状況)にあっても、神の約束をそのまま受け入れ、それゆえに義とみなされました(創世記15:6、ローマ4:17~22)。このような信仰の姿勢は、やがて生活に変化をもたらします。割礼を受けよという命令も、故郷を離れよという命令も、さらに息子イサクをささげなさいという命令でさえも、アブラハムは非合理的に見えるほどに従順しました。これこそが「信仰」の実際的な働き方なのです。 なぜここまで「ただ信仰によって」と強調されるのでしょうか。それは、人間にはほかのどんな方法によっても神の恵みを自分のものとする術がないからです。行いや律法の順守、あるいは功績を積むといった形で神に近づこうとしても、私たちの罪性と限界ゆえ、いつも失敗せざるを得ません。義なる神の基準の前に、まったく傷のない者として立つことができないのが人間だからです。にもかかわらず、人間の歴史には「自分の力で神に義と認められる」という試みが繰り返されてきました。イスラエルの民の歴史も同様であり、教会の歴史においてもいろいろな律法主義や異端的教えが常にこうした誤解を誘発してきました。 張ダビデ牧師はこの点を繰り返し説き、「信仰は『私たちに向けられた神の賜物』を開かれた心で受け取る通路だ」と説明します。信仰がなければ、神の恵みさえも私たちに適用されません。イエス様が公生涯で多くの奇跡を行われたとき、「あなたの信仰があなたを救ったのです」「あなたの信じたとおりになるように」と繰り返し語られたのも同じ文脈です。イエス様が施されるいやしと恵みは、誰に対しても向けられていましたが、それを受け入れたのは「信仰」をもって応答した人たちでした。その信仰は、盲目の乞食や病気の女、さらには罪人だと指さされていた人々の中にも見出されました。逆に、律法に精通していると自負していたパリサイ人や宗教指導者たちは、自分の義を誇示するあまりイエス様の恵みを拒むことさえありました。 ローマ書4章9~12節の文脈に戻れば、割礼を「救いの必須条件」と主張する人々は、事実上「自分の行いや儀式が救いを決定づける」と考えていた態度でした。それは信仰の本質を歪めることにほかなりません。もちろん割礼や洗礼、そのほかの教会的儀式には重要な意味と価値があります。しかし、その儀式自体が救いの力となるわけではありません。イエス様がパリサイ人たちに「あなたがたは杯や皿の外側はきれいにするが、内側は汚れている」と厳しく糾弾された箇所(マタイ23:25~26)は、外的儀式にこだわりながら、内面の変化、すなわち信仰から生まれる従順と敬虔を軽視する態度への強い叱責でした。同様にパウロは、割礼そのものではなく、その背後にある「信仰」を強調することで、「ただ信仰によって義とされる」という福音を確立させるのです。 特にガラテヤ書3章を見ると、パウロはアブラハムが割礼によってではなく「信仰」によって義と認められたことを再確認したうえで、「このようにアブラハムを信じる人々は、信仰によって祝福を受けるのです」(ガラテヤ3:9)と宣言します。そしてさらに「律法の行いに頼る人々は、みな呪いのもとにあります」(ガラテヤ3:10)と言い切り、律法による救いではなくキリストによる救い、すなわち信仰によって「キリストのうちにとどまる」ことだけが真の自由を与えると明示します(ガラテヤ5:1)。これはすなわちローマ書1章17節の「ただ義人は信仰によって生きる」との主題と軌を一にしています。パウロ神学全体を貫く要は「信仰によって義とされる」という点にあるのです。これを、教会史の中ではルターやカルヴァンなどの宗教改革者たちが「ただ信仰によって(Sola fide)」とまとめました。彼らは中世教会が免罪符や功徳、聖人崇拝などを通して救いを保証しようとするあり方を強く批判し、聖書が語る「信仰による義認」を再び回復しようとしたのです。 しかしここで「ただ信仰によって」というスローガンが、行いをまったく無視したり不要とみなしたりするという意味では決してありません。ヤコブの手紙2章17節は「行いのない信仰は、それだけでは死んだものです」と述べています。真の信仰は必ず生活のなかで実を結びます。アブラハムもまた、信仰によって義と認められただけでなく、その信仰ゆえに自分の生き方を根本的に変えました。彼は割礼を受け、さらに息子イサクを捧げよという命令にまでも従順しました。このように「信仰によって救われた者」は、その恵みに感謝して神の御言葉を守ろうとする熱意を抱くことになります。パウロはこれを「信仰のゆえに従順する」(ローマ1:5)と表現しています。信仰が救いの条件ですが、救われた後の生き方で必然的に神への忠誠が表されるという意味です。 張ダビデ牧師がローマ書とガラテヤ書、さらにヤコブ書までまとめて説教する中でしばしば語っているように、「ただ信仰によって救われる」ということと「信仰の実として善い行いをする」という二つの軸は決して矛盾しません。救いを得る根拠は行いではなく信仰ですが、救われた者は「キリストにあっての善い生き方」をし、主の命じられた戒めを喜んで守り、他者に仕える実を結ぶようになります。つまり行いは「救いを達成するための道具」ではなく、「救われた者が結ぶ自然な実」であるというだけの違いです。この順序を正しく理解できないと、私たちは律法主義に偏ったり、逆に「行いは全く必要ない」という極端な放縦主義(反律法主義)に陥る危険が生じるのです。パウロがガラテヤ書5章13節で「自由を肉の機会としないように」と警告しているのも、信仰によって自由とされた信徒が、その自由を乱用してしまわないように促すためです。 ローマ書4章11~12節でパウロが「割礼を受けないで信じるすべての人々の父となり…さらに割礼を受けた人々の父ともなった」と語る部分は、アブラハムが「信仰」によって神の救いを享受した模範的存在であるがゆえに、ユダヤ人と異邦人を問わず「信仰によって近づくすべての者」の父となったという意味です。アブラハムが受けた祝福と約束が、いまやすべての信じる者に開かれているという宣言と言えるでしょう。これは教会が民族や言語、文化の相違によって分裂してはならず、「信仰の共同体」というアイデンティティの中でこそ一致すべきだというメッセージを伝えています。私たちが互いに違う環境や背景を持っていても、イエス・キリストを信仰によって受け入れる瞬間、アブラハムの祝福を継承する者となり、キリストにあってひとつの家族となるのです。 この信仰が実際の信仰生活にどう適用されるかを考えるとき、イエス様の「ザアカイよ、急いで降りてきなさい。今日はあなたの家に泊まることにしているから」(ルカ19:5)というエピソードを思い出せます。当時、取税人の頭であったザアカイは、金銭欲に駆られて同胞をだましていた罪人だと非難されていました。それでもイエス様は彼に近づき、ザアカイはイエス様の招きに自分を開きました。そして「主よ、わたしはだれからでもだまし取ったものを四倍にして返します」と宣言し、生き方を変えたのです。イエス様はそれを見て「今日救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのです」(ルカ19:9)とおっしゃいました。すなわち、イエス様を受け入れる信仰が救いをもたらし、その信仰がザアカイの実際の生活と行動に変化を生じさせたのです。ザアカイが律法的に清めの儀式を行ったり、特別な功徳を積んだりしたことが救いの条件ではありませんでした。キリストを受け入れる信仰こそが彼を救いへ導いたのです。 「ただ信仰によって」は、一見すると信仰生活を容易にする単純なスローガンのように聞こえるかもしれません。しかしその背後には、十字架の厳粛な意味が据えられています。神が罪人である私たちを生かすために御子を犠牲にされたという、最も劇的な犠牲の出来事が信仰の土台なのです。それゆえに信仰とは、その出来事を「頭で同意」するだけにとどまらず、「今から主が私の主であり、私は主のしもべとなります」と自分の人生をまるごと委ねる態度にほかなりません。ローマ書10章9節で「もしあなたの口でイエスを主と告白し、また神がイエスを死者の中からよみがえらせたとあなたの心で信じるなら、あなたは救われる」とあるとき、そこで「主(κύριος)」と告白するのは、イエス様が自分の人生の王であると宣言する行為です。それこそが真の信仰です。そしてその信仰は、当然ながら人生全体を変えていきます。 張ダビデ牧師はこの信仰の変革力について、信仰はただ救いというゴールに到達するための手段ではなく、救われた後の全行程でも私たちを導く力だと強調します。私たちは日々の生活で選択をし、決断し、葛藤に直面しますが、そのたびに「本当に神を信頼するのか? キリストの御言葉に従うのか?」という問いかけの前に立たされます。信仰は一度きりの出来事ではなく、日々続いていく「生きた」関係なのです。ちょうどアブラハムが創世記12章で召されて旅立ったときだけでなく、99歳のときに割礼を命じられたときも、息子イサクをささげよと言われたときも、信仰によって生きねばなりませんでした。そのような過程を通してアブラハムの信仰はさらに成熟し、私たちは彼を「信仰の父」と呼ぶようになったのです。 ローマ書4章12節の終わりにある「割礼を受けない時にアブラハムが持っていた信仰の足跡を踏む人々」にも言及するくだりは、単に「異邦人も救いの対象に含まれる」という話だけでなく、むしろ「アブラハムが示した信仰の生き方」がすべての信徒の歩むべき手本であるという深い意味を含んでいます。アブラハムのように私たちも、はっきりとした保証が見えないときでも神の約束を握り、時には筋が通らないように思える命令でも従わねばならないときが来ます。信仰は抽象的な観念ではなく、「御言葉に従って実際に動き、献身する」ことなのです。そのような信仰をもつとき、私たちは神と共に歩む真の喜びを味わうことができます。 結局、パウロがローマ書4章で示すのは、「ただ信仰によって」という教えこそが福音の核心部であるということです。この福音はすべての罪人に開かれており、イエス・キリストの十字架と復活によって決定的な根拠を得ました。どのような罪人でも、この信仰によって義とされ得るのです。そして信仰にとどまる人は、その義とされた恵みに甘んじて放縦に走るのではなく、むしろキリストの愛と恵みに感動して従順と聖なる道へ進んでいきます。これがキリスト教の福音が宣言する「義認と聖化」の関係です。義認はイエス・キリストを信じたときに即時的かつ完全に与えられる身分上の変化(罪人から義人への転換)を指し、聖化はその後のプロセスとして、信仰を通して段階的にイエス・キリストに似た姿に変えられていく生活を意味します。義認と聖化は分離したり対立したりせず、真の信仰のうちで自然につながっています。 実際、歴史上のさまざまなリバイバル運動や霊的覚醒の時期を振り返ると、「信仰によって義とされる」という福音が力強く宣べ伝えられたときにこそ真のリバイバルが起きています。たとえば、ジョン・ウェスレー(John Wesley)はローマ書の講解を聞くうちに「心が熱くなった」と告白し、それをきっかけにメソジスト運動が起こり、イギリスと世界中にリバイバルが拡大しました。マルチン・ルター(Martin Luther)も「ただ義人は信仰によって生きる」(ローマ1:17)という御言葉を悟った瞬間、宗教改革の火が燃え上がりました。そのためローマ書が「聖書の中心」と呼ばれるのは、この信仰の福音が最も鮮明に示されているからです。 今日でも多様な信仰共同体が存在し、神学的スペクトラムもさまざまですが、「ただ信仰によって」という真理は、どの時代や教派を問わず守られるべき福音の根幹です。張ダビデ牧師が説くように、この真理が揺らぐとき、教会は必然的に人間の努力や制度、儀式、功績に依存しようとして福音の光を失ってしまいます。また、信仰の価値を誤解すれば、「どうせ信じているならどう生きても構わない」という形で堕落する可能性もあります。しかし聖書は、私たちに「心を尽くし、命を尽くし、力を尽くして主なるあなたの神を愛せよ」(申命記6:5、マタイ22:37)と命じています。真の信仰は、このような全人的な献身と愛として現れるのです。 このようにして、ローマ書4章9~12節が教会と信徒に告げるメッセージは明快です。私たちの救いは「ただ恵みによって」与えられ、その恵みをわがものとする道は「ただ信仰によって」のみ可能です。人のどんな行いや功績ではなく、私たちが罪人であるにもかかわらず「赦そう」と言ってくださる神の約束に全面的により頼む姿勢、これこそが私たちを救いに導く信仰なのです。割礼か無割礼か、律法を守るか否かという問題は、パウロの結論によってもはや排除されました。キリストにあってユダヤ人と異邦人が分かれる理由はなく、私たちの行いによって義とされる道はありません。そうである以上、残るのはただ恵みと信仰だけです。 日常生活においても、私たちは多くの悩みや葛藤の中で信仰の決断を迫られる瞬間に直面します。ときには経済的困難や病、対人関係の破綻、ビジョンの喪失など、多様な問題が私たちを押しつぶそうとします。そのたびに私たちは「本当に神を信じるのか?」という問いの前に立つのです。信仰は問題の大きさや現実の重さではなく、「神がどのようなお方か」を見る視線です。信仰は「神は善良であり、どんな状況の中でも私を支えてくださる」という確信なのです。アブラハムが百歳になってイサクを授かり、息子イサクをささげよと命じられても従えた背景には、「約束してくださった方は真実なお方だ」という確信がありました(ヘブライ11:11)。このように信仰は人生のあらゆる領域で私たちを導く羅針盤の役割を担います。 最終的にローマ書4章9~12節は、現代を生きる私たちにこう宣言します。「救いはただ恵みによって与えられ、その恵みを自分のものにする道はただ信仰によってである」。張ダビデ牧師がさまざまな場面で繰り返し教えているこの真理は、決して古めかしい教義や抽象的な神学理論ではありません。むしろ最も現実的で、最も切迫しており、人生の方向を変える力をもつものです。もし教会が律法主義や世俗的思考に浸っているとすれば、それはこの福音の真理を見失った結果であり、恵みと信仰が失われた共同体の姿です。しかし私たちが再び恵みと信仰を握りしめるならば、教会の内に真のリバイバルが起こり、信徒一人ひとりが罪と絶望から解放されて新しい命の力を体験するようになります。 要するに、パウロはアブラハムがどのようにして義と認められたのか、また割礼がどのような役割を果たしたのかを考察することで、救いの本質が「恵みと信仰」にあると宣言しています。クリスチャンである以上、私たちはこの宣言に自分の存在と生き方を委ねるべきです。割礼が救いの条件ではなかったように、今日でも教会奉仕や献金、あるいは聖書を熱心に読むことも、救いそのものを得る道具にはなり得ません。唯一の根拠は「神の恵み」であり、それを受け取る「私たちの信仰」という手しかありません。そしてその信仰が正しく根を下ろすとき、自ずと素晴らしい行いの実が結ばれ、私たちの生活の中でキリストを証しするようになるのです。 これこそがキリスト教福音の核心であり、ローマ書4章の要旨であり、同時に教会史を通じて繰り返し語られてきた教えなのです。ローマ書4章9~12節の講解を通じて、私たちは「ただ恵みによって」と「ただ信仰によって」が切り離せない一対であることを改めて確認できます。どちらか一方でも軽んじれば、福音は本来の力を発揮しません。「ただ恵みによって」を軽んじれば人間の功績や誇りが入り込み、「ただ信仰によって」をなおざりにすれば、どれほど大きな恵みがあっても私たちの生活に実際的に適用されません。ゆえにこの二つの真理は共に握りしめられねばならず、教会がその真理の上に立つとき、私たちはようやくアブラハムの信仰にあずかり、彼が受けた祝福と栄光をともに享受する真の神の子どもとして生きることができるのです。そして子どもとして生きるその歩みは、日々感謝と喜びに満ちあふれ、義の実を結んで世にキリストの光を放つという使命を全うするようになるでしょう。「この幸いが割礼を受けている者だけのものなのでしょうか。それとも、割礼を受けていない者にも及ぶのでしょうか」(ローマ4:9)というパウロの問いへの答えは、結局「すべての人に開かれており、その道はただ信仰によってのみ可能である」という福音の核心へと行き着きます。このように福音が開かれるとき、教会はもはや排他的な宗教ではなく、すべての人々に向けられた神の救いの通路となり、世を変えていく使命を担うことでしょう。これこそがローマ書が私たちに告げる力強いメッセージであり、張ダビデ牧師をはじめ多くの説教者が「ただ恵みにより、ただ信仰によって」を繰り返し力説する理由なのです。 www.davidjan.gorg