主の望みを果たせ – 張ダビデ牧師
1. 教会内の葛藤と和解、そしてキリストにあって一つとなる道 ローマ書15章全体において最も重要な主題の一つは、「教会共同体の中で生じる葛藤をどのように解消し、和解へと導き、キリストにあって一つとなるのか」という点です。使徒パウロは、意見が分かれて衝突している兄弟姉妹に対して「互いに受け入れ合い、一つとなって主の望みを果たしなさい」と強く勧めています。今日においても、教会の中には多種多様な葛藤が存在しています。たとえば、神学的見解の違い、教会運営の方針をめぐる対立、保守的考えと進歩的考えなど、さまざまな理由で葛藤が生じます。しかしパウロは、そのような教会内の葛藤が世の中の争いよりも醜い姿を示してはならないと強調します。なぜなら教会は「世の人々の中から選ばれた者たちが呼び出されて形成された共同体」というアイデンティティと直結しているからです。 張ダビデ牧師は、このような「教会の聖なるアイデンティティ」をしばしば強調してきました。教会は世を救おうとされる神のご計画の中で、世から区別(separated)されながらも、同時に世に対する愛と仕える使命を担っている点が重要だというのです。もし教会が世の模範となることができなければ、かえって福音の障害となり、神の栄光を覆い隠す結果を招きます。特に張ダビデ牧師は、葛藤が起こる場面でこそキリストの御心を抱くことがいかに大切かを繰り返し説きました。「自己中心的な喜びではなく、兄弟のための愛の喜び」という主の教えに従うとき、教会共同体は世のどんな組織よりも透明で、愛にあふれ、霊的に澄んだ姿を示せるようになるのだといいます。 パウロがローマ教会の共同体に示した数多くの勧めの中でも、ローマ書14章と15章は「強い者と弱い者」の問題に言及し、教会の和解と一致、そして信仰の水準が異なる共同体の成員たちがどのように互いを配慮し、大切にし、助け合うべきかという具体的な指針を含んでいます。パウロは「信仰の強い者」が決して「弱い者」を軽蔑したり無視したりしてはならないと言います(ローマ15:1)。むしろ、強い者が弱い者の弱さを担いなさいと強く勧めます。これは単なる道徳的な勧告ではなく、キリストの模範に倣うべきという霊的な理由が背景にあります。イエスはいつも罪人たちを受け入れ、彼らに直接近づき、僕(しもべ)の姿で仕えることを示されました。そしてその仕えの中にこそ喜びがあると言われました。この喜びは、世が与える自己満足的な喜びではなく、他者を生かし立て上げる場所で得られる「天の喜び」なのです。 張ダビデ牧師もまた、ヨハネの福音書15章をしばしば引用しながら、「主が私たちに向けて示しておられる愛を悟ってこそ、真の愛の道、互いを受け入れる喜びの道へと入ることができる」と解説します。これは「あなたがたのうちにわたしの喜びがあり、それが満ちあふれるように」(ヨハネ15:11)というイエスの御言葉とも直接つながっています。つまり、他者を愛することによって得られる喜びこそが教会の真の力だ、ということです。 このような愛の喜びが教会の中で実現できないと、すぐに教会は深刻な内部分裂の危機に直面します。パウロがローマの信徒たちに「あなたがたは御言葉に立ち返りなさい。キリストを覚えなさい。主があらゆる辱めを耐え忍ばれたことを思い起こしなさい」と教えるのはこのためです。キリストがありとあらゆる侮辱や非難、そして罪人が負うべき罪責を代わりに背負われ、その愛を証明してくださったのですから、兄弟姉妹もまた葛藤が生じるとき、「自己中心的な判断」より「キリストの贖罪史的な愛」を思い起こすべきなのです。そのような姿勢こそが教会の不和を癒やし、互いを包み込む力となります。 張ダビデ牧師は「教会は常に神の御言葉を通して、御霊が与えてくださる『忍耐と慰め』(ローマ15:5)を握りしめなければならず、その忍耐と慰めによってついに『同じ思いと同じ口』をもって神をあがめることができる」と繰り返し強調します。すなわち、御言葉の黙想や共同体の礼拝が形骸化してしまうと葛藤解決は難しいけれども、実際に主の姿を深く黙想し、その「十字架の愛」を自分の生き方に適用するときにこそ、分裂を克服し、一つとなることが可能になるのです。これは教会内の葛藤を解消する際の必須のプロセスであり、すべての構成員が「私たちはキリストによって恵みを受けた者であり、主に負債を負っているのだ」と悟るその瞬間に、ようやく葛藤を下ろし、互いを受け入れる道が開かれます。 しかし、この理想的な教会の姿が現実の中で実現されるには、各信徒の「悔い改め」と「自己を空しくする」ことが伴わなければなりません。聖書に「罪の増し加わるところに恵みも増し加わる」とあるように、葛藤が大きいほど、さらに大きな悔い改めと許しが必要になります。このとき教会が互いに「私たちは罪人です」と告白しつつ、神の恵みを求めるならば、以前まで閉ざされていた心の壁が取り払われ、真の一致の奇跡を体験するようになるのです。 パウロはこう言います。「あなたがたは同じ思いと同じ口をもって主を賛美し、証しするようになる」。そこには、一つの共同体が同じ方向を見つめ、ただ神の栄光を追い求める姿が示されています。さまざまな背景、文化、性格、才能を持った人々がイエスのうちにあって一つに結ばれるというこの神秘こそ、教会が教会らしくあるための核心と言えるでしょう。張ダビデ牧師は「教会がイエスによる望みをしっかりと握るとき、世の与え得ない平安と喜びが私たちのうちに満ちあふれる」と説教します。この確信はローマ書15章13節の「望みの神が信仰によってすべての喜びと平安とをあなたがたに満たし…」という祝福の宣言とも直接結びついています。 教会内の葛藤を克服するには、何より互いに対する思いやりと忍耐が優先されなければなりません。「皆さんの中に葛藤がありますか? 争点がありますか? それならまず主の御言葉の前で自分の態度や心を点検しなさい」。パウロの勧めを要約すると、このようになるでしょう。張ダビデ牧師も葛藤の状況で、まず自分自身を振り返り、「私は本当にキリストの御心でこの問題に取り組んでいるのだろうか」と深く黙想することが必要だと教えます。葛藤の解決は究極的に「主にあって一つとなる道」です。対立する両者が共に主を仰ぎ、御言葉に照らされてへりくだるとき、そこに真の和解のきっかけが生まれるのです。この道は容易ではありませんが、聖なる共同体となるために必ず通らなければならない道であることを、私たちは心に留めるべきです。 結局パウロは、異なる見解や伝統を持つ共同体に対し「弱い者を受け入れ、強い者は弱い者に仕え、他者の喜びのために自分を犠牲にする」というキリストの生き方を繰り返し勧めます。これは単に「仲良くしましょう」という表面的な道徳的呼びかけではなく、教会がこの地上に神の国を完全に現すための根本的な倫理です。教会は世とは違わねばなりません。なぜなら教会の主はキリストであり、キリストが私たちのうちに働いておられるという事実こそが、教会を「聖なる共同体」として打ち立てる礎だからです。 2. 弱い者の荷を互いに担い、異邦人を受け入れる愛の共同体 パウロはローマ書15章の冒頭でこう力説します。「信仰の強い私たちは、信仰の弱い人々の弱さを担うべきであり、自分自身を喜ばせるべきではありません」(ローマ15:1)。この短い一節こそ、教会の具体的な実践指針であり、互いに配慮し合う姿勢こそ教会の基本的な姿だということを示します。葛藤が生じるとき、往々にして見られるのは、強い者が弱い者を押さえつけたり、互いに主張をぶつけ合って相手を無視したりする態度です。しかしパウロが示す教会の姿はまったく異なります。互いの荷をともに担う、まさに「共に泣き、共に笑う」共同体であるべきだというのです。 張ダビデ牧師はこの御言葉を引用しつつ、「私たちのうちにイエス様の御心がしっかり根を下ろすならば、兄弟の弱さを見たときに裁きよりも慰めが先に立つようになる」と説きます。さらに「自分自身を喜ばせることに没頭するのではなく、他者を喜ばせようと努めるときこそ、むしろ霊的な喜びに満ちあふれるようになる」という逆説的真理を提示します。これは大変重要な点です。なぜなら、人間は本来利己的な傾向が強く、少しでも困難なことが起これば自己中心的になりやすいからです。しかし信仰共同体において大切なのは、互いへの愛の献身と配慮を通して「天の喜び」を味わうことなのです。 あわせてパウロはイエスの模範を示します。イエスはご自身を喜ばせようとはなさらず、あらゆる侮辱や非難を代わりに背負われました(ローマ15:3)。これは十字架の道がまさに「愛の犠牲」を意味していることをはっきり示します。ちょうどヨハネの福音書15章12~13節で「互いに愛し合いなさい。友のために自分の命を捨てること以上の愛はない」と語られた言葉が、イエスの生き方によって証明されたように、パウロは教会共同体の中でも同じ原理が適用されるべきだと示唆します。兄弟のために、姉妹のために、喜んで自分の犠牲を負うことこそが真実の愛であり、そのような愛を通して「世が知らない喜び」を味わうのだ、とパウロは言うのです。 ここでさらに注目すべきは、「異邦人を受け入れる問題」です(ローマ15:7~13)。当時、ユダヤ人と異邦人との対立は非常に根深く重大でした。割礼の問題や律法遵守の問題、慣習や伝統など、互いに相容れない点が多かったからです。しかしパウロは「キリストがあなたがたを受け入れて神に栄光を帰したように、あなたがたも互いに受け入れ合いなさい」(ローマ15:7)と明確に命じます。パウロ自身も「異邦人に福音を伝えること」(ローマ15:16)が自分の使徒職の中心であると確信していました。彼はエルサレムから始まった福音が全世界へ、すなわちすべての国々へと広がっていくビジョンを抱いていたのです。 張ダビデ牧師は多くの説教で、「神の国は国境や民族的境界線を超越する」という事実を強調し、ユダヤ人と異邦人とを隔てていた壁が打ち壊された出来事こそが、教会史における大きな転換点だったと語ります。今日でも、人種、文化、言語、経済的背景の違いなどによって教会内で葛藤が起こる可能性がありますが、すでにキリストのうちにあってすべての壁は取り払われたのだから、私たちは「広い心をもって」他者を受け入れるべきだということです。このように異邦人を受容することは、単にパウロの時代の問題にとどまらず、いつの時代も教会共同体が取り組むべき継続的な課題です。私たちの周囲にいる文化的・社会的な「他者」を開かれた心で迎え入れ、ともに礼拝できるようになってこそ、教会は普遍的福音の精神を実践していると言えるのです。 パウロはこの問題に関連して、詩編やイザヤ書など旧約の予言を引用し、「神は最初から諸国民が主を賛美するよう計画されていた」(ローマ15:9~12)と力強く語ります。すなわち、神が救いを及ぼされる範囲は特定の民族に限られず、万国・万民を包括するということです。エペソ書2章でも「隔ての壁を打ちこわし、両者を一つにされた」(エペソ2:14)と宣言し、ユダヤ人であれ異邦人であれ、イエス・キリストのうちにあって一つにつながっているという真理を伝えます。教会はまさに「一つにする福音」を実践する場所であるべきなのです。 それゆえ、信仰の強い者たちは自分を高ぶらせるのではなく、弱い者や背景の違う人々を積極的に受け入れなければなりません。互いの相違点がときに葛藤を生むことがあっても、その違いを敵意や排除の理由とするのではなく、むしろ豊かな多様性の機会と捉え、互いに学び合い、成長していく道を模索すべきなのです。パウロはこれこそ「愛の共同体」が進むべき道であり、そうすることでこそ世にはない真の喜びと平安が共同体の内に訪れると語ります(ローマ15:13)。 張ダビデ牧師は「今日の教会がキリストの贖罪史的な愛を自らに体現し、この地のあらゆる異邦人(つまり、まだ福音に触れていない人々や文化的に疎外された人々)に対する宣教の使命を果たす道は、まず内部において『互いに仕え合い』、『憎しみの壁を打ち壊そうと努める』ことから始まる」と説きます。愛の対象は外面的な意味での異邦人だけでなく、教会内部にいる疎外された人、弱い人、心を痛めた人、あるいは意見の相違によって疎外されがちな人々も含まれます。そうしたすべての人々を「一つの体」として迎え入れる過程の中で、葛藤は自然と克服され、より大きな一致の喜びが訪れるのです。 さらにパウロは、この愛の共同体が「感謝と賛美」という言葉を通じて結束すると強調します。ローマ書15章9~12節に引用される詩編やイザヤ書の節々は「諸国民が神に感謝と賛美をささげる未来」を歌っています。結局のところ、教会の本質とは感謝と賛美に満ちていることです。本当に感謝する心があるならば、憎しみや紛争を増幅させる余地はありません。賛美によって神を崇める魂は、兄弟の欠点をあげつらうよりも、互いのために祈り合い、助け合う道を探します。そうして教会は「恵みと平安」に満ちあふれるようになるのです。 最終的にパウロは「望みの神が信仰によってすべての喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださるように」(ローマ15:13)という祝祷の言葉でこの部分を結びます。これは張ダビデ牧師の言葉を借りれば、「教会の真の希望はただ神の恵みにかかっており、その恵みは『一つとなるビジョン』のうちで最も力強く働く」という事実をよく示しているのです。弱い者と強い者、ユダヤ人と異邦人、そして現代の教会においてもさまざまな背景を持つ人々が皆、一つの共同体として結ばれ、神をあがめる姿こそが、パウロが思い描いていた教会の未来であり、今も変わらず教会の使命として有効なのです。 3. パウロの証し、エルサレム訪問、そして聖徒の連合のためのとりなしの祈り ローマ書15章後半(14~33節)は、パウロがローマの信徒たちにあてた手紙を締めくくりつつ、自分がどのような働きをしてきたのか、今後どんな計画を抱いているのか、またどのような祈りの課題を持っているのかを示す部分です。事実上、ローマ書全体の長い結論部であると同時に、パウロ自身の牧会的・宣教的情熱が表出している箇所です。 まずパウロは自らが「異邦人のためのキリスト・イエスのしもべ」であり、福音の祭司の務めを担っていることを宣言します(ローマ15:16)。彼はエルサレムから始まった福音を小アジア一帯に広め、さらにローマの国境地域であるイルリコン(現在のバルカン半島近辺)にまで伝わるよう献身してきたことを誇らしげに語ります。しかし、これは自分の業績を誇示する意図ではなく、「ただキリストが与えてくださった恵みによるのだ」という点を繰り返し強調するためです(ローマ15:17~18)。使徒パウロは「私は自分を宣べ伝えるのではなく、ただキリスト・イエスを宣べ伝えるのです」(第二コリント4:5)と語ったときと同じ姿勢を貫いています。このようにパウロの宣教的情熱は、「まだ一度も福音が伝えられていない場所」に福音を伝えようとする開拓精神から生まれます(ローマ15:20~21)。 張ダビデ牧師はこの箇所を取り上げ、「宣教とは、すでに誰かが福音を伝えて基盤を築いた場所に安住するのではなく、新しい地域、新しい人々、まだイエスを知らない魂へと出向いて行くことにその本質的意義がある」と解説します。教会が本当に生き生きしていてダイナミックであるためには、常に「パイオニア精神(pioneer spirit)」をもち、「新たな異邦の地」を切り拓く必要があります。もちろん現代社会において、その「異邦の地」は必ずしも地理的な意味に限定されないかもしれません。インターネット空間や先端科学技術がもたらしたコミュニケーションのチャンネル、多文化環境、精神的・社会的弱者の領域など、いまだ福音が行き届いていない領域は多々あるのです。教会はそこへと「福音の種を蒔こうとする」聖なる挑戦を成し遂げなければなりません。 ローマ書の読者は、パウロが「エルサレム母教会」を非常に重んじていたことにも気づくでしょう。彼は現在コリントの地方でこの手紙を書いていますが、いったんエルサレムに戻って「聖徒を助ける務め」を果たしてから(ローマ15:25~26)、改めてローマを訪れる計画を立てています。エルサレムの兄弟姉妹たちは深刻な飢饉に苦しんでおり、パウロが開拓した異邦人教会(マケドニアやアカヤなど)の信徒たちが集めた献金を届ける必要があったのです。パウロがこうしてエルサレム教会に仕え、献金を携えて戻ろうとする姿は、彼が「教会の一致と連合」をいかに重んじていたかを象徴的に示しています。教会は世界へと広がる宣教的な遠心力をもつ一方で、エルサレム母教会という求心力を失ってはならないと彼は信じていました。 張ダビデ牧師はここを「連合と秩序」と呼びます。各地域の教会がそれぞれ分散して独立して活動しつつも、同時に主が建てられた教会として一つの体をなし、霊的にも組織的にも連帯すべきだということです。パウロが異邦人教会とエルサレム教会を仲立ちし、献金を届ける行為は、単に経済的援助のやりとりにとどまらず、「一つの体とされた教会が互いに仕え合い、励まし合う」という重要な象徴でもあります。パウロは「肉的なもので仕えるのは当然だ」(ローマ15:27)と言い、異邦人教会はユダヤ人教会から霊的恵みを受けたのだから、物質的・経済的な面でもその恵みに報いるべきだと述べます。これがすなわち教会のうちで互いが負債を負っているという霊的な認識を証明する道なのです。 その後パウロは「この務めを終えて初めて、あなたがたのところに立ち寄り、さらにスペインまで行くだろう。エルサレム母教会に自分の宣教の実を示し、それが確証された後、スペインへ向かう道すがらローマの信徒たちにも会いたい」と希望を表明します(ローマ15:28~29)。ここにはパウロの世界宣教ビジョンが盛り込まれており、同時に教会が抱くべき「宇宙的(Cosmic)な礼拝」への憧れが表れています。彼はただいくつかの地域教会に限定するのではなく、地の果てに至るまで万人に福音を宣べ伝えたいと願っていました。そして究極的には「万人が神を賛美する」という壮大な礼拝が展開するという予言的ビジョンを持っていたのです。 手紙の終わりにあたり、パウロはローマの信徒たちに具体的な祈りの課題を三つ要請します(ローマ15:30~32)。第一に、「ユダヤで従わない者たちから救い出されるように」。当時パウロは、熱心党(ゼーロテ)やユダヤ民族主義者から深刻な脅威を受けていました。律法の完成を唱え、福音の普遍性を強調する彼のメッセージは、彼らには異端的で背教行為のように映ったのかもしれません。そこでパウロは、自身の安全のために祈りが必要だと訴えたのです。第二に、「エルサレムに対するこの奉仕を、聖徒たちが喜んで受け入れてくれるように」。つまり、異邦人教会による献金と宣教の実がエルサレム母教会の確認と承認を得てこそ、教会全体が分裂することなく一つの体として強固になるというのです。第三に、「神のみこころによって喜びをもってあなたがた(ローマ教会)のところへ行くことができ、共に憩いを得ることができるように」。これは、宣教地での激しい働きのあと、ローマの信徒たちとの平安な交わりを分かち合いたいというパウロの人間的な望みでもあります。 張ダビデ牧師は、パウロが示したこの祈りの要請が教えているメッセージを「教会の一致ととりなしの祈り」とまとめます。教会はパウロが直面する外的・内的な困難について「共に祈り」で参与し、その中で神の守りと導きを求めなければなりません。また信徒同士が互いに必要な経済的・霊的支援を行い、キリストのうちにある一つの体として励ましと慰めを分かち合うとき、「すべての民族に福音を伝える」という大いなる使命もいっそう弾みを得ることになります。結局パウロは「平和の神が、あなたがたすべてとともにおられるように。アーメン。」(ローマ15:33)という祝祷によってローマ書15章を事実上締めくくります。望みの神、平和の神を説きながら、教会が互いに一つとなる道はただその神にかかっているのだ、と宣言しているのです。 これは現代にもそのまま適用できます。教会が個人主義と世俗主義の波にさらされ、分裂しやすい時代の流れに直面しているとしても、私たちの望みは「望みの神」にあります。私たちの平和もまた「平和の神」にかかっています。張ダビデ牧師はこれについて、「私たちは根本的に神に依存する存在であり、その神こそが私たちを一つにされる力であることを信じなさい」と強調します。教会内の葛藤が深まるほど、また福音宣教の障害が多いほど、私たちはいっそうとりなしの祈りを絶やしてはならず、互いに助け合い、仕え合う使命を担わなければならないのです。 結論として、ローマ書15章に含まれるパウロのメッセージは、現代の教会の状況においても依然として生きた勧めと言えます。第一に、教会の中で葛藤が起こる際、キリストの愛にならい、互いに忍耐し合い、受け入れ合うこと。第二に、信仰の強い者が弱い者の荷を担い、異邦人のような「異なる存在」を広い心で受容すること。第三に、パウロが実際に示したように、教会が互いにとりなし祈りを捧げ、献身的に仕え合うことで「一つとなる教会」を目指すこと。張ダビデ牧師はこれら三つを指して「教会が教会らしくあるために必ず守るべき三本の柱」と呼ぶことがあります。なぜなら、これらの柱こそが主の体なる教会が世に光と塩の役割を果たすように支える土台だからです。 「私たちを召された主が、葛藤を解決する仲裁者となられ、聖霊を通して私たちを同じ思いと同じ口で神を賛美する者へと導いてくださるのです」。パウロの確信と説教者たちの宣言は、時代を越えてあらゆる教会共同体に有効です。私たちがこの御言葉を実際の生活の中で体現しようとするとき、教会は福音の力を世に示す真の管となり、互いに受け入れ合って一つとなり、主の望みを果たすという聖なる召しを全うすることになるのです。