ただ恵みにより、ただ信仰によって ― 張ダビデ牧師

1.ただ恵みによって ローマ書4章9~12節に示されているパウロの主張は、私たちの救いと義が人間の行いや功績によるのではなく、神の恵みによって与えられることを明確に示しています。これは、現代の私たちが教会生活や信仰生活を送る中で、うっかり見落としてしまいやすい核心的真理でもあります。パウロはその例としてアブラハムを挙げて説明します。特に「アブラハムにはその信仰が義とみなされたといえる」(ローマ4:9)という御言葉を通して、アブラハムが義と認められたのは割礼を受けたからではなく、神の約束を信仰によって受け入れたからだと強調されます。ここに含まれる霊的意味を深く探ってみると、人間の側の律法的努力や宗教的儀式によっては罪から自由になることは決してできず、ただ神の恵みの御手だけが罪人である人間を義とするという福音の原理が鮮明に浮かび上がります。 張ダビデ牧師が多くの説教や著述で繰り返し強調しているように、人間は本質的に弱く、自らの資格や功績で神の前に立てる存在ではありません。ユダヤ人であれ異邦人であれ、すべての人類が罪に支配されていたことを、パウロはすでにローマ書3章で宣言しています。「義人はいない、ひとりもいない」(ローマ3:10)、「すべての人は罪を犯して神の栄光を受けられなくなっている」(ローマ3:23)と示すことで、律法やイスラエル民族の選び、あるいは割礼の有無が、救いの決定的条件になり得ないことを明らかにしたのです。こうした前提の上でパウロは、アブラハムが義と認められた時期を想起させることによって、「割礼の有無」や「律法順守の有無」ではなく、「神の恵みと、その恵みを受け入れる信仰」がいかに決定的であるかを説き明かしています。 アブラハムに割礼が求められたのは、彼が99歳頃のことでした(創世記17:24)。しかし、創世記12章を見ると、アブラハムはすでに75歳のときに神から召しを受け、その御言葉に従いました(創世記12:4)。その時点で彼は神の約束を信仰によって受け入れ始め、創世記15章の記述の通り「アブラハムが主を信じたので、それが彼の義とみなされた」(創世記15:6)のです。つまりアブラハムが義と認められたのは、割礼を行う24年前だったのです。そうであるならば、アブラハムの義とされた理由は、決して行いや宗教的儀式、あるいは血統的な選民という身分にあったのではありません。彼が異邦の地で召され、割礼を受けていない状態でも「神の約束を全面的に受容する信仰」を示したため、神が一方的に義を賜った出来事だったのです。 この「一方的な賜物」こそが、恵みの核心です。恵み(ギリシア語でχάρις,カリス)とは、本来受ける資格のない者に対して注がれる神の好意を指します。私たちが救いについて深く考えるとき、限りなく聖なる神の前で、すべての人間は罪責から逃れられないという事実に突き当たります。罪人は贖いを必要とし、その罪の代価が支払われない限り、決して聖なる神の御前に立つことはできません。だからこそヘブライ書の記者は、「聖潔がなければ、だれも主を見ることはできない」(ヘブライ12:14)と宣言しました。問題は、罪人である人間が自分の力で罪の問題を解決できないことにあります。人が罪の代価を払おうにも、すでに罪の本性の中に囚われているゆえ、どんな功績や儀式も完全なる代償とはなり得ません。旧約の律法によれば、動物のいけにえによる犠牲の儀式は、一時的に罪の清めを象徴的に示すものでしたが、究極的・永遠的な贖いにはなり得ませんでした(ヘブライ10:4)。ただ聖なる神がみずから用意された道、すなわちイエス・キリストの十字架による代償だけが、罪からの解放を可能にしたのです。キリストの十字架が「血潮による功績」と呼ばれるのも、まさにこの理由によるのです。 張ダビデ牧師は説教を通して、神の恵みと愛がどれほど大きく驚くべきものかを繰り返し強調します。それによれば、人間は律法によって自らの罪を罪として認識するようになったものの、律法自体が罪人を義とし、完全に救いへ導くことはできませんでした。聖なる神の基準の前で、「いったいどれほどの義を積めば神に近づけるのか?」と問い続けても、最終的には「人間の行いでは不可能」という結論しか出ません。そのとき初めて、私たちは神の恵みなくしては救われないという切実な事実を思い知らされるのです。これは、パウロがガラテヤ書で鋭く指摘している「律法の行いによっては、義と認められる肉はひとつもない」(ガラテヤ2:16)という御言葉と正確に一致します。結局、パウロがローマ書とガラテヤ書全体で導き出した結論は、私たちの義は「自分の功績」ではなく「キリストの功績」にあり、そのキリストの功績を受け入れるよう招いてくださった神の恵みこそが救いの源泉だということです。 では、このような恵みは具体的にどのように働くのでしょうか。ローマ書4章でパウロが「割礼」に関する論争を取り上げる文脈に目を向けると、ユダヤ人たちは「選民としての誇り」を非常に重要視していました。その代表的な象徴が「割礼」でした。割礼はアブラハムの子孫であり、神と契約を結んだしるしとして行われ、これによって自分たちが神の民であることを証ししました。エルサレム教会の一部のユダヤ人たちは、初代教会に加わった異邦人も救われるためには、この「しるし」を必ず受けなければならないと主張したのです。「神は我々の民族を選び、我々にだけメシアをお与えになった」という意識の中で、アブラハムとの契約(割礼)を受けてこそ初めて選民となり、その上でイエス・キリストを受け入れるべきだと考えたわけです。しかしパウロはこれを正面から反駁します。アブラハムが義と認められた時点そのものが、すでに割礼を受けていない状態だったのだから、決して割礼が救いの前提条件にはなり得ないと主張し、救いが人種や文化を超えて万民に開かれていることを宣言しました。 神の恵みは、いかなる民族的優越や儀式をも要求しません。割礼もまた、すでに「割礼を受けていない時点」で与えられた「義」を証印(シール、seal)する役割にすぎず、義そのものを与える原因ではなかったのです。言い換えれば、今日の洗礼も同じです。洗礼は、キリストを信じることによって「すでに」罪の赦しと救いの恵みを受けた信者が、自分の内に成し遂げられた救いを「儀式」として公に告白するものであって、洗礼行為そのものに罪を赦す力があるわけではありません。ですからパウロはローマ書4章11節で「彼(アブラハム)が割礼のしるしを受けたのは、割礼を受けない時に得た信仰による義を保証するものであったのです」と説明します。私たちの信仰的行為は、すべてすでに神が恵みによって与えてくださった救いを「確証」あるいは「告白」する手段にすぎず、救いを「獲得」する道具にはなり得ないのです。 なぜ神の恵みがこれほど絶対的なのでしょうか。それはイエス様ご自身がお語りになったたとえ話に表れた「ぶどう園の労働者のたとえ」(マタイ20章)を通して、私たちは恵みの本質をさらに深く味わうことができます。朝早くから働いた者も、昼頃に来た者も、日が暮れる寸前に来た者も、同じ1デナリオンを受け取ります。ぶどう園の主人は言います。「わたしは気前がいいのだから、あなたは妬むのか?」と。ここに見えるのは、論理や計算ではなく「一方的な施し」こそが神の恵みであるという点です。朝から働いた者にとっては、後から来た者と同じ賃金をもらうのは不公平に思えるでしょう。しかし、それが「神の国の原理」なのです。神の国では、人間が誇れるいかなる特権も、努力も、血統も、決定的地位にはなりません。ただ無条件の愛、一方的恵みがすべてを支配するのです。これはローマ書3章でパウロが「私たちは本来みな罪人であったが、ただで義とされた」(ローマ3:24)と明かす文脈と一致しています。 では、なぜ教会の中や各人の信仰生活において、この恵みがしばしば霞んでしまうのでしょうか。ローマ書4章の問題やガラテヤ書全体の問題を見渡すと、律法主義的な考え方こそが、恵みを曖昧にさせる最大の原因であることがわかります。律法主義とは、人の行いや功績によって義と認められると主張したり、あるいは少なくとも「神の恵み+自分の律法的功績」という二重の方法を追い求める立場です。しかしパウロはそうした試みを「ほかの福音」と断言し(ガラテヤ1:6-7)、それは結局、人を罪の重荷から解放するどころか、むしろ重い律法の束縛の下に置いてしまうと警告しています。恵みを受けなければ、私たちは罪の重荷を下ろすことができず、気づかぬうちに高慢になり、「自分は救われる資格がある」と錯覚したり、逆に律法の重さに押しつぶされて絶望するという両極端に陥りやすいのです。一方の極端は、自分の義に酔いしれて高慢になることであり、もう一方の極端は、罪責に打ちひしがれて自分を絶望の中に閉じ込めてしまうことです。 張ダビデ牧師は、このような律法主義的な弊害を指摘しつつ、十字架の恵みを悟ることこそが信仰の出発点であり、結論でもあると強調します。イエス・キリストの十字架の代償は、神の御子が「私たちの代わりに罪となられ、私たちが神の前で義となるようにしてくださった」救いの出来事です(第二コリント5:21)。罪人であった私たちが義人へと逆転されるこの出来事は、まったく神のご計画と愛によってのみ成し遂げられました。この愛なしには、人間のいかなる努力や功績も救いを保証してはくれません。結局、恵みとは、罪人である私たちが「資格あり」とみなされて神に近づくのではなく、何の資格もないにもかかわらず神が「子どもとして受け入れよう」と言ってくださり、招いてくださる賜物なのです。これを受け入れる姿勢が、「主よ、どうか私をあわれんでください」と祈るへりくだった心であり、その心こそが恵みを体験する通路となります。 パウロが「しかし、神の恵みによって、私は今の私になりました」(第一コリント15:10)と告白したのも、同じ意味を持ちます。彼はかつて教会を迫害し、ステパノの殉教にも加担していた(使徒7:58、8:1-3)自分自身の過去を振り返るとき、そんな自分を使徒として召された神のご計画がどれほど驚くべき恵みだったかを悟るのです。それは、いかなる資格でも説明できない一方的な愛でした。だからこそパウロは「恵みが恵みであるためには、ただ神が施される愛であるべきだ」と強調し、ローマ書4章でもアブラハムを例に挙げて「この幸いは割礼を受けた者だけにあるのか、それとも割礼を受けない者にもあるのか」(ローマ4:9)と問いかけます。そして明確に答えます。「割礼を受けたときではなく、割礼を受けないときであったのです」(ローマ4:10)。つまり、救いはユダヤ人にも異邦人にも等しく開かれているという事実です。神の恵みは、ある特定の民族や領域だけに限定されず、罪に縛られたすべての人に開かれており、彼らを義と宣言される神の救いのご計画は、「恵みのうち」に完成されるのです。 この恵みが私たちに与えるメッセージは非常に大きいのです。私たちがどんな過去を背負っていても、神は罪人である私たちをあわれみ、十字架によって罪の問題を解決されました。もはや罪責に囚われる必要はありません。私たちは神の前で「すでに義」と宣言されており、その根拠は「イエス・キリストの血」と「神の愛」です。この事実に気づくとき、ある人は悔い改めと涙を流し、ある人は自由を体験し、ある人は神に感謝と賛美をささげます。こうした感激こそが、真の恵みを体験した証です。 問題は、時間が経つにつれて教会の中にある恵みへの感激が冷め、代わりに形式的な礼拝や慣習的な信仰行為が根を下ろすと、「私はこれこれをしたから義とされる」という律法的な態度が自然に頭をもたげることです。張ダビデ牧師が指摘するように、これこそが教会の病弊であり、キリスト教信仰が本質を失い形式化したときに現れる特徴なのです。私たちの出発点が恵みによるものであることを見失うとき、信仰生活は重荷になってしまいます。ディートリヒ・ボンヘッファーが述べた「高価な恵み」が「安価な恩恵」に堕落するという指摘も、まさにこの点を指しています。高価な恵みとは、神が独り子を犠牲にされるほど私たちを愛してくださった愛であり、その結果、私たちが罪から解放され自由を得たという出来事です。これを思い出すたびに、私たちはさらに深い感激と献身、そして隣人への憐れみの心を抱くようになります。ところが恵みを忘れれば、教会生活は義務感だけが残り、宗教的習慣に埋没して逆に霊的高慢や排他性を生み出すのです。 ローマ書4章11節でパウロが「これは割礼を受けないで信じるすべての人の父となって、彼らも義とみなされるためでした」と述べる際、その意図は明確です。神はひとつの民族だけの神ではなく、全人類の神であり、その救いの実りを、割礼を受けた者も受けていない者も共に受け取ることができることを確証しておられるのです。これがまさに「恵みは境界を打ち壊す力」であることを示す場面です。旧約時代に神との特別な契約のしるしであった割礼は、「今や割礼は不要」という結論のために存在していたのではなく、むしろ「より根本的なものがある。すなわち神の恵みと、その恵みを受け入れる信仰である」という福音を説き明かすための雛型だったといえます。 したがって4章12節にあるように、アブラハムは割礼を受けた者の父であり、同時に割礼を受けていない状態で示した信仰の足跡をたどるすべての異邦人の父ともなったのです。彼の役割は、「信仰と恵み」の普遍性を明らかにする決定的な例証です。彼は75歳の時点で、無条件に神の御言葉に従って故郷と親族と父の家を離れ、全く未知の約束の地へと旅立ちました。その歩みは、恵みに対する従順であり、信仰そのものでした。このようにアブラハムは神の恵みに身をゆだねて進み、結果としてすべての信仰者の「祖先」、すなわち「模範」となったのです。これがキリスト教の歴史においてアブラハムが占める特別な位置づけです。 今日、私たちの信仰的適用は明白です。私たちは教会の中で奉仕をし、礼拝にあずかり、献金をささげ、聖書を読み、祈りなど様々な信仰生活を行います。しかし、これらすべての行為が前提とすべきことは、「すでに受けている恵み」です。恵みが先で、行いはその後です。行いは恵みに対する感謝と献身の表現であるべきです。この順序が逆転すると、教会での奉仕や礼拝への参加、さらには祈りや伝道さえも、いつのまにか「自分の義」を積み上げる道具に変質してしまう恐れがあります。そうなれば、キリストの十字架の恵みは忘れ去られ、人間の誇りや傲慢だけが残ってしまいます。 実際、高慢は恵みを忘れたときに生じます。恵みを握りしめるなら、自然と私たちの心はへりくだり、感謝に満ちあふれます。「もしキリストの血によらなければ、私は生きる望みのない者だったのだ」という事実を悟れば、決して他者を裁いたり、隣人を蔑視したり、自分が何か大層な義を持つかのように思い上がることなどできません。私たち全員が「赦しを切実に必要としていた者だった」という悟りこそが、互いへの憐れみと愛を生み出します。それは教会共同体の中で和合と真の一致をもたらす基盤となります。張ダビデ牧師が強調しているのも、この点にほかなりません。教会は「恵みを受けた者たちの集まり」なのだから、結局、恵みに根ざした愛と分かち合いこそが共同体の本質であるべきだというのです。 結局、ローマ書4章9~12節でパウロが示す神学的結論は、「救いは人間から出たものではなく、ただ神の恵みから来る」ということであり、アブラハムがそれを証言する生ける例だという事実です。そしてパウロはこの教えを通して、教会内にある律法主義や排他主義、特権意識、あらゆる形態の自己義を厳しく退けます。神の恵みが強調されるとき、教会はようやく世の中で福音の力を示すことができるようになります。恵みのない教会生活は冷たい形式主義や人間的権力争いに陥りやすいですが、恵みに満ちた教会は互いの過ちさえも受け入れ、赦しと悔い改めがあふれ、愛に満ちて社会を変えていく生命力を放つのです。 パウロがこれほど「恵みの教理」を力説するのは、神の国が「恵みを悟った者たちの共同体」だからです。イエス様が罪人たちとともに食事をし、取税人や娼婦、病人や悪霊に苦しむ者を訪ねられた姿こそ、この「恵みの神」が罪人である人間を訪ねてくださる出来事の雛型でした。私たちがこれを現代でも同じように体験する道は、十字架の前に自分を明け渡し、「ただ恵みによって」近づくことだけです。その瞬間、私たちはこの恵みの内にとどまり、恵みの中で新しい命に生きる力を得るのです。このすべての過程を通して、パウロは、人間の功績や善行、儀式を救いの条件にしようとする試みを断固として排除しました。この点は今の時代にも変わらず有効です。 ローマ書4章9~12節に目を通し、「ただ恵みによって」という主題を特に心に刻むとき、教会が本当に回復すべき霊的基礎が何であるかが見えてきます。世の基準で人を計る心や、教会の中でさえ序列意識を作り出し互いを批判し分裂する態度、さらには「神の業」という名目で自慢や誇示にふける姿があるとすれば、それはすでに恵みに背を向ける道です。ただ恵みを握る人は自分が「罪人のかしら」であったことを忘れないので、互いを愛をもって受け入れ、教会と社会に対してへりくだって仕え、神の前で常に感謝と謙遜を告白するようになります。アブラハムが割礼を受けていない状態で受けた「無条件の義とされた恵み」を深く黙想するとき、私たちは「自由」と「感謝」に満ちあふれます。この自由と感謝の喜びを味わうことこそ、真の福音の力です。 最後に、張ダビデ牧師が述べるように、高価な恵みを決して「安価な恩恵」にしないよう注意しなければなりません。安価な恩恵は、「どうせ救われたんだから好き勝手に生きてもいい」というように堕落した形をとり得ます。しかし高価な恵みは、「こんなにも大いなる愛を受けたのだから、どのように主を喜ばせられるだろうか?」という感激と情熱へと私たちを導きます。救いは無償ですが、イエス様にとっては非常に高い代価が支払われました。人間の罪を贖うために十字架の上で流された血は、あまりにも尊い犠牲だったのです。私たちがこの犠牲によってただで義とされていることを知るならば、決してその恵みを軽んじて放縦に陥ることはできないはずです。むしろ日々主に感謝し、その恵みによって新しい人へと変えられ、神の御心に従う熱い思いを抱くようになります。これこそが「恵みが恵みである」真の姿であり、ローマ書でパウロが教えている福音の精髄です。 このように見ると、ローマ書4章9~12節に含まれている「ただ恵みによって」という教えは、教会の本質と信仰生活の方向を打ち立てる礎石といえます。現代の私たちもこの恵みの上にしっかりと立ち、律法主義や人間的な義の誇りから離れ、罪人を生かす神の驚くべき愛をあがめながら、信じる者にもまだ信じていない者にもその道を開いてくださる神の憐れみを豊かに体験していく必要があります。まさにこの恵みこそ、ローマ書が一貫して語る「義人は信仰によって生きる」(ローマ1:17)という福音の核心なのです。 2.ただ信仰によって 先に「ただ恵みによって」という主題が神の救いの御業においていかに根本的意義を持つかを見てきました。ところが驚くべきは、この恵みが「客観的事実」として存在するだけでなく、私たち一人ひとりに適用されて「義とされる」ために必ず必要な要素があることです。それこそが「信仰」です。人間の側で唯一求められる応答であり条件が「信仰」であるという真理は、宗教改革の時代に「ただ信仰によって(Sola fide)」というスローガンとして凝縮され、張ダビデ牧師も数多くの講解説教において、この真理が過去のある時代だけのことではなく、いまこの時代を生きる私たちにも最も切実な福音であると強調してきました。 ローマ書4章9~12節でもパウロは、義と認められる決定的な鍵として「信仰」を繰り返し提示しています。「アブラハムには、その信仰が義とみなされたといえる」(ローマ4:9)、「彼が割礼のしるしを受けたのは、割礼を受けない時に得た信仰による義を保証するものであったのです」(ローマ4:11)という言葉を通し、アブラハムがどのようにして義を得たのか、またその義の確証がいかに示されたのかを明快に説き明かします。ここに含まれる核心は明白です。アブラハムが救われたのは信仰によるのであって、その信仰を裏づけるものとして「割礼」という行いが後から伴ったのであり、割礼自体が救いの条件ではなかったという事実です。 信仰とは、聖書的に見ると、単に「神様はいるだろう」と漠然と思うレベルを超えています。むしろ聖書的信仰とは、神が与えた「御言葉」を「心」で受け入れ、その上で「生活を動かす」力となる動的な態度です。ヘブライ書11章1節は、信仰を「望んでいる事がらの実体であり、まだ見ていない事がらの証拠」と定義します。アブラハムは、現実とはまるでかけ離れた状況(自分も妻サラも年老いていて子を産めない状況)にあっても、神の約束をそのまま受け入れ、それゆえに義とみなされました(創世記15:6、ローマ4:17~22)。このような信仰の姿勢は、やがて生活に変化をもたらします。割礼を受けよという命令も、故郷を離れよという命令も、さらに息子イサクをささげなさいという命令でさえも、アブラハムは非合理的に見えるほどに従順しました。これこそが「信仰」の実際的な働き方なのです。 なぜここまで「ただ信仰によって」と強調されるのでしょうか。それは、人間にはほかのどんな方法によっても神の恵みを自分のものとする術がないからです。行いや律法の順守、あるいは功績を積むといった形で神に近づこうとしても、私たちの罪性と限界ゆえ、いつも失敗せざるを得ません。義なる神の基準の前に、まったく傷のない者として立つことができないのが人間だからです。にもかかわらず、人間の歴史には「自分の力で神に義と認められる」という試みが繰り返されてきました。イスラエルの民の歴史も同様であり、教会の歴史においてもいろいろな律法主義や異端的教えが常にこうした誤解を誘発してきました。 張ダビデ牧師はこの点を繰り返し説き、「信仰は『私たちに向けられた神の賜物』を開かれた心で受け取る通路だ」と説明します。信仰がなければ、神の恵みさえも私たちに適用されません。イエス様が公生涯で多くの奇跡を行われたとき、「あなたの信仰があなたを救ったのです」「あなたの信じたとおりになるように」と繰り返し語られたのも同じ文脈です。イエス様が施されるいやしと恵みは、誰に対しても向けられていましたが、それを受け入れたのは「信仰」をもって応答した人たちでした。その信仰は、盲目の乞食や病気の女、さらには罪人だと指さされていた人々の中にも見出されました。逆に、律法に精通していると自負していたパリサイ人や宗教指導者たちは、自分の義を誇示するあまりイエス様の恵みを拒むことさえありました。 ローマ書4章9~12節の文脈に戻れば、割礼を「救いの必須条件」と主張する人々は、事実上「自分の行いや儀式が救いを決定づける」と考えていた態度でした。それは信仰の本質を歪めることにほかなりません。もちろん割礼や洗礼、そのほかの教会的儀式には重要な意味と価値があります。しかし、その儀式自体が救いの力となるわけではありません。イエス様がパリサイ人たちに「あなたがたは杯や皿の外側はきれいにするが、内側は汚れている」と厳しく糾弾された箇所(マタイ23:25~26)は、外的儀式にこだわりながら、内面の変化、すなわち信仰から生まれる従順と敬虔を軽視する態度への強い叱責でした。同様にパウロは、割礼そのものではなく、その背後にある「信仰」を強調することで、「ただ信仰によって義とされる」という福音を確立させるのです。 特にガラテヤ書3章を見ると、パウロはアブラハムが割礼によってではなく「信仰」によって義と認められたことを再確認したうえで、「このようにアブラハムを信じる人々は、信仰によって祝福を受けるのです」(ガラテヤ3:9)と宣言します。そしてさらに「律法の行いに頼る人々は、みな呪いのもとにあります」(ガラテヤ3:10)と言い切り、律法による救いではなくキリストによる救い、すなわち信仰によって「キリストのうちにとどまる」ことだけが真の自由を与えると明示します(ガラテヤ5:1)。これはすなわちローマ書1章17節の「ただ義人は信仰によって生きる」との主題と軌を一にしています。パウロ神学全体を貫く要は「信仰によって義とされる」という点にあるのです。これを、教会史の中ではルターやカルヴァンなどの宗教改革者たちが「ただ信仰によって(Sola fide)」とまとめました。彼らは中世教会が免罪符や功徳、聖人崇拝などを通して救いを保証しようとするあり方を強く批判し、聖書が語る「信仰による義認」を再び回復しようとしたのです。 しかしここで「ただ信仰によって」というスローガンが、行いをまったく無視したり不要とみなしたりするという意味では決してありません。ヤコブの手紙2章17節は「行いのない信仰は、それだけでは死んだものです」と述べています。真の信仰は必ず生活のなかで実を結びます。アブラハムもまた、信仰によって義と認められただけでなく、その信仰ゆえに自分の生き方を根本的に変えました。彼は割礼を受け、さらに息子イサクを捧げよという命令にまでも従順しました。このように「信仰によって救われた者」は、その恵みに感謝して神の御言葉を守ろうとする熱意を抱くことになります。パウロはこれを「信仰のゆえに従順する」(ローマ1:5)と表現しています。信仰が救いの条件ですが、救われた後の生き方で必然的に神への忠誠が表されるという意味です。 張ダビデ牧師がローマ書とガラテヤ書、さらにヤコブ書までまとめて説教する中でしばしば語っているように、「ただ信仰によって救われる」ということと「信仰の実として善い行いをする」という二つの軸は決して矛盾しません。救いを得る根拠は行いではなく信仰ですが、救われた者は「キリストにあっての善い生き方」をし、主の命じられた戒めを喜んで守り、他者に仕える実を結ぶようになります。つまり行いは「救いを達成するための道具」ではなく、「救われた者が結ぶ自然な実」であるというだけの違いです。この順序を正しく理解できないと、私たちは律法主義に偏ったり、逆に「行いは全く必要ない」という極端な放縦主義(反律法主義)に陥る危険が生じるのです。パウロがガラテヤ書5章13節で「自由を肉の機会としないように」と警告しているのも、信仰によって自由とされた信徒が、その自由を乱用してしまわないように促すためです。 ローマ書4章11~12節でパウロが「割礼を受けないで信じるすべての人々の父となり…さらに割礼を受けた人々の父ともなった」と語る部分は、アブラハムが「信仰」によって神の救いを享受した模範的存在であるがゆえに、ユダヤ人と異邦人を問わず「信仰によって近づくすべての者」の父となったという意味です。アブラハムが受けた祝福と約束が、いまやすべての信じる者に開かれているという宣言と言えるでしょう。これは教会が民族や言語、文化の相違によって分裂してはならず、「信仰の共同体」というアイデンティティの中でこそ一致すべきだというメッセージを伝えています。私たちが互いに違う環境や背景を持っていても、イエス・キリストを信仰によって受け入れる瞬間、アブラハムの祝福を継承する者となり、キリストにあってひとつの家族となるのです。 この信仰が実際の信仰生活にどう適用されるかを考えるとき、イエス様の「ザアカイよ、急いで降りてきなさい。今日はあなたの家に泊まることにしているから」(ルカ19:5)というエピソードを思い出せます。当時、取税人の頭であったザアカイは、金銭欲に駆られて同胞をだましていた罪人だと非難されていました。それでもイエス様は彼に近づき、ザアカイはイエス様の招きに自分を開きました。そして「主よ、わたしはだれからでもだまし取ったものを四倍にして返します」と宣言し、生き方を変えたのです。イエス様はそれを見て「今日救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのです」(ルカ19:9)とおっしゃいました。すなわち、イエス様を受け入れる信仰が救いをもたらし、その信仰がザアカイの実際の生活と行動に変化を生じさせたのです。ザアカイが律法的に清めの儀式を行ったり、特別な功徳を積んだりしたことが救いの条件ではありませんでした。キリストを受け入れる信仰こそが彼を救いへ導いたのです。 「ただ信仰によって」は、一見すると信仰生活を容易にする単純なスローガンのように聞こえるかもしれません。しかしその背後には、十字架の厳粛な意味が据えられています。神が罪人である私たちを生かすために御子を犠牲にされたという、最も劇的な犠牲の出来事が信仰の土台なのです。それゆえに信仰とは、その出来事を「頭で同意」するだけにとどまらず、「今から主が私の主であり、私は主のしもべとなります」と自分の人生をまるごと委ねる態度にほかなりません。ローマ書10章9節で「もしあなたの口でイエスを主と告白し、また神がイエスを死者の中からよみがえらせたとあなたの心で信じるなら、あなたは救われる」とあるとき、そこで「主(κύριος)」と告白するのは、イエス様が自分の人生の王であると宣言する行為です。それこそが真の信仰です。そしてその信仰は、当然ながら人生全体を変えていきます。 張ダビデ牧師はこの信仰の変革力について、信仰はただ救いというゴールに到達するための手段ではなく、救われた後の全行程でも私たちを導く力だと強調します。私たちは日々の生活で選択をし、決断し、葛藤に直面しますが、そのたびに「本当に神を信頼するのか? キリストの御言葉に従うのか?」という問いかけの前に立たされます。信仰は一度きりの出来事ではなく、日々続いていく「生きた」関係なのです。ちょうどアブラハムが創世記12章で召されて旅立ったときだけでなく、99歳のときに割礼を命じられたときも、息子イサクをささげよと言われたときも、信仰によって生きねばなりませんでした。そのような過程を通してアブラハムの信仰はさらに成熟し、私たちは彼を「信仰の父」と呼ぶようになったのです。 ローマ書4章12節の終わりにある「割礼を受けない時にアブラハムが持っていた信仰の足跡を踏む人々」にも言及するくだりは、単に「異邦人も救いの対象に含まれる」という話だけでなく、むしろ「アブラハムが示した信仰の生き方」がすべての信徒の歩むべき手本であるという深い意味を含んでいます。アブラハムのように私たちも、はっきりとした保証が見えないときでも神の約束を握り、時には筋が通らないように思える命令でも従わねばならないときが来ます。信仰は抽象的な観念ではなく、「御言葉に従って実際に動き、献身する」ことなのです。そのような信仰をもつとき、私たちは神と共に歩む真の喜びを味わうことができます。 結局、パウロがローマ書4章で示すのは、「ただ信仰によって」という教えこそが福音の核心部であるということです。この福音はすべての罪人に開かれており、イエス・キリストの十字架と復活によって決定的な根拠を得ました。どのような罪人でも、この信仰によって義とされ得るのです。そして信仰にとどまる人は、その義とされた恵みに甘んじて放縦に走るのではなく、むしろキリストの愛と恵みに感動して従順と聖なる道へ進んでいきます。これがキリスト教の福音が宣言する「義認と聖化」の関係です。義認はイエス・キリストを信じたときに即時的かつ完全に与えられる身分上の変化(罪人から義人への転換)を指し、聖化はその後のプロセスとして、信仰を通して段階的にイエス・キリストに似た姿に変えられていく生活を意味します。義認と聖化は分離したり対立したりせず、真の信仰のうちで自然につながっています。 実際、歴史上のさまざまなリバイバル運動や霊的覚醒の時期を振り返ると、「信仰によって義とされる」という福音が力強く宣べ伝えられたときにこそ真のリバイバルが起きています。たとえば、ジョン・ウェスレー(John Wesley)はローマ書の講解を聞くうちに「心が熱くなった」と告白し、それをきっかけにメソジスト運動が起こり、イギリスと世界中にリバイバルが拡大しました。マルチン・ルター(Martin Luther)も「ただ義人は信仰によって生きる」(ローマ1:17)という御言葉を悟った瞬間、宗教改革の火が燃え上がりました。そのためローマ書が「聖書の中心」と呼ばれるのは、この信仰の福音が最も鮮明に示されているからです。 今日でも多様な信仰共同体が存在し、神学的スペクトラムもさまざまですが、「ただ信仰によって」という真理は、どの時代や教派を問わず守られるべき福音の根幹です。張ダビデ牧師が説くように、この真理が揺らぐとき、教会は必然的に人間の努力や制度、儀式、功績に依存しようとして福音の光を失ってしまいます。また、信仰の価値を誤解すれば、「どうせ信じているならどう生きても構わない」という形で堕落する可能性もあります。しかし聖書は、私たちに「心を尽くし、命を尽くし、力を尽くして主なるあなたの神を愛せよ」(申命記6:5、マタイ22:37)と命じています。真の信仰は、このような全人的な献身と愛として現れるのです。 このようにして、ローマ書4章9~12節が教会と信徒に告げるメッセージは明快です。私たちの救いは「ただ恵みによって」与えられ、その恵みをわがものとする道は「ただ信仰によって」のみ可能です。人のどんな行いや功績ではなく、私たちが罪人であるにもかかわらず「赦そう」と言ってくださる神の約束に全面的により頼む姿勢、これこそが私たちを救いに導く信仰なのです。割礼か無割礼か、律法を守るか否かという問題は、パウロの結論によってもはや排除されました。キリストにあってユダヤ人と異邦人が分かれる理由はなく、私たちの行いによって義とされる道はありません。そうである以上、残るのはただ恵みと信仰だけです。 日常生活においても、私たちは多くの悩みや葛藤の中で信仰の決断を迫られる瞬間に直面します。ときには経済的困難や病、対人関係の破綻、ビジョンの喪失など、多様な問題が私たちを押しつぶそうとします。そのたびに私たちは「本当に神を信じるのか?」という問いの前に立つのです。信仰は問題の大きさや現実の重さではなく、「神がどのようなお方か」を見る視線です。信仰は「神は善良であり、どんな状況の中でも私を支えてくださる」という確信なのです。アブラハムが百歳になってイサクを授かり、息子イサクをささげよと命じられても従えた背景には、「約束してくださった方は真実なお方だ」という確信がありました(ヘブライ11:11)。このように信仰は人生のあらゆる領域で私たちを導く羅針盤の役割を担います。 最終的にローマ書4章9~12節は、現代を生きる私たちにこう宣言します。「救いはただ恵みによって与えられ、その恵みを自分のものにする道はただ信仰によってである」。張ダビデ牧師がさまざまな場面で繰り返し教えているこの真理は、決して古めかしい教義や抽象的な神学理論ではありません。むしろ最も現実的で、最も切迫しており、人生の方向を変える力をもつものです。もし教会が律法主義や世俗的思考に浸っているとすれば、それはこの福音の真理を見失った結果であり、恵みと信仰が失われた共同体の姿です。しかし私たちが再び恵みと信仰を握りしめるならば、教会の内に真のリバイバルが起こり、信徒一人ひとりが罪と絶望から解放されて新しい命の力を体験するようになります。 要するに、パウロはアブラハムがどのようにして義と認められたのか、また割礼がどのような役割を果たしたのかを考察することで、救いの本質が「恵みと信仰」にあると宣言しています。クリスチャンである以上、私たちはこの宣言に自分の存在と生き方を委ねるべきです。割礼が救いの条件ではなかったように、今日でも教会奉仕や献金、あるいは聖書を熱心に読むことも、救いそのものを得る道具にはなり得ません。唯一の根拠は「神の恵み」であり、それを受け取る「私たちの信仰」という手しかありません。そしてその信仰が正しく根を下ろすとき、自ずと素晴らしい行いの実が結ばれ、私たちの生活の中でキリストを証しするようになるのです。 これこそがキリスト教福音の核心であり、ローマ書4章の要旨であり、同時に教会史を通じて繰り返し語られてきた教えなのです。ローマ書4章9~12節の講解を通じて、私たちは「ただ恵みによって」と「ただ信仰によって」が切り離せない一対であることを改めて確認できます。どちらか一方でも軽んじれば、福音は本来の力を発揮しません。「ただ恵みによって」を軽んじれば人間の功績や誇りが入り込み、「ただ信仰によって」をなおざりにすれば、どれほど大きな恵みがあっても私たちの生活に実際的に適用されません。ゆえにこの二つの真理は共に握りしめられねばならず、教会がその真理の上に立つとき、私たちはようやくアブラハムの信仰にあずかり、彼が受けた祝福と栄光をともに享受する真の神の子どもとして生きることができるのです。そして子どもとして生きるその歩みは、日々感謝と喜びに満ちあふれ、義の実を結んで世にキリストの光を放つという使命を全うするようになるでしょう。「この幸いが割礼を受けている者だけのものなのでしょうか。それとも、割礼を受けていない者にも及ぶのでしょうか」(ローマ4:9)というパウロの問いへの答えは、結局「すべての人に開かれており、その道はただ信仰によってのみ可能である」という福音の核心へと行き着きます。このように福音が開かれるとき、教会はもはや排他的な宗教ではなく、すべての人々に向けられた神の救いの通路となり、世を変えていく使命を担うことでしょう。これこそがローマ書が私たちに告げる力強いメッセージであり、張ダビデ牧師をはじめ多くの説教者が「ただ恵みにより、ただ信仰によって」を繰り返し力説する理由なのです。 www.davidjan.gorg

迫害を超えて – 張ダビデ牧師

1. エルサレムと初代教会の歴史 エルサレムは聖書の中で非常に重要な都市として登場します。旧約時代からエルサレムはダビデ王国の首都であり、ソロモン王がここに神殿を建て、複数の王朝を経ながら栄光と衰退の歴史を併せ持った場所です。このような背景を理解してこそ、使徒の働きで起こる一連の出来事を正しく解釈できるのです。とりわけ使徒の働きにおいて、エルサレムは「聖なる都」と呼ばれ、初代教会の中心となった場所でした。イエス様が復活して昇天された後、弟子たちに「エルサレムを離れず、聖霊を受けるまで待ちなさい」と命じられた場面(使徒1:4)は、エルサレムが歴史の出発点であり、福音が全世界に広がっていく拠点であることを明確に示しています。エルサレムで共に集まり祈り、聖霊の力を受けた弟子たちは、そこを足がかりに福音を証し始め、3千人、5千人と次々に回心者が増える歴史的なリバイバルを体験したのです。 しかし、初代教会はエルサレム神殿と公式的な宗教体制の中で、常に安泰だったわけではありません。実のところエルサレムは、キリストを殺した宗教指導者たちが居座る場所であり、キリスト教信仰に対して苛酷な迫害が行われる拠点でもありました。初期のキリスト者たちは神殿中心の礼拝から追い出され、家庭教会、すなわち「家で捧げる礼拝」へと転換せざるを得なかったのです。有名な例として「マルコの屋上の間」が挙げられます。彼らは華麗で壮大な建物ではなく、家のようなプライベートな空間を聖別して礼拝を捧げ、祈りに励みました。この歴史は、教会とは「建物」ではなく、イエス・キリストを頭(かしら)とし、聖霊の内に集まる信徒たちの交わりであることをよく示しています。 エルサレム教会に対する迫害が激しくなると、使徒の働き8章1節に「その日、エルサレムにいる教会に対して大迫害が起こり、使徒たち以外はみなユダヤとサマリアの全地に散らされた」という記録が出てきます。この迫害はステパノの殉教事件をきっかけにさらに加速しました。ステパノは初代教会の最初の殉教者であり、自分を石打ちにしている者たちのために赦しの祈りを捧げながら、イエス様に倣う愛と大胆さを示しました。ステパノの死は教会共同体に大きな悲しみと衝撃を与えましたが、同時に福音が一つの地域にとどまらず「散らされる」形で拡張される決定的なきっかけともなったのです。このように「迫害」を通じて新たなリバイバルが始まるという逆説的な歴史は、聖霊の摂理と力を示す象徴的な出来事と言えます。張ダビデ牧師は、このエルサレム教会の歴史を繰り返し強調します。彼が語るエルサレム教会の特徴は、聖霊の力、福音の力、そして犠牲と殉教を通じた拡大という点に要約されます。 使徒の働き1章8節でイエス様は「しかし聖霊があなたがたに臨まれると、あなたがたは力を受け、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てにまで、わたしの証人となるであろう」と語られました。これは明確な段階と順序を伴う命令であり、福音宣教はまずエルサレムで始まり、ユダヤとサマリアへ広がり、最終的には「地の果て」、すなわちすべての民族へと伸びていくべきであることを意味しています。ところがエルサレムに留まりたがったクリスチャンたちが集まり続けているうちは、このイエス様の「地上大命令」は実現しませんでした。結果的に、「迫害」という外部的要因が働くことで、エルサレムの中で安全に留まろうとしていた信徒たちを外へ追いやったのです。これを指して「神は迫害さえも福音拡大の手段として用いられる」と言えるでしょうが、これは張ダビデ牧師のメッセージ全般に流れる重要なテーマでもあります。 エルサレム教会が成長していく中で、3千人、5千人という爆発的な増加が起こったのは、福音の力強さを示すものです。しかし彼らの多くは、エルサレムの内側でだけその恵みを享受しようとし、ユダヤやサマリアへ積極的に出ていこうとする動きはあまり見られませんでした。主が命じられた「出て行かねばならない」という使命を実践するよりも、初代教会の信徒たちはある意味、自分たちの“故郷”とも言えるエルサレムに留まりたかったのかもしれません。結局、神はステパノの殉教とそれに続く迫害を通じて信徒たちを散らされたのです。これが使徒の働き8章で私たちが目にする光景です。こうして「散らされる教会」は、すなわち「出て行く教会」となりました。出て行くべき時を逃し、留まってしまった教会に対して、主は時に思いがけない方法で「散らされる」状況を与えられますが、それは福音が世界中へ伸びていくうえで、決して止められない聖霊の情熱とダイナミズムを示しています。 迫害を通じて散らされた人々は、行く先々で福音を証ししました。それはただの逃避行動ではありませんでした。使徒の働き8章4節の「散らされた人たちはみことばを伝えながら巡り歩いた」という言葉の通り、彼らは迫害を逃れながらも、福音を中断することなく伝え続けたのです。散らされたからといって彼らの信仰が冷めたわけではなく、むしろ「散らされた場所」で新たなリバイバルが起こりました。家を礼拝の場とする「家庭教会」という形態は、長い歴史を経て地下教会や迫害地域の教会形態としても継承されています。教会は決して建物に限定されるものではなく、たとえ建物がなくても、聖霊のうちに礼拝する信徒の集いこそが「教会」であることを歴史は証明しているのです。張ダビデ牧師は、こうした初代教会の歴史の本質、すなわち迫害の中でも止まらない福音伝播と聖霊共同体の重要性を頻繁に取り上げ、それを現代の教会がもう一度学ぶべきだと強調しています。 2. ユダとサマリア、そして分裂の教訓 エルサレムと同様に、旧約の歴史において私たちが注目すべきテーマの一つは、イスラエルの分裂です。ダビデ王国は12部族が一つに結束した統一王国として輝かしい最盛期を迎え、ソロモンの時代には神殿を築きあげ、壮大な神の住まいとしました。しかしソロモンの晩年に霊的堕落と偶像崇拝が深刻化し、最終的にはレハブアムの時に国が分裂します。10部族が北イスラエルを立て、2部族が南ユダに続きました。この「分裂王国」は自らのアイデンティティを失い、互いに離反しながら、結局どちらも滅亡の道へと進んでいきます。北イスラエルは紀元前8世紀に、南ユダは紀元前6世紀にバビロンによって滅ぼされました。ソロモンが数多くの側女(そばめ)を迎え、異教の偶像を取り込んだこと、そしてそれによって民全体が偶像崇拝に染まってしまったことが、神に見捨てられる大きな契機となったのです。 結局、このような偶像崇拝と不従順によって北イスラエルも南ユダも悲惨な結末を迎え、多くの民がバビロンへ捕囚として連行されました。バビロンは支配政策の一環として、征服地域の住民を他の地へ強制移住させ、彼らの民族的・宗教的結束を弱めるようにしました。そしてその土地には他の異邦民族を移住させ、混合政策で民族の同一性を希薄化したのです。こうして形成された混血の民がサマリア人であり、南ユダの民は彼らを「純粋な血統ではない」という理由で蔑視し、そこから「ユダとサマリア」という区別が生まれました。イエス様の時代においても、正統ユダヤ人はサマリア人を汚れた存在とみなし、関わりを避けようとしました。そのため、ユダからガリラヤへ移動する際にサマリアを通らず、遠回りして移動したほどです。 しかし福音書を見ると、イエス様はあたかも意図的にサマリア地方を通られます。ヨハネの福音書4章では、イエス様がスカルの町の井戸端でサマリアの女に声をかけ、その魂を変えられました。この対話はイエス様の救いが特定の民族や血統に限定されないことを示す重要な出来事でした。またイエス様はルカ10章で、良きサマリア人のたとえを通して、真の隣人愛は血筋や宗教的アイデンティティではなく、心と行いによって証明されると教えられました。当時のユダヤ人が最も忌み嫌っていたサマリア人を、隣人を助ける立場の例に引き合いに出されたのです。これはイエス様の救いがあらゆる壁を乗り越えることを劇的に示しています。 使徒の働き1章8節に「エルサレム、ユダヤとサマリア、そして地の果てへ」と地名が順序立てて言及されているのは、ユダヤ人とサマリア人の長年の対立があったとしても、福音の拡大はサマリアを必ず経るようにとする主の命令です。ですからエルサレムから始まった福音は、自ずとユダとサマリア、さらに異邦世界へ広がるはずでしたが、初代教会の信徒たちは現実にはサマリアに向かってなかなか踏み出しませんでした。そのような状況下でステパノの殉教とともに迫害が起こり、それが触媒となったのです。「その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たち以外の者はみなユダヤとサマリアの地方に散らされた」(使徒8:1)という箇所は、「歴史の逆説」を示しています。偏見や対立のために容易には行けなかったサマリア地方に、最終的に信徒たちは「迫害」を契機に入っていくことになったのです。そこで執事ピリポの伝道によって多くの人が福音を聞き、大いなる喜びを得ました(使徒8:8)。 張ダビデ牧師は、この場面が分裂した民族とその痛みをいやす福音の力をよく表していると解釈します。旧約に根差した分裂と敵意は遠い過去の出来事ではなく、初代教会時代にも依然として影響を及ぼしていました。そして現代においても、私たちの内には多くの偏見や分裂が存在します。教派間の分裂、神学的な対立、民族的・政治的な衝突など、多様な形で分裂が繰り返され、互いに罪に定め合うこともあるのです。しかし神は、いかにも不可能に見えるそうした壁を福音によって打ち壊されます。サマリア人を抱いていた憎悪や軽蔑さえも、神の愛の前には打ち砕かれなくてはなりません。張ダビデ牧師は実際の宣教現場においても、分裂した共同体が回復する道はただ聖霊の働きを通じた和解と愛しかないと強調しています。イエス様の教えの通り、どのような混合や蔑視の歴史があったとしても、福音の前ではすべてが崩れ去り、真の一致が可能になるのです。ステパノの殉教がもたらした迫害がサマリア福音化の扉を開いたように、私たちの痛ましい歴史も福音の力のうちに新たに変えられる可能性があると、牧師は説き続けています。 ユダとサマリアの歴史は、イスラエル全体の歴史を象徴します。イスラエルの民は偶像崇拝と不従順の罪を犯して滅びましたが、神の契約と愛は最後まで彼らを見捨てることはありませんでした。まるで干からびた骨のようになっていた彼らも、エゼキエル書37章のように神の霊が望むと大いなる軍勢として立ち上がり、分裂した二つの杖が一つに結ばれるという預言も記されています。これは単に歴史的な結末にとどまらず、現代を生きる私たちへの霊的教訓でもあります。張ダビデ牧師は、私たちが分裂の痛みや傷を心から悔い改め、聖霊の助けを求めるならば、再び一つに結束して世に向かって福音を伝える共同体となり得ると繰り返し主張します。サマリアとユダが和解し、さらに地の果てまで福音を届ける教会こそが神の計画であることを自覚すべきだというのです。 やがてサマリアを超えて、福音は異邦世界にまで拡大していきます。使徒の働き8章で執事ピリポがサマリアで起こした大リバイバルは、新約時代の宣教拡大の前兆と言えます。続いてペテロとヨハネがそこに来てその出来事を確認し、使徒の働き10章ではペテロがローマの百人隊長コルネリオの家で異邦人に福音を伝える場面が登場します。こうして教会はますます広大な領域へと踏み出していく過程で、決定的な役割を担うのが、サウロからパウロへと変えられた「パウロ使徒」です。ところがパウロが福音の大使徒として用いられるに至る背景には、ステパノの殉教があったことを忘れてはなりません。ステパノが殉教する場にサウロは立ち会っており、石打ちで命を落とすステパノの表情を見ながら、その魂が激しく揺さぶられたと多くの注解者が推測しています。実際、使徒の働き7〜8章の間で起こった出来事はサウロ(パウロ)の回心に大きな影響を与え、最終的にパウロは異邦人の使徒として福音宣教の最前線を担うようになったのです。 張ダビデ牧師は、この「分裂の歴史とその癒し、そして福音の拡大」というテーマを強調しつつ、教会の分裂の痛みや国家間の対立、さらには家庭の中の争いに至るまで、あらゆる分裂の背後には偶像崇拝や不従順といった霊的要因が潜んでいると指摘します。一見すると政治や経済の問題が原因のように見えても、究極的には「神から離れた心」が分裂や対立を生むのです。だからこそ本質的な解決策は悔い改めと福音への立ち返りであり、人々の心が聖霊によって変えられるときにこそ、可能な一致がもたらされます。ユダとサマリアの長年にわたる敵対が、結局福音によって解決されたように、現代においても同じ福音と聖霊の力が分裂の壁を壊すのを私たちは体験し得るのです。 3. 現代教会と聖霊の使命 使徒の働き8章は「大迫害」が起こり教会が散らされたものの、その散らされた先で新たな、そして爆発的なリバイバルが起こったことを示しています。これは単なる古代教会の歴史的事例にとどまらず、現代教会や私たち個人の信仰の道を照らす重要な出来事です。張ダビデ牧師は、ここから「教会の存在目的は究極的に地の果てまで福音を伝えること」にあると力説します。教会が集まることは大切であり必須ですが、「出て行くこと」もまた同じくらい重要です。集まっては散り、散ってはまた集まるという有機的循環の中でこそ福音伝播が完成します。イエス様が弟子たちに「集まれ」と命じられたのは、聖霊を受け、訓練されて派遣されるためであり、弟子たちは最終的にエルサレムを離れ、全世界へ散らされて福音を証ししたのです。 現代の教会も、この原則を学ぶ必要があります。礼拝堂の中だけで信仰生活を送ることが信仰のすべてではありません。かつての霊的成長や聖霊体験を「維持」しようとするあまり、その場にとどまり続けるならば、福音は教会の内側に閉じ込められてしまいかねません。むしろ迫害が来た時に初代教会がどのように散らされ、その散らされることがいかにサマリア伝道や異邦人宣教の扉を開いたかを深く黙想するとき、今日の教会が世の中へ派遣される必要性をはっきりと悟るのです。張ダビデ牧師は「教会は集まるだけではなく、必ず散らされなければならない」と教えています。大勢の信徒が一か所に集まって安住するのではなく、それぞれ職場や学校、地域社会や海外宣教の現場へ派遣されるべきだ、というわけです。 あわせて、使徒の働き8章に登場する執事ピリポの姿もまた重要な模範となります。ピリポは使徒ではありませんでした。彼は7人の執事のひとりに過ぎず、おそらく主に救済や奉仕を担当していたと推測されます。しかしまさにそのピリポがサマリアに下って福音を伝え、大いなるリバイバルを起こしました。これは福音伝道の主役が必ずしも使徒や専門の宣教師だけに限定されないことを強調しています。聖霊を受けたすべての信徒が、どこであっても福音を伝え、しるしや奇跡が現れる働きを起こし得るのです。教会での職分が何であっても、聖霊に満たされた平信徒もまた力強い宣教者になり得ます。現代の教会は、主日礼拝中心のイベント的なあり方や、一部の職分者だけの奉仕にとどまるのでなく、すべての信徒が自ら「王である祭司」であることに目覚め、どこへ行ってもイエス・キリストの香りを放つべきなのです。張ダビデ牧師も、この「万人祭司」の概念を核心に据え、聖霊の力を受けた平信徒たちの献身こそが教会を世界へ拡張させる原動力だと繰り返し強調しています。 さらに8章後半でピリポはエチオピアの宦官に出会って福音を伝えます(使徒8:26-40)。この場面は福音がイスラエル地方やサマリアを超えてアフリカにまで伝播するきっかけとなった出来事です。これは神の救いの計画が全世界に向けられていることを示しています。ユダヤ人、サマリア人、そして異邦人へと順次広がっていく宣教のプロセスは、神の御心が「すべての民族と諸国」に向いていることを示唆します。こうした観点から、現代教会がなすべき使命は明白です。国内外を問わず、特定の文化圏や少数民族、迫害されている共同体に福音を届けることです。張ダビデ牧師は「教会が真の“アンティオキア教会”となるためには、集まることと散らされることのバランスを保ち、その散らされることが究極的に神の国の拡大に用いられるべきだ」と語ります。 実際の歴史を見ると、西欧の教会もかつては聖霊による強力なリバイバルを経験し、世界各地に宣教師を派遣しましたが、ある時点で内面的な世俗化と霊的沈滞が深まり、その炎が消えてしまったケースもあります。現代の教会も例外ではありません。安楽や安定を求め、自分たちを守ろうとする雰囲気が強くなると、初代教会のように外へ出て行く情熱が衰えやすくなるのです。しかし聖霊の働きと復活の信仰を持つ者たちは、迫害に直面してもただ逃げるだけでなく、むしろそれを福音拡大の機会としてきました。歴史上のディアスポラ共同体や地下教会などがその例です。中国、北朝鮮、中東など、迫害を受けつつもかえってリバイバルを体験する事例は、「教会に打ち勝つよみの力はない」(マタイ16:18)というイエス様の言葉を裏づけるものと言えるでしょう。 張ダビデ牧師は「教会がただ集まるだけで出て行かないならば、やがてアイデンティティを失ってしまう」と繰り返し力説します。聖霊の力を受けた教会は「遣わされた教会(Apostolic Church)」であるという意味を心に留めるべきだというのです。「アポストロス(APOSTOLOS)」という言葉には「派遣された者」という意味があり、イエス様ご自身も「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを世に遣わす」(ヨハネ17:18)と語られました。したがって教会は、人々を送り出す共同体であるべきで、信徒は各々が召された使命に従って世のただ中でキリストを現さねばなりません。 そして、この「派遣」は決して牧師や教団の「命令」だけで行われるのではなく、聖霊が個々人の心を感動させ、自発的に福音のために出て行くようにする働きなのです。その過程は時に迫害や患難を通して起こることもあります。ステパノの殉教がパウロの回心に影響を与え、サマリア伝道に火をつけたように、エルサレム教会の大きな悲しみが「サマリアの大きな喜び」をもたらした場面(使徒8:8)は、教会史の流れが私たちの期待や利害ではなく、神の驚くべき救いのご計画と聖霊の導きによって動かされることを余すところなく示しています。 張ダビデ牧師はこの点で、聖霊の最も根本的な働きは「イエス・キリストの愛を思い起こさせること」だと説きます。イエス様が十字架につけられたとき、弟子たちは逃げ出し、群衆は嘲笑しました。しかし主の復活後、聖霊降臨を体験した弟子たちは完全に変えられます。自分の命をかけて福音を証し、敵をも愛せと命じたイエス様の教えを自ら実践しました。こうして教会に対する迫害が絶えなかったにもかかわらず、福音は絶え間なく拡大し、世界各地に教会を生み出しました。最終的には迫害がむしろ福音伝播の推進力となり、殉教者の血は教会の種であるという古い言葉が再確認されたのです。 使徒の働き8章1節から8節までが示す教訓は、私たちの人生における試練や痛みさえも、神の国の拡大のための足がかりに変えられ得るという点です。エルサレム教会が拡大する中で、信徒たちが散らされることなく留まっていたとき、神はステパノの殉教事件と大迫害を許されました。その結果、ユダとサマリア、さらには地の果てへと福音が伝播したのです。このような神の摂理と愛、そして聖霊の働きを理解することこそ、現代教会が回復すべき本質的なメッセージです。 今日の教会において大なり小なりの葛藤や分裂が起こるたびに、私たちは「エルサレム、ユダ、サマリア、そして地の果てまで福音を届けよ」という主の御心を改めて思い出すべきでしょう。偏見や敵意にとらわれ、お互いを排斥するのではなく、ステパノが示した赦しと愛、ピリポが示した積極的な福音宣教を実践する教会となるべきです。張ダビデ牧師は「神の御心は、教会が命に満ちたリバイバルを起こして世を変革することであり、その過程でどんな分裂や迫害も、最終的には福音の前進の道具となり得る」と強調します。これはすなわち、神の国はどのような障害も乗り越えられるという希望のメッセージにほかなりません。 教会が本来の教会らしさを取り戻すためには、信徒一人ひとりが聖霊の声に敏感になり、その召しに従ってどこへでも飛び出す用意がなければなりません。ステパノの説教と殉教があり、ピリポのサマリア伝道があり、パウロの異邦人宣教が一続きの流れを成したように、現代教会も小さな従順の種がやがて巨大な宣教の実を結ぶと信じ、実際に行動を起こすべきです。教会がプログラムや建物の拡張ばかりに力を注ぐのではなく、迫害され疎外されている人々に近づき、地球の至る所で苦難にあえぐ信徒と共に福音の使命を担うことが大切です。まさにその場で「大いなる喜び」が芽生え、散らされた者たちが集められ、また集められた者たちが再び散らされながら、福音はなおも前進していきます。 張ダビデ牧師はこのような「使徒の働き的な信仰の流れ」、すなわち「散らされることによる福音化」、「分裂を超えた一致」、「万人が王である祭司として立つ聖霊共同体」を説き、「私たちは誰でも使徒や宣教師、福音の証人として遣わされ得る」と教えます。エルサレム教会が経験した熱いリバイバルとステパノの殉教がもたらした散らされる出来事、その結果として結ばれたサマリアの回復、そして最終的には地の果てにまで至る宣教の旅路こそ、張ダビデ牧師が繰り返し強調する核心的神学・ビジョンの骨子です。現代教会がこの歴史から学ぶならば、もはや内部問題に沈溺することなく、神が与えられる「地の果てを想う心」をもって進むようになるでしょう。 実際、使徒の働きの歴史は決して過去に留まりません。あらゆる時代で形を変えて繰り返され、しかも絶えず拡大していきます。ステパノは死にましたが、そのステパノを通じて迫害が始まり、その迫害によって教会は散らされ、散らされた者たちがついに世界を福音で覆いました。ユダとサマリアの壁が取り壊され、全世界が神の国に招かれたのです。「その町には大いなる喜びがあった」(使徒8:8)という言葉の通り、迫害と悲しみが大いなるリバイバルと喜びへと変わることは、今もなお起こっています。これこそ聖霊の偉大さであり、どんな挫折や絶望も神のご計画を阻むことはできないのだと示す出来事です。 このような文脈で張ダビデ牧師が提案する現代教会の方向性は明確です。真のリバイバルは、迫害や試練の中でも耐え抜き、むしろその試練を通してさらに広い宣教の領域を開いていくことにあります。教会が安泰を求めて留まろうとする時、神はしばしば私たちの安逸を揺るがす状況をお許しになり、その中で私たちは「散らされる時が来たのだ」と気づかされるのです。風が吹くことでタンポポの綿毛がより遠くへ飛んで行くように、教会も吹き荒れる逆境の風がかえって福音を遠くまで運ぶきっかけになることを覚えておくべきでしょう。 さらに聖霊は、私たちを絶えず教え、変え、自己点検へと導きます。優越感や偏見、「私たちは選ばれたが、あの人々は捨てられた」というような傲慢な態度が福音伝播を妨げるのだと気づかせてくださるのです。イエス様の愛は、敵までも愛し、最後までその魂の救いを願う愛です。ステパノは自分を殺す者たちのために「この罪を彼らに負わせないでください」と祈り(使徒7:60)、この愛と祈りがサウロ(パウロ)の心を打っただろうと推測されます。まさに初代教会が見せた伝道と愛は、迫害の中で輝く「神の国の典型」でした。今日、張ダビデ牧師は、教会が再びこの愛を取り戻すとともに、福音のために自らを犠牲にする殉教的な姿勢が必要だと強調しています。 教会の使命は決して小さく切り縮められません。エルサレムが持つ歴史的・霊的意味を理解し、イエス様が直接命じられた「エルサレム、ユダとサマリア、そして地の果てまで」という使徒の働き的順序を思い起こすべきです。私たちを召された神は、一人の人間の悔い改めや新生にとどまらず、国や民族を変革する大いなる夢を抱いておられます。ダビデ王の栄光が現れたあの時代も、ソロモンの偶像崇拝が極みに達して国がバラバラに割れた時代も、結局は歴史が神の国へと収束していくという事実は変わらないのです。イエス様が十字架で救いを成し遂げられたときにも、神の国は爆発的に拡大し、初代教会の信徒たちが迫害を受けつつも世界中に教会を打ち立てたことがその証拠です。 同様に、今度は私たちの番です。迫害や試練、分裂の痛みに立ち止まるのではなく、聖霊が指し示される道へと散らされ、派遣されなければなりません。張ダビデ牧師は、教会がこの原理を見失うとき、霊的停滞に陥り、しばしば人間的な争いにとらわれやすくなると言います。しかしエルサレムから始まった福音が世界へ散らされていったあの壮大な流れは、今なお続いており、その普遍的なダイナミズムは変わりません。福音の広大さは、私たちが分裂し対立してきたサマリアにまで足を運び、さらには地の果てへと駆け抜けるとき、一層鮮やかに輝きます。今日、教会が真に「アンティオキア教会」として立ち上がるためには、この福音の原動力と聖霊の風をしっかりとつかみ、もう一度世界へと歩み出さなくてはならないのです。 こうして使徒の働き8章に記された初代教会の信徒たちの動きは、「教会は安楽を求めるために存在しているのではない」という事実を私たちに刻み込ませます。教会の本質は、聖霊の力によってイエス・キリストを証しし、福音を必要としている人々に伝えることにあります。そして、その使命を果たそうとする中で、迫害がやって来たり、思いもしない困難が訪れたりすることがあります。しかしそのすべての過程を通じて聖霊は教会をさらに完全な姿へと造り上げていかれるのです。最終的に私たちが願うのは、エルサレム、ユダ、サマリア、そして地の果てにまで福音が満ち渡り、「その町には大いなる喜びがあった」(使徒8:8)という御言葉が、この地の至るところで実現することなのです。 張ダビデ牧師は、その光景こそ「現代教会が夢見るビジョン」だと言います。私たちの家庭、職場、都市、国家、さらには地球上のあらゆる国々に、福音の喜びが伝えられ、神の国が拡大されていくとき、教会はようやく自らのアイデンティティを完成させます。分裂と迫害によって私たちが脅かされ、落胆させられる時でさえ、ステパノとピリポ、そしてパウロの姿を思い起こすべきです。彼らはそれぞれに与えられた場所で忠実に役割を果たし、聖霊の召しに素直に従いました。ステパノは殉教によって、ピリポはサマリアのリバイバルによって、パウロは異邦人伝道によって神の国の拡大に用いられました。同様に、私たちもまた時代や場所、職分は異なるとしても、みな主の大小さまざまな働きに参加するよう招かれています。 こうして見ていくと、使徒の働き8章に示されているメッセージはなんと豊かなことでしょうか。エルサレム教会のリバイバル、ステパノの殉教とそれに伴う迫害、信徒たちの散らされる出来事、そしてサマリアで起こった驚くべき大リバイバルまですべてが緊密につながっています。大いなる悲しみと大いなる喜びが交差するなかで、神のご計画が人間の弱さや罪を超えていかに成し遂げられるかが示されています。とりわけ、分裂した民族の象徴だったサマリアが「大いなる喜びの地」へと変貌する過程は、福音に秘められた癒しと回復の力を象徴的に示すに十分です。張ダビデ牧師はこの事実をすべての人々に絶えず説き、教会が「福音の力」を改めて握る日に、この地にある数多くの葛藤や傷もまた癒されるだろうという希望を提示します。 結論として、張ダビデ牧師が使徒の働き8章を通じて伝えようとする核心メッセージは、次のようにまとめられます。 現代の教会がこの真理をしっかりと握り、心を新たにして決断するとき、「大いなる迫害」さえも「大いなる喜び」へと変えられる神のわざは今も起こり続けるでしょう。エルサレム神殿から追い出され、家庭教会に移行せざるを得なかった初代教会の姿が、むしろ世界へ散らされて福音を伝える教会の本質を明らかにしてくれたように、今日の教会も同じ道を歩むべきなのです。そしてその中心には常に聖霊の働きと、敵にさえ愛を示されたイエス・キリストの愛があることを決して忘れてはなりません。これこそが張ダビデ牧師が伝える「使徒の働き的ビジョン」の核心であり、現代教会がもう一度しっかりと受け止めるべき召しなのです。 www.davidjang.org

恵みのみ – 張ダビデ牧師

Ⅰ. 教会の本質と救済論:ただ恵みによって張ダビデ牧師は、教会の本質を論じる際、救済論を中心に据えるべきだという主張を一貫して強調している。教会が存在する最も根本的な目的はイエス・キリストによる救いの知らせを伝えることにあるので、教会本質の根が「いかにして救いに至るのか」という問題と直結しているというのである。彼は使徒言行録15章に記録されたエルサレム会議の事例を引き合いに出し、初代教会の時代からすでに「信仰のみで救いを得るのか、それとも律法的行いや功績が加えられなければならないのか」という本質的な対立があったと指摘する。そしてこの葛藤は、現代の教会においても形を変えて繰り返されていると分析する。 実際、パウロとバルナバが異邦人への宣教を行い、福音の核心を「恵みによる救い(ソラ・グラティア)」だと明言したとき、エルサレムから下ってきたパリサイ派出身のユダヤ人たちは「割礼を受けなければ救われない」と主張した。これは結局、律法的義務や人間の功績が救いの条件に含まれるべきだという意味であり、張ダビデ牧師はこれを「功績信仰」あるいは「人本主義的救済論」と呼ぶ。彼が見るところ、あらゆる教理論争の成敗は「主イエスの恵みによって救われると信じるか、そうでないか」にかかっており、この視点こそ教会の生命線を成す核心だと考えている。 これに関連して、ガラテヤ書でパウロが力強く宣明した「行いではなく、恵みと信仰によってのみ救われる」という真理は、教会がしっかりつかむべき最も重要なメッセージだという。パウロの「御霊によって始まったのに肉によって仕上げるのか?」という問いかけもまた、人間が自分の義を掲げて行いや儀式を救いの前提条件にしようとする際に生じる誤りを、断固として指摘するものである。張ダビデ牧師は、ここで言う救済論が決して律法の廃止を意味しないことをあらためて強調する。律法は神が与えた尊い御言葉であり、聖徒が聖なる生活を歩む道を指し示す標識ではあるが、救いの必要十分条件として絶対視してはならないということだ。それは使徒言行録15章でペトロが「私たちの先祖たちも、私たち自身も負うことのできなかったくびき」と呼んだ律法主義的要求と軌を一にしている。 この問題は現代の教会でも繰り返し現れる、と彼は見ている。教団や総会が開かれるたび、あるいは宣教地で新しい教会を開拓するときなど、「信仰によってのみ義とされる」という宗教改革以来の原理が果たして十分に守られているのかを点検すべきだというのである。ときには教会の運営や拡張、教勢や財政的理由が優先されるあまり、本質的な救済論が希釈される事例が生まれることがあると、張ダビデ牧師は警告する。彼はこれを「ぶどう酒に水を混ぜて味を薄めてしまうこと」だと比喩し、教会が存在する限り、この問題は絶えず思い起こすべき核心教理だと主張する。 もし救済論が乱れると、教会は人本主義的な宗教へと変質する危険が高く、最終的には愛と力を失ってしまうと彼は指摘する。律法主義や形式主義に陥ると、聖徒たちは救いの確信を失い、さまざまな制度や儀式に縛られて自由を享受できなくなるからだ。張ダビデ牧師がローマ書1章17節の「義人は信仰によって生きる」という御言葉を繰り返し強調するのも、同じ文脈からである。初代教会の論争や中世カトリック教会の免罪符問題、現代教会の制度的誤謬や葛藤も、結局その本質は一つに帰結する。つまり「ただイエス・キリストの恵みが救いへの唯一の通路なのかどうか」であり、そこに人間の功績や律法的行いを付け加えようとするたびに、教会は方向を見失ってきたのだと彼は語る。 このため、張ダビデ牧師は教会のあらゆる働きの中で、絶えず救済論を点検すべきだと力説する。礼拝と説教、牧会者の育成や神学校のカリキュラム、教団総会での信仰告白書や憲法を確定する作業、宣教地の教会開拓や信徒教育に至るまで、すべての領域において「恵み中心の信仰」が揺らいではならないというのである。使徒言行録15章のエルサレム会議が初代教会全体に与えた教理的・霊的影響力を、現代の教会が引き継ぐべきだと見るのもこの理由による。パウロとバルナバが異邦人宣教を拡張する中で経験した葛藤は、実は今日の世界各地の宣教現場や教会制度の中でも繰り返されており、その繰り返しの是非は結局、「ただ恵み、ただ信仰」という福音の核心がどれだけ強調され、守られているかにかかっているというのである。彼は、これが決してほかの要素で代替されることのない絶対的なものだと何度も言及し、結論づけている。 Ⅱ. 恵み中心の宣教と世界教会の拡張張ダビデ牧師は、教会が世界宣教のために存在するという点をいつも強調している。使徒言行録15章のエルサレム会議を「歴史上初の教団総会」と捉え、初代教会が異邦人への宣教拡張を巡って直面した問題が、現代の宣教現場にもそのまま適用されるという事実に注目する。教会が「ただ恵みによって救われる」という本質を守るとき、その福音の力が文化や人種の壁を乗り越えて効果的に伝わる、というのが彼の核心的論理である。 彼はヨーロッパ教会の宣教史を例に挙げながら、一方では文化的優越感によって現地の伝統を抑圧し、また一方では過度に妥協してキリスト教のアイデンティティを希釈してしまった事例が、いずれも問題を引き起こしたと指摘する。これは使徒言行録15章において「割礼をはじめとしたユダヤ文化や律法が異邦人教会の救いの条件になるべきか」という問いと直結する。あのときエルサレム会議でペトロが「わたしたちは彼らも同様に主イエスの恵みによって救われると信じている」と公言したことは、長年の選民意識や律法的救いを手放し、異邦人も同じ恵みのうちにあることを公認した意味を持つ。 張ダビデ牧師は、この場面が現代におけるあらゆる宣教の根本原理として拡張されるべきだという。教会が特定の文化圏を無批判に受け入れたり、逆に極端に排斥したりしてはならず、いかなる場合も福音の本質が損なわれてはならない。最終的に問題となるのは、「イエス・キリストの十字架と復活」という福音の核心が希釈されるか、きちんと維持されるかにかかっている。彼は日本宣教やさまざまな海外宣教の事例を挙げつつ、現地文化を尊重しながらも救済論の本質を守ることこそ、長期的に福音が確実に根付く道であると説明する。 教会が宣教の方向性を定め、教団レベルで国際協力の戦略を立てるときにも、こうした神学的アイデンティティと救済論的な根が揺らいではならないというのが、張ダビデ牧師の確固たる見解である。過度な同化主義や規範だけを押しつける画一主義をともに警戒する必要があり、そうでないと文化的衝突を招いたり、福音そのものが変質してしまいやすいからだ。彼にとって使徒言行録15章は、遠心力と求心力の調和を示している場面である。福音が広く伝わる宣教的な遠心力と、「ただ恵み」という求心力がバランスを保つとき、教会は分裂せずに本質を守れるというのである。 さらに彼は、宣教現場に入り込む異端的な教えを徹底的に警戒すべきだと強調する。歴史的に見ても、免罪符や聖地巡礼、特定の規則履行による救いの条件付与などは、「ただイエス・キリストの恵み」という福音の核心を曇らせる代表的な事例だ。ガラテヤ書でパウロが「ほかの福音はない」と警告したように、何が救いへの唯一の道であるかを明確にしなければ、教会は結局、葛藤と混乱に陥る。したがって張ダビデ牧師は、宣教的な拡張を図る過程においても、教会自らの制度や職制、信仰告白を常に点検し、その中心軸に「恵み中心の救済論」が据えられているかを確認する必要があると言う。救済論のバランスが崩れると、教会は数字や外形的な成長にかかわらず、本質を見失い分裂を経験するからだ。 そうした意味で、宣教の成功を単に教勢拡大や財政増加で判断することはできず、福音の真理がどれだけ明確に宣べ伝えられ、実践されるかが基準になると主張する。使徒言行録15章で決定された「ただ恵みによって救われる」という宣言が、異邦人教会の存立基盤となったように、現代の教会が同じ確信を堅持する時にこそ、真の世界宣教が可能になると彼は信じている。そこに教会の神学的アイデンティティと文化的柔軟性が適切に調和するとき、パウロとバルナバがアンティオキアを拠点にして福音を広げていったようなダイナミズムが、今も再現され得るというのである。 Ⅲ. 神学的葛藤と教会秩序への提言張ダビデ牧師は、教会史を研究し現場を経験する中で、教会内外で発生する神学的葛藤がどのように解決されるべきかを深く考えてきた。彼は使徒言行録15章のエルサレム会議を通して、「歴史上初の教団総会」が既にどんな模範を示したかに注目する。初代教会の指導者たちは、単なる多数決によって結論を下したのではなく、旧約聖書をはじめとした神の歴史的摂理を振り返りつつ、聖霊の実際的な働きを共に確認した上で結論に到達した。ペトロの告白や、バルナバ・パウロの異邦人宣教報告、ヤコブによる旧約引用が結び合わされ、「神が異邦人たちにも同じ恵みを与えられた」という事実を宣言し、「わたしたちにも彼らにも差別はない」という確固たる結論に達したのである。 彼はこの過程を教会の「合意的決断」と呼び、教団総会が開かれるたびにまず見極めるべきは「その争点が福音と救いにかかわる本質的な問題なのか、あるいは教会運営上の行政的・政治的葛藤なのか」という点だと述べる。行政的問題であれば充分な対話や手続きの改善によって解決できるが、救済論と直結する核心的争点であれば、中立的に妥協したり、適当に折衷案を取って合意を図るような扱いではいけないというのが彼の立場である。「福音の本質」はいかなる形でも曖昧になったり妥協されたりしてはならず、この問題に関しては結局、「ただ聖書(Sola Scriptura)」と「聖霊の導き」のもとで確実に結び目をつけなければならないと主張する。 彼は、教会内で繰り返し登場する仮現説やグノーシス主義、リベラル神学などは、人間の理性や経験、知識を通じて福音の絶対的本質を再解釈しようとする試みに起因すると診断する。しかし、こうした試みは「ただ恵み」という原則を損ないやすく、最終的に教会を律法主義や功績主義、さらには人本主義へと導いてしまう。かつての初代教会や宗教改革時代にも、こうした誤りが絶えず現れ、現代にも形を変えて繰り返されているという。 結局、教会が神学的葛藤を健全に解決するには、「聖書へ立ち返る原則」と「聖霊の証しを尊重する態度」、そして「共同体内の一人ひとりの意見を開かれた形で傾聴する合意のプロセス」が不可欠だと彼は説く。使徒言行録15章においても、ペトロやパウロのような著名な使徒一人の独断的決定ではなく、初代教会の指導者たちが一堂に会し、各々の証言を共有しながら旧約聖書の解釈を共に分かち合った末に結論に至った事例であることが重要だ。こうした合意的決断がなされたとき、教会は救いの本質を損なうことなく葛藤を解決し、福音の自由と恵みを守り続けられるという。 彼が現代教会の分裂や異端問題を見て下す結論も同様である。「主イエス・キリストの十字架によってのみ罪の赦しを得て、その恵みを信じる信仰によってのみ救われる」という事実が曖昧になるたび、問題が生じてきたというのだ。職分や儀式、献金制度、洗礼のやり方、聖餐式などは教会生活の中で非常に重要ではあるが、それらを救いの条件として格上げした瞬間、初代教会が享受していた福音の自由と力は失われてしまう。教会の多様な制度や伝統は、恵みをより豊かに享受し分かち合うための通路であって、救いの前提条件であってはならないということを常に喚起する。 張ダビデ牧師は、このような文脈から教団総会を「恵みの福音を再確認する礼拝と献身の場」として活用すべきだと力説する。彼は総会が教権争いの場や政治的な舞台へと転落してしまうとき、教会は停滞を招いてきた歴史を指摘し、真のエキュメニカル精神は神の御言葉と聖霊の導きの前で互いに謙虚に耳を傾け合う態度から生まれると語る。そうしてこそ、初代教会が持っていた生命力ある決断が再現され、愛と仕え合いの精神が教会に息づくようになるという。 彼が現場の牧会と教団のリーダーシップを通して強調するのも、結局「仕えるリーダーシップ」である。イエス自ら「仕えられるためではなく仕えるために来た」と仰ったように、教会の職分者は権威を誇示するのではなく、他者を立て助け、多くの魂が福音を聞き恵みにあずかれるように献身すべきだというのだ。もし教会が覇権主義や階級主義へと傾けば、人間の制度や功績が際立ちはじめ、福音の恵みは後ろへ追いやられてしまう。総会や教団レベルのあらゆる決定で優先されるべき問いは「誰がより偉いのか?」ではなく、「どうすればより多くの魂をイエス・キリストの恵みのうちに招くことができるのか?」であるべきだという。 結局、張ダビデ牧師は、初代教会と現代教会の葛藤の様相は本質的には変わらないと診断する。使徒言行録15章に表れた異邦人教会とユダヤ人教会の衝突は、現在でも似たような葛藤として繰り返されており、その解決策もまたパウロやペトロ、ヤコブらが示したように「ただ恵み、ただ信仰」を基準にするとき、はっきりしてくるというのである。エルサレム会議がすべての教会と教団、さらに宣教地で絶えず参照されるべき原型(アルケタイプ)として残っているのはそのためだ。さらに宗教改革の伝統である「ただ聖書、ただ恵み、ただ信仰」というスローガンとも精巧にかみ合っている点を強調する。 最後に彼は、教理や救済論が単に知的理解にとどまらず、実際の生活の中で愛と仕え合いとして現れなければならないと説く。「恵み」という概念は抽象的な教理や神学的宣言ではなく、罪人だった人間がイエス・キリストによって罪の赦しを得て新しい命を得たという確信であるがゆえに、この恵みを真に悟れば、他者に仕え、共に立て上げようとする動機が自然に生まれるからだ。もしそれがないなら、パウロがコリントの信徒への手紙一13章で指摘したように、「どれだけ多くの知識があっても、愛がなければ何の役にも立たない」という結論に至らざるを得ないと彼は主張する。 かくして張ダビデ牧師は、教会の本質と救済論に対する理解、恵み中心の宣教と世界教会の拡張、そして神学的葛藤と教会秩序の問題を有機的に結びつけて論じる。教会がなぜ存在し、福音とは何であり、どのように拡張され守られるべきかを総合的に考えるときにこそ、初代教会が示したダイナミズムが再現され得ると見るのである。そして使徒言行録15章のエルサレム会議は、この旅路において現代でも最も具体的かつ実際的な指針として機能すると言う。張ダビデ牧師は、各時代において形こそ変われど本質的には同じ葛藤と挑戦に直面してきた教会が、結局「ただ恵み、ただ信仰」という福音の中心軸を握りつつ世界へと前進し続けなければならないと結論づける。そしてそのために教会が教団総会でも宣教現場でも、常に救済論を再確認し、聖書の御言葉と聖霊の導きに依拠し、愛と仕え合いの共同体を目指すべきだと重ねて強調する。それこそが初代教会が持っていた熱情と力を、今日同じように経験する道だと彼は確信しているのである。

堕落と救い ― 張ダビデ牧師

張ダビデ牧師が創世記3章と4章を中心に説教した「人間の堕落、サタンの正体、そして聖徒の対応」についてまとめた内容である。創世記1章と2章の「創造」、そして3章と4章の「堕落」、さらにイザヤ書14章、エゼキエル書28章、ヨハネの黙示録12章など関連する箇所を総合的に扱い、最終的に主の祈りの中の「試みに遭わせず(=試みに陥ることなく)」という願いと結びつけながら、張ダビデ牧師が伝える教訓を深く掘り下げている。神が造られた被造物の中でなぜサタンが生じたのか、そのサタンが人間をどのように誘惑するのか、そして聖徒はどのような姿勢で対峙すべきかを取り上げた内容である。 1. 人間の堕落とサタンの戦略 張ダビデ牧師が創世記3章と4章を重点的に考察すべきだと強調する理由は、人間の堕落がどのように起こり、その根源がどこにあるのかを余すところなく把握するためである。創世記1章と2章には、神が全宇宙万物を創造された記録が収められている。神は闇の中に光を創られ、天と地を分け、海と陸、そしてさまざまな生き物を造られた。そしてそのすべての創造の頂点として人間を造られたが、男と女を神のかたちに造られたのである。これが創世記1章と2章の核心である。張ダビデ牧師は、「創世記1、2章を正しく理解することが、その後に登場する人間の堕落(創世記3章)や、その子孫であるカインの問題(創世記4章)を理解するための不可欠な前提だ」と語る。なぜなら、創造そのものが善であり完全であり、罪や死が存在しなかった世界を神が造られたという事実をまず知ってこそ、そこからいかに“変質”が起こったのか観察できるからである。 ところが創世記3章に入ると、全く予想外の存在が登場する。それは「神である主が造られた野の獣のうちで最も狡猾な蛇」である。この蛇は人間、すなわちアダムとエバに近づき、「本当に神は、園のすべての木の実を食べてはならない、と言われたのか?」と問いかけ、彼らの心に疑念を呼び起こす。張ダビデ牧師は、この問いこそが人間とサタンの接点において最も重要な場面だと指摘する。なぜなら、「神が仰せになった言葉」に従うのか、それとも人間が自ら別の基準を立てて不従順に進むのかが決まる分岐点だからである。 蛇はエバに「あなたたちは決して死なない」と語る。これは明らかに偽りである一方、とても魅惑的な宣言でもある。なぜなら神は「善悪を知る木から取って食べてはならない。その実を食べる時には必ず死ぬ」と仰せられたゆえ、それをそのまま信じて従う者には恐れや警戒心が芽生えるからだ。だが蛇はその恐れを崩し、「あなたたちは死なないだけでなく、むしろ神のようになれる」と扇動する。張ダビデ牧師は、この箇所からサタンの作動原理と特徴が明らかになると述べる。サタンは全く自分勝手な悪しき目的のために、神の言葉を偽りへと歪曲する。場合によっては非常にもっともらしく見える論理や、自分の都合に合わせた解釈を持ち出し、結果的に聖徒を「神中心」ではなく「自己中心」の位置へと引きずり下ろすのである。 張ダビデ牧師は創世記3章でのエバの反応に注目する。エバはこの善悪の木の実を「見ると食べるのによさそうで、目に慕わしく、賢くしてくれそうで好ましく思った」と言う。ここには、「見ること」(視覚的刺激)→「手で取ること」(直接的アプローチ)→「口にして食べること」(実際の行為)へと進む、一連の罪のメカニズムが示唆されている。罪は往々にして小さな好奇心から始まるが、最終的には全人格を汚し、やがて死に至らせるものである。 張ダビデ牧師はここに「試みに遭わせないでください」という主の祈りの願いが深く結びついていると説く。人間が受けうる最も大きな試みの一つは「神の座に上ろうとする高慢」であり、サタンが鋭く突いてくる部分だからである。人間は本来、神の被造物としてその言葉に従うことで祝福を享受するよう造られたが、自ら善悪を判断する座、すなわち自分自身を基準とする座に上ろうとするとき、結局は蛇の誘惑に陥る。これこそが張ダビデ牧師が力説する核心的な要旨である。 創世記3章のこうした流れの中で、アダムとエバは結局、禁じられた実を食べてしまう。その結果として最初に現れた兆候は何か。お互いに裸であることを恥じ、いちじくの葉をつづり合わせて腰の覆いを作ったことだ。また神が園を歩まれるとき、「恐れて隠れた」と記録されている。これは罪がもたらす結果を明確に示す象徴だ。罪は神の前で恥ずかしさ(霊的な羞恥心)を生み、そのため人間は自ら防御策を作り出し(いちじくの葉の衣)、最終的にその臨在から遠ざかってしまう(隠れてしまう)。 創世記3章の最後では、より決定的な裁きが宣言される。「あなたはちりであるから、ちりに帰るのだ」「人が善悪を知ることにおいて我々の一人のようになったので、命の木にも手を伸ばして永遠に生きることのないよう、その道が閉ざされた」といったくだりは、人間が「不従順」と「自己中心的な高慢」を選んだ結果招いた悲劇的結末を示す。サタンの最大の嘘は「決して死なない」だったが、実際には「必ず死ぬ」結果へとつながったのである。張ダビデ牧師はここで私たちが忘れてはならない真理を強調する。すなわち、人間の堕落はただエバが善悪の実を取って食べた瞬間にとどまらず、その後すべての人類へと原罪として受け継がれ、今日私たちもその影響下に生まれるという点である。 創世記4章に進むと、アダムの子孫カインの物語が登場する。カインは弟アベルを妬み、ついには殺人にまで至る。これは「自己中心的欲望」がどれほど急速に広がり、罪と死の実を結んでいくかを鮮明に示す事例だ。張ダビデ牧師はカインの堕落を「サタンが引き起こした堕落のさらなる拡大」と解説する。創世記3章で個人的次元から始まった堕落が、創世記4章では兄弟間の殺人によって本格的に世に広がっていく。すでに罪が入り込んだため、人間の心は「蛇の嘘」にますます振り回され、ついには兄弟殺しという極端な罪悪に進んでしまったのである。 聖書を一章ずつ読んでいくと、創世記4章でカインがどれほど自己中心的に振る舞うかが如実に表れている。神は彼がささげた捧げ物を受け入れず、「カインとその捧げ物を顧みられなかった」と記す。なぜ神がカインの捧げ物を喜ばれなかったのか、さまざまな解釈があるが、張ダビデ牧師はその中心の動機に着目すべきだと言う。カインに現れたのは、「自分が望むやり方で神を拝もう」という姿勢だった可能性が高い。心の中心が最初から神に捧げられたものではなく、自己中心的な満足のため、あるいは義務感で捧げた供え物であったならば、当然、神はその捧げ物を喜ばれないであろう。そこで生まれた嫉妬や怒りが、弟アベルを殺す大きな罪へと発展してしまうのだ。 創世記3章と4章のこの叙事が現代に生きる私たちに示唆するところは明白である。罪の始まりはかすかな疑いであるが、それが心に蒔かれ放置されると、高慢と虚偽の解釈、自己中心的判断へと走る。そして人間はその結果、霊的死、他者との葛藤、果てには殺人にさえ至ってしまう。張ダビデ牧師は、すべての聖徒がこの「起源的堕落の様相」をはっきりと認識すべきだと強調する。そうすることで、新約においてイエス・キリストが来られ、この問題を解決されたという事実を、創世記3章と4章の正確な理解を通してより深く悟るようになるからだ。 張ダビデ牧師は、人間が罪の根を正しく悟らなければ、イエス・キリストの贖罪の働きと十字架の恵みがいかに大いなる奇跡であり愛であるかを知ることができないと語る。結局のところ、私たちは創造主なる神が人間に与えられていた完全なご計画から遠ざかったが、その計画を回復するために御子を送られたという壮大なみわざこそが救いの本質なのである。すなわち、創世記3章で蛇が持ち込んだ「神のようになりたい」という野心を、イエス様はピリピ書2章が語るように「ご自分を無にして、しもべのかたちをとられ」ることで真正面から打ち砕かれたのだ。イエス様は神であられたにもかかわらず、徹底的にへりくだり、死に至るまで従順となられることで、サタンが煽った高慢に打ち勝たれた。ゆえに救いもまた、「高慢を捨て、自らを低くする」キリストに従う道においてこそ実を結ぶ。 こうした観点から、張ダビデ牧師は創世記3章と4章を学ぶ目的の一つとして、サタンの戦略と人間の内面の脆さを発見することを挙げる。そしてそれを的確に認識し、主の御前で悔い改めることで、もはや蛇の誘惑に屈しない実践が必要だという。そのためには日々み言葉を黙想し、共同体の中で真理の光に照らされ、自らが誤った道に陥らないよう点検する過程が欠かせない。その過程で常に「本当に神はこれを望まれているのか?」を基準としつつ、「主よ、私を試みに遭わせず、悪からお救いください」と祈りながら自分を省みる姿勢が決定的に重要となる。高慢こそサタンが蒔く最も強力な武器であり、あらゆる罪や堕落を引き起こすがゆえ、聖徒は常に目を覚まして祈り、自らを低く保たなければならないというのが、張ダビデ牧師の教えである。 2. サタンの正体と堕落した天使たち 張ダビデ牧師は、蛇の正体が最終的には「サタン」「悪魔」「竜」であると黙示録12章で明確に示されている、と解説する。蛇は単なる象徴的動物ではなく、神に反逆した堕落した天使長、または天使の群れの頭が具現化した存在である。この観点から、創世記3章の蛇を単なる動物的なヘビだと読むだけでは、聖書全体が語る救いの歴史を見失いかねない。サタン、ルシファー、悪魔、竜、全世界を惑わす者など、聖書のあちこちで多様な呼称が登場するが、その根源は同一である。この存在は神が造られた被造物の一つであったが、自らの地位を離れて高慢を抱き「いと高き方のようになろう」と試みた結果、堕落した天使の群れとなったのである。 張ダビデ牧師は、イザヤ書14章とエゼキエル書28章に言及されている「バビロンの王」や「ツロの王」への比喩が、事実上サタンの姿、特にそれらの王たちの背後にある「堕落した天使」の姿を指し示していると説く。イザヤ書14章の表現を詳しく見ると、「暁の子、明けの明星よ。どうして天から落ちたのか。諸国を倒した者よ。どうして地に切り倒されたのか」とある。この「明けの明星」(ラテン語訳聖書ではルシファーLucifer)は、もともと神のそばで光り輝いていた天使長であったことを暗示する。それにもかかわらず、「北の果ての山の上に座ろう。いと高き方のようになろう」と心に抱き、反逆を企てた。それこそがサタンの本質的な罪であり、彼が奈落へと落とされた最大の理由である。 エゼキエル書28章においてもツロの王への比喩の中で、もともと「油注がれた守護のケルブ」としてエデンの園にいた者が、その仲間とともに堕落し、縛られていくというくだりが出てくる。これは「原初の堕落」が人間より先に天使の世界で起こったことを示している。張ダビデ牧師は、「私たちは聖書を通して、人間だけが堕落した存在なのではなく、人間を誘惑し陥れようとする霊的勢力が実在することをはっきりと知る」と強調する。そして、それこそ教会が霊的な戦いを担わなければならない重要な理由だと説く。 黙示録12章では大きな竜が追い落とされるが、「その古い蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれる者、全世界を惑わす者」とはっきり名指しされる。このサタンが天から落ちるとき、天の星の3分の1を引き連れて地上に落ちたとも記録されている。これは堕落した天使の集団がそれほど多いことを示している。サタンはただ一人で堕落したのではなく、彼を追従する天の軍勢の3分の1ほどが共に反逆したのだ。彼らは空中の権を握り、今もなお絶えず人間に誘惑と欺きの手を伸ばし、ときには支配者や権威者を通じて歴史に働きかける。エペソ書6章に「私たちの戦いは血肉に対するものではなく、支配者たち、権威たち、この暗闇の世界の支配者たち、天上の悪の霊どもに対する」とあるが、まさにこの文脈を指しているのである。 張ダビデ牧師は、この霊的世界を知らなければ、世の多くの問題を単なる人間同士の対立や制度の矛盾だけにとどめてしまい、見落とすことになると警告する。実際の歴史の現場では、サタンは隙間を見つけて権力者や悪の勢力を用い、陰謀をめぐらす。パロが神の民イスラエルを苦しめたときや、バビロンの王やアッシリアの王が周辺国を征服し、残酷に民を虐殺したとき、その背後にはサタンの本性である「高慢と暴力」が潜んでいるという。こうした流れの中で、サタンは常に自分自身を高め、偶像礼拝を助長する。旧約時代に数々の偶像が存在したのも、結局は神の栄光を横取りしようとするサタンの企みの一つの形にほかならない。 バアル礼拝は民を性的に乱れさせ、モレク礼拝は子どもを人身供犠として捧げるという恐るべき行為まで誘導する。金の子牛の崇拝は富や財産を中心に据えるマモン主義を代表する象徴となる。張ダビデ牧師は、こうしたすべての偶像の背後に「サタンの高慢と暴力性が潜んでいる」と語る。サタンは神が受けるべき栄光と礼拝を、自分が横取りするために偶像を発展させ、人間はその誘惑に負けて金の子牛の前で踊り狂い、モレクの前で子どもを火で焼いて捧げるという、無知で残酷な行為を犯してきたのだ。 そしてこのサタンの惑わしは、旧約時代だけでなく新約時代、さらに現代に至るまで続いている。イエスが荒野で40日断食をなさったとき、サタンは自らやってきて三つの試みをしかけた。「もしあなたが神の子なら、この石をパンに変えてみよ」「神殿の頂から飛び降りてみよ。そうすれば天使たちが支えて、あなたは傷つかないだろう」「もし私を拝むなら、世のすべての栄華を与えよう」というふうに。張ダビデ牧師は、これこそサタンが人間を誘惑するときに使う基本パターン、すなわち「肉体的欲求(食べ物)」「名誉や人気(奇跡による羨望)」「物質と権力(世の王国)」を揺さぶり、最終的に信仰を崩そうとする作動原理であると指摘する。イエスは「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」と仰り、もっぱら御言葉によってサタンの誘惑を一蹴された。結局サタンは敗北して立ち去り、イエスのもとに天使たちが仕え始めた。この出来事は聖徒たちに大きな教訓を与える。み言葉を知り、その言葉に徹底的に従うとき、高慢や欲を煽るサタンの奸計を打ち破ることができるのだ。 張ダビデ牧師は、こうした霊的な戦いが今でも続いているのだと力説する。私たちが意識的にも無意識的にも「自分が神のように善悪を判断する」とか「自分がみ言葉より上位に立って独自の基準を設ける」といったとき、実のところサタンの論理に同調していることになる。教会の中でもいくらでもそういうことが起こりうる。パリサイ人や律法学者がイエスに敵対して、主の権威を認めず、「あの人は悪霊に取りつかれている」「安息日を破っている」と非難した姿こそ、宗教的な装いをしてはいるが実際にはサタン側についている典型例といえる。イエスは彼らに対し、「蛇ども、まむしの子らよ、おまえたちはどうして地獄の裁きを逃れることができようか」とまで仰せられた。一方、イエスは娼婦や取税人のように自ら罪を自覚し悔い改める者には救いをお与えになり、その憐れみと愛を体験させてくださった。 ユダの手紙1章6~7節にも、堕落した天使、すなわち自分の地位を守らず、自分の住むべき所を離れた者が、永遠の鎖で暗闇に閉じ込められたと宣言される。堕落した天使の中には即時に拘束された者たちがおり、まだ地上をうろつき人間を誘惑する悪霊もいる。ヨブ記1章と2章を見ると、サタンは「告発者」として登場する。彼は「ヨブが何の理由もなく神を敬うでしょうか。彼の財産と健康をすべて奪ってみてください。必ず神を呪いますよ」と神に訴える。神はヨブに試みを許され、ヨブは極度の苦難を味わう。これは、人間の生活の中でサタンの告発と苦難が避けられないときがあることを示す。しかし同時にヨブは最後まで神を呪わず、苦難の中でも神を信頼し続けることで、サタンの告発が虚偽であると証明する。張ダビデ牧師は、この出来事が神がなぜ一部の堕落天使をただちに完全に滅ぼされず、ある程度彼らの活動を許しておられるのかを説明する例だと主張する。サタンが「人間がどうして心から神を愛するだろうか。みな条件があるから信じているだけだ」というように告発する時、神はその苦難を許すことで、かえって真実な信仰の証を生み出される、ということである。 しかし、これらの過程は人間の側から見ると非常に苦しく、理解しがたいかもしれない。張ダビデ牧師は「なぜ神はすぐにサタンを滅ぼしてくださらないのか」と嘆きたくなることもあるが、ヨブ記の結末を見ると、ヨブは以前にも増して神を深く体験し、物質的祝福も回復し、何よりも霊的成熟へと導かれる。私たちもまた苦難と試みを通過する過程で、もし御言葉によって武装し、祈りつつ目を覚ましているならば、「サタンの告発」を振り払い、勝利を体験することができる。これこそが主の祈りの「我らを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ」という祈りの真の意味である。張ダビデ牧師は「私たちに試みが全くないわけではないが、その試みの中で勝利できるように求める祈りであるべきだ」と強調する。 結局サタンとは、「ルシファー、暁の子、明けの明星」と呼ばれた者が、自らの地位を離れた堕落した天使であり、今なお全地を巡って食い尽くすべき獲物を探している敵対者である。しかし同時に、イエスの十字架と復活によって、その正体はすでに暴かれ、最終的な裁きが備えられている存在でもある。張ダビデ牧師は「その事実を私たちは忘れてはならない」と語る。サタンは必ず敗北する。主が弟子たちに「わたしはサタンが天から電光のように落ちるのを見た」(ルカによる福音書10章)と言われたとき、すでに彼は決定的に敗北したのだ。聖徒はこの勝利を信じ、「イエスの名によって」サタンを追い払う権威を持っている。ただし、この権威はイエスに倣い謙遜に従う人にのみ与えられる。サタンが堕落したやり方が「高慢」だったとすれば、聖徒は「へりくだり、イエスの道に従う」ことによってサタンに打ち勝つのである。 3. 聖徒の対応と霊的勝利 張ダビデ牧師が強調する結論は、最終的に聖徒は主の教えと聖霊の力に依り頼みつつサタンの支配に対抗し、打ち勝たねばならないという点である。これまで見てきた創世記3章と4章が示す人類堕落の始まり、そしてイザヤ書14章やエゼキエル書28章に見るサタンの高慢と裁き、ヨブ記における試み、黙示録12章の霊的戦いなどは、すべて「神の救いの歴史」と切り離せない。神は人類を救うため、またサタンの嘘から解放するために御子を送られたという事実が、新約に至って完全に明かされる。イエス・キリストはアダムの失敗を覆す「第二のアダム」として来られ、サタンの誘惑をすべて退け、十字架で完全ないけにえとして死なれることで罪に対する刑罰を代償された。張ダビデ牧師は「この勝利の福音こそが、『試みに遭わせず』と祈るべき理由であり、同時に私たちに与えられた驚くべき特権」だと解釈する。 主の祈りで「我らを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ」と祈るとき、それは「神さま、私を蛇の誘惑から、サタンの欺きからお守りください。そして私の心の中でうごめく高慢と自己中心的欲望を聖霊によって制御してください」という告白と同じである。張ダビデ牧師は「聖徒は毎日この祈りを実際的に捧げるべきだ」と力説する。なぜなら、いくら長く教会に通っている人でも、自分を高めようとする「サタンのDNA」が心のどこかに潜んでいるからだ。その欲望が目覚めたとき、信仰者が立つべき場所は「主よ、私は主人の座から降ります。ただ主だけが私の人生の主権者です」という謙遜の座なのである。 しかしこの道は決して容易ではない。イエスもゲッセマネの園で「父よ、できることならこの杯をわたしから取り除いてください。しかしわたしの願いではなく、御心のままになさってください」と祈られたほど、従順とはときに非常に苦しい。張ダビデ牧師は、この祈りが信仰生活の本質を表していると解説する。真の従順とは「自分の思い」を折り、「神の御心」を選ぶところから始まるが、それが簡単であれば誰でもできる。しかし現実には「悪魔はしばしば、最も強烈な形で私たちの弱みを刺激し」「一挙にすべての問題を解決してあげよう」とか「これくらい大丈夫だよ」といった甘い嘘をささやく。そのとき聖徒はイエス様のように「わたしが望むのではなく、主がお望みになるように」という態度を取らなければならないが、これは口で言うほど簡単ではない。だからこそ、私たちは日々祈り、み言葉を黙想し、教会共同体の中で健全な霊的助言を受けつつ、信仰の善き戦いを戦い続けねばならない。 張ダビデ牧師はこう語る。「私たちは生まれつき、神の前では謙遜にひれ伏すべき被造物だ。しかしサタンは絶えず『自分で善悪を判断し、自分で王になれ』と誘う。高慢の道はいつも甘美に見えるが、その行き着く先は滅びと霊的死である。一方、謙遜の道は初めは狭く険しいように見えるが、最終的には永遠の命と復活の栄光が待っている。イエス様がその道を歩まれ、復活された。私たちはイエス様に従うべきである。」 この主張はピリピ書2章6~11節が語る「キリスト・イエスの心」と完全に重なる。イエス様は本来神の本質でありながら、ご自身を低くしてしもべの姿を取り、死に至るまで従順であられ、そのゆえにすべての名にまさる名を授けられた。こうした従順と謙遜こそイエスに似ることの本質であり、サタンが決して真似できない「神の国」の核心的価値なのである。 しかし、聖徒がこの事実を頭で知るだけでは、実際の生活の中でサタンの誘惑にまた負けてしまう恐れがある。張ダビデ牧師はこれを防ぐために「聖霊に満たされること」と「み言葉に満たされること」の重要性を強調する。イエスは荒野の試みで、毎回「『…と書いてある』」と申命記の言葉を用いてサタンの嘘を打ち破られた。同様に私たちも、創世記3章と4章が描く人間堕落の本質を認めつつ、「神さま、私は弱いです。私の内にもサタンが蒔いた高慢や欲望があります。しかし主のみ言葉が私を全うしてください。私を試みから救ってください」と祈るとき、聖霊はその「み言葉」を生きた力として私たちの魂に適用してくださる。み言葉によって自分を照らし、自己中心的な動機を絶えず悔い改めるとき、ようやく高慢は砕かれ、神中心の判断と選択が可能になるのだ。 また張ダビデ牧師は、もう一つ大事な点を指摘する。「私たちは一人ではない。教会共同体が共にある」ということだ。サタンは往々にして個人を孤立させ、試みに陥れようとする。悩みを一人で抱え、心配を一人で抱え、解決を一人で模索しようとすると、いつのまにかみ言葉から遠ざかりやすい。そのとき、身近な信仰の同労者や牧師、小グループのリーダー、兄弟姉妹に心を打ち明け、祈りを求めるならば、光の中に置かれることになる。光が差し込めば闇は退くように、サタンは「隠し事」と「密かな領域」でこそさらに力を発揮する。しかし共同体の中で互いに罪を告白し、互いに励まし合い、とりなしの祈りをささげるなら、悪魔がつけ入る隙はなくなる。ヤコブの手紙に「互いに罪を言いあって祈りなさい」とあるのも、この原理による。 特に主の祈りを共に暗唱し、祈るとき、「試みに遭わせず、悪から救い出してください」というこの一行の文言が、どれだけ強力な霊的武器となりうるかを悟らされる。イエス様ご自身が教えてくださった祈りであるがゆえに、そこに込められた霊的意味は深く、かつ教会全体で心を合わせて捧げる祈りのとき、聖霊が与える慰めと力はますます大きくなる。張ダビデ牧師は「主の祈りは教会共同体の祈りであり、同時に私の祈りでもある。教会は共に一つの心でサタンに立ち向かう霊的軍勢となるべきだ」という。そして、このような祈りとみ言葉の訓練を繰り返していくとき、聖徒は実際の生活の中でも罪と高慢に打ち勝つ経験を持てるようになる。 まとめてみると、創世記3章と4章を通して始まった人間の堕落とサタンの誘惑、そしてサタン自体がどのように堕落したのか(イザヤ書14章、エゼキエル書28章、黙示録12章)を学ぶことは、聖徒が霊的に目を覚ましているための不可欠な基礎である。サタンは人間が本来持つ弱さを悪用して、「自分が善悪を判断する」という態度、すなわち高慢へと誘う。しかしイエス様はへりくだりによって、十字架で死に至るまでの従順によって、その道を完全にひっくり返された。私たちはイエス様の勝利にあずかることで、サタンに対抗できる。「試みに遭わせず、悪から救い出してください」と願いつつ、み言葉のうちにとどまるとき、サタンはもはや本質的な影響力を及ぼせなくなるのだ。 張ダビデ牧師は言う。「私たちの戦いはすでに勝利が約束された戦いだ。主があらゆる『高慢』を打ち砕き、私たちの罪の代価を支払われた。しかし私たちがまだこの肉体をまとい地上で生きている間は、サタンは吠えたける獅子のように飲み込む者を探しているから、常に警戒する必要がある。だが恐れる必要はない。光である主が共におられるなら、闇が勝つことは決してできないのだから。」 この確信が聖徒の日常に具体的に適用されるとき、私たちはサタンを縛り、罪から離れ、自由になる恵みを味わうことができる。つまりイエス様はすでに勝利されたが、その勝利を自分のものとして体験するには、日々の御言葉の黙想と祈りが求められるということである。 最終的に、人間は自ら「神のようになろう」とした罪を悔い改め、イエス様が成就された十字架の贖いを信仰によって受け取り、聖霊によって聖なる道を歩むべきである。張ダビデ牧師の教えによれば、これがキリスト教の教理の核心であり、私たちの信仰生活全体を貫く重大な鍵である。「あなたがたのうちにこの思いを抱きなさい。キリスト・イエスの思いを。」(ピリピ書2章)という勧めこそ、サタンの誘惑と試みに勝つ最強の武器である。イエス様の思いは決して高慢ではなく、最後まで従順によって勝利された。だから聖徒は、安易な自信や独善に陥らないよう常に自分を省み、「善悪を主権的に判断されるのは神である」ことを認め、自分は被造物として、子として、また神の委託を任された管理者としての本分を尽くすのが正しい姿なのだ。 張ダビデ牧師は最後に、サタンについて過度に恐れたり、逆にその存在を無視してしまう極端に走らないようにと注意を促す。サタンは明らかに人間の敵であり、誘惑者であり、世の王や権力者を通じて活動するので警戒は必須である。しかし同時に、私たちはすでにイエス様にある勝利を確信できるゆえ、サタンを恐れる理由はない。「自らを低くされるイエス様を知り、その御言葉を大胆に宣言し、御言葉に沿って愛し仕える人に、サタンはどうすることもできない」という結論だ。ここであらためて強調されるのが「主の祈りの力」である。その祈りの最後の文言、「国と力と栄光は永遠にあなたのものです」は、永遠に真の主権者が誰であるかを告白する信仰の祈りだからである。 これらすべてを総合すると、創世記3章と4章の堕落の物語は単なる「過去の出来事」にはとどまらない。それは日々繰り返されうる人間の心の状態であり、高慢と不従順がどのように染み込んでいって極端な破壊をもたらすかを示す警告でもある。しかし同時に、神がイエス・キリストを通じて与えてくださる救いの計画がいかに驚くべき恵みであるかを告げる宣言でもある。人間が本来創造された時に持っていた聖さを回復するように、神はサタンのあらゆる企みを打ち破り、私たちを永遠の御国へ導く道を開いてくださった。だからこそ張ダビデ牧師は「私たちが主に従うなら、高慢の代わりに謙遜を、不従順の代わりに従順を、闇の代わりに光の中を歩むようになる」と力説する。その道を歩むにつれ、私たちは日々の試みの中でも勝利し、やがて永遠の命へと至るのである。 これはすなわち、すべての聖徒が「試みに遭わせずに」という主の祈りの願いを軽く受け流してはいけない、というメッセージで幕を閉じる。張ダビデ牧師は「私たちは常に御言葉と祈りによって武装し、共同体の中で光の中を共に歩み、高慢の扉を閉ざさねばならない」と語る。そうすればサタンが歴史の片隅でいくらあがいても、最終的には敗北した存在なので、私たちの歩みを妨げることはできない。現代の世の中は混沌としており、価値観は多様化し、教会もまた混乱を経験するかもしれない。しかしただ御言葉に基づいて「善悪を判別されるのは人間ではなく神である」と認めるならば、真理が私たちを自由にしてくれるであろう。 結局のところ、張ダビデ牧師が語ろうとしている結論はシンプルである。「創世記3章と4章の場面を毎日黙想しなさい。そして、サタンが高慢によって堕落したイザヤ書14章、エゼキエル書28章、黙示録12章、およびサタンに立ち向かったヨブ記の出来事とイエス様の荒野の試みを忘れないように。主の祈りを熱心に暗唱し、実際の祈りとし、『試みに遭わないように』御言葉のうちに目を覚ましていなさい。そうすれば、どれほどサタンが誘惑しようとも、神の民は勝利するだろう。」 これが張ダビデ牧師が聖徒たちに伝えるはっきりとした勧めであり、創世記3章と4章を見る際の中心的視座である。高慢によって奈落に墜ちたルシファーとは対照的に、イエス様は徹底してご自分を低くされることで「すべての名にまさる名」を授かった。この対比が聖徒に与える教訓は明白だ。自らを高めれば結局は黄泉の穴へ落ちるが、自らを低くして神を崇めれば永遠の命を得る。そのことを最後までしっかりと握り、高慢の試みに打ち勝って神の子どもらしい実を結ぶ道を、すべての聖徒が共に歩むことを切に願うものである。

アンテオケ教会の精神 – 張ダビデ牧師

1.アンテオケ教会の精神 アンテオケ教会は、キリスト教史において欠かすことのできない重要な模範とされている。『使徒の働き』やパウロ書簡などを通じて見えてくるのは、エルサレム教会とは異なるアンテオケ教会の独自性であり、とりわけ異邦人宣教の本格的な出発点となったという点が象徴的である。ユダヤ人だけでなく、ギリシア人や数多くの異邦人が共存していたアンテオケの地は、福音が国際的かつ多文化的に拡張する決定的なきっかけとなり、「クリスチャン」(使徒の働き11:26)という呼称もここで初めて用いられた。こうしたアンテオケ教会の精神を重視して説教する代表的な人物の一人が、張ダビデ牧師である。彼は、自身が率いる教会と教団の神学的基盤をアンテオケ教会のモデルに置き、それをもとに教会開拓、世界宣教、公同教会性、そして教理確立の必要性を強調してきた。 張ダビデ牧師が説くアンテオケ教会の精神は、おもに三つの特徴に要約される。第一に、聖霊の熱い働きがあらゆる宣教や活動の始動点であるということだ。アンテオケ教会の指導者たちは断食と祈りの中で「バルナバとパウロを選び出し…」(使徒の働き13:2-3)という聖霊の導きを受け取り、世界宣教に第一歩を踏み出した。これは教会が人間的な計画や組織論を優先するのではなく、聖霊の御声に最優先で従う姿を象徴している。張ダビデ牧師は、現代教会こそ財政やマーケティング戦略を立てる前に、まず聖霊への全面的な服従姿勢を取り戻すべきだと訴える。急成長を遂げた韓国教会において、しばしば「神が望まれる方向」よりも「人間が求める成果」に走りがちだった点を猛省し、アンテオケ教会の霊性に学んでいかねばならないというわけである。 第二に、アンテオケ教会は教理的確立と公同教会性を同時に追求した。『使徒の働き』15章では、彼らがエルサレム教会と緊密に協力し、異邦人信徒に課すべき律法や福音の本質をめぐって議論を重ねる様子が記されている。これは教会が特定地域だけに限定されるのではなく、世界へと広がるキリスト教の普遍的真理を守るために互いに協力し合うべきことを示唆する事例だ。張ダビデ牧師が論じる「アンテオケ的教会観」は、まさにこの点で輝きを放つ。彼はアンテオケ教会の本質を現代に適用し、「セアン教会(新しいアンテオケ)」というビジョンを掲げている。教理的基礎の確立、聖霊に重きを置いた礼拝、さらに他教会との活発なコミュニケーションと連合をもって、アンテオケ教会の精神を現代的に甦らせようとしているのである。 第三に、アンテオケ教会は世界宣教の前哨基地としての役割を担った。ここで派遣されたバルナバとパウロは、小アジアやヨーロッパ各地を巡回し、異邦世界に福音を大きく拡散した。張ダビデ牧師は「教会は世へと派遣される聖徒たちのベースキャンプだ」という言葉を好んで引用する。アンテオケ教会が果たした役割を、21世紀の韓国教会もまた継承すべきだと考えるからである。実際、彼の率いる教団では国内外に教会を多数開拓し、宣教師を派遣しながら弟子訓練と福音宣教に力を注いできた。これらは教団の規模拡大や数的成長そのものが目的ではなく、「福音のもつ宇宙的(universal)次元の力」をあまねく人々に届けることが教会の存在意義だという神学的信念に基づいている。 また、アンテオケ教会の精神は、口先だけの信仰 ではなく、実生活で実証される信仰を重視している点にも表れている。初代教会の信徒たちは教会の内外で互いのために祈り合い、財産を分かち合い、迫害と困難の中でも揺るがない献身を示した。張ダビデ牧師は説教でしばしば「アンテオケ教会がなければパウロの世界宣教の躍進もなかっただろう」と付言するが、それは信徒個々が福音を深く体得し、祈りと感謝に根ざした生活をすることこそ、大きな宣教の推進力となるという事実を強調するためである。つまり、教会が制度や行事だけを華やかにしても、聖霊の働き・教理的基礎・公同教会的連合・祈りと感謝が伴わなければ意味が薄い、という強いメッセージを発しているのだ。 このアンテオケ教会の精神は、今日の韓国教会にいくつもの示唆を与えている。第一に、急速な成長の影で世俗化や分裂の問題に苦しむ韓国教会が、改めて初代教会のルーツを想起するきっかけとなる。教会は決して自生的な組織ではなく、五旬節(ペンテコステ)の聖霊降臨によって誕生した「聖霊共同体」であり、普遍教会の一員であることを忘れてはならない。張ダビデ牧師は「公同教会性」の回復を力説し、教団や教派の枠を超えて、キリストにあって一つの体であることを再確認すべきだと語る。 第二に、教会開拓と派遣が持つ重要性である。使徒パウロが各都市に教会を建てつつ手紙で信者を教導し励ましたように、現代でも「この地に教会を植える」という行為は今なお有効な宣教手段といえる。 第三に、聖徒一人ひとりが「神に聖別された者」としてのアイデンティティを自覚し、弟子訓練によって信仰の根幹をしっかりと固めるべきだ。個人主義や物質主義が強まる社会環境の中で、教会が世の価値観を逆転させる霊的運動を起こすには、聖徒のアイデンティティと訓練が不可欠なのである。 こうして見てくると、アンテオケ教会の精神は、現代における教会の礼拝と活動に深い洞察を与えてくれる。張ダビデ牧師が一貫して語るのは、「教会はただ集まって礼拝をし、安住するだけで終わるのではなく、散らされて福音を宣べ伝え、教理的土台を確立していかなければならない」ということである。多くの教団や教会が入り乱れる韓国社会でこの精神を回復するのは容易ではないが、初代教会が示したモデルはいつの時代も変わらぬ羅針盤であり続ける。過去33年間、教団を導きながら多くの地域教会・海外宣教地で種を蒔いてきた張ダビデ牧師は、これからもアンテオケ教会の精神を時代に合わせて再解釈し、信徒たちに福音の純粋性と熱意を絶えず呼び起こしていくだろう。この姿勢こそが、彼の神学的根幹である。「教会の頭(かしら)はイエス・キリストのみ」であり、「聖霊の働きによって教会は教理的純粋性を守り、一つの体として結ばれ、世界へ福音を宣べ伝える」という確信だ。 2.コロサイ書講解説教に表れた教理的基礎 張ダビデ牧師の説教における重要な柱の一つは、いわゆる講解説教(Expository Preaching)である。聖書本文そのものを注解し、その意味を現代の教会や信徒の生活に具体的につなげるアプローチを取り続けてきた。その中でもコロサイ書は、彼の説教にしばしば取り上げられる本文の一つである。なぜコロサイ書なのか。一般的に「獄中書簡」に分類されるコロサイ書は、パウロが投獄された状況下でも教会に訴えたかった、キリスト中心のメッセージが非常に濃厚に描かれているからだ。特にイエス・キリストを単なる「優れた教師」ではなく、万物の主権者であり教会の頭(かしら)であると高らかに宣言する「高いキリスト論」は、この書簡の主軸となっている。 張ダビデ牧師が繰り返し強調するコロサイ書の主要箇所の一つが、1章15〜17節だ。そこでパウロはイエス・キリストを「見えない神のかたちであり、すべての造られたものに先立って生まれた方」と紹介する。さらに1章18節では「この方は、その体である教会の頭」であると宣言し、キリストこそ教会を真に治める主権者であることを示している。さらに1章20節以降で「十字架の血によって平和をなして、地にあるものも天にあるものもすべて和解させた」と記されるように、イエス・キリストの贖いのみわざが宇宙的次元にまで及ぶと教えている。これは福音が単なる宗教的規範や倫理的勧告にとどまらず、世界の根本的秩序を変容させる超越的力であることを示唆する。 張ダビデ牧師は、このようなコロサイ書のキリスト論に基づき、教会が保持すべき教理的基礎をいくつか指摘している。第一に、イエス・キリストの神性を弱体化させたり、他の思想や哲学と“混合”させようとする誘惑に警戒すべきだということ。実際、コロサイ教会はグノーシス主義や特定のユダヤ律法主義者の影響を受け、福音が混乱しかけた。そのときパウロは「キリストのうちにこそ、神の本質がすべて余すところなく宿っている」(コロサイ2:9)と断言して誤りを断ち切った。これは教会が守り抜くべき福音の根幹であり、21世紀の世俗主義や宗教多元主義の風潮に対しても同様に有効だ。張ダビデ牧師は、「イエスを道徳教師程度に引き下ろしてしまうと、教会は福音の力を失い、世の倫理団体と変わらなくなる」と繰り返し警告する。 第二に、教会と信徒はイエス・キリストとの緊密な連合を築かなければならない。コロサイ2章6〜7節でパウロは「あなたがたはキリスト・イエスを主と受け入れたのだから、彼のうちを歩み、彼のうちに根を張り…」とすすめる。張ダビデ牧師はこれを「教会が礼拝や行事の運営にとどまるのではなく、信徒一人ひとりがキリストの真理の上に確固たる根を下ろす」ことだと解釈する。そのためには弟子訓練や教理教育、聖書研究などが欠かせない。「信じます」という口先の告白だけでは不十分であり、みことばを深く学び黙想する中で生活そのものが変わらなければならない、というわけである。 第三に、コロサイ書が強調する「聞き、悟り、実を結ぶ」(コロサイ1:6)福音のプロセスを教会全体で組織的に支援すべきだ。パウロは「この福音がすでにあなたがたに達し、あなたがたがそれを聞いて神の恵みを悟った日から、実を結び成長している」と述べるが、張ダビデ牧師によれば「福音を聞く」という第一段階を経て「悟り」に至るとは、単なる知的理解ではなく、心で受け止め信仰で応答することだという。そしてその悟りが具体的な実を結ぶときにこそ、教会共同体はしっかりと建て上げられるのだ。 第四に、コロサイ書に見られる祈りと感謝の姿勢は、教会と信徒の霊的活力を高める核心要素となる。1章3節でパウロは「あなたがたのために祈るとき、いつも神に感謝している」と述べるが、張ダビデ牧師はこれをさらに拡大し、教会が互いのために祈り合い、共同体全体で受けた恵みを共有し合う文化を築くことの大切さを説く。初代教会が離れた場所にいながらも祈りと感謝によって一つにつながっていたように、今日の教会も教団・教派の壁を超えた連帯を形作るカギは「互いのための祈り」と「神への絶えない感謝」である。張ダビデ牧師が導く教会群では、早天祈祷や徹夜祈祷に限らず、複数の地域教会が連合して祈る集会を盛んに行う伝統を持っている。これは公同教会性を具体的に実践する上でも非常に意味深い方法だと言える。 結論として、張ダビデ牧師が展開するコロサイ書の講解説教の要点は、「イエス・キリストが教会の頭であり、全宇宙の主権者であるという真理を明確に握り、その上に教会を堅固に立てるべきだ」というメッセージに行き着く。この基礎が揺らぐと、教会は世俗文化や多彩な哲学・イデオロギーに容易に流されてしまう。逆に基礎が確かであれば、教会はどんな時代の変化にも動じず福音の純粋性を保ちながら、「福音を聞き、悟り、実を結ぶ」信徒を養うことができる。張ダビデ牧師はこれを「教理と生活が乖離しない教会」と表現し、コロサイ書が描く教理的ビジョンと実践的指針に倣う共同体こそが、最終的にアンテオケ教会の霊性を回復し得るのだと強調する。 このように、彼の講解説教は単なる聖句の注解や教理解説にとどまらず、「今この時代に私たちがどう生きるか」という具体的問いに結びつく。もしイエス・キリストが万物の創造主であり、教会の頭であると真に信じるならば、教会はそのお方に全面的に従い、信徒は世の価値観を超えて聖なる献身と伝道、そして愛を実践せねばならない。これは張ダビデ牧師の教会開拓や世界宣教のビジョンとも自然に合致する。なぜなら、講解説教の最終的な目的は、聖徒をキリストの真理の上に堅く立たせ、その福音を世へ伝えさせることに他ならないからである。コロサイ書が言う「全世界で実を結ぶ」(1:6)というフレーズは、地域的限界を超えて福音が世界的に広がる夢を示しており、これは張ダビデ牧師の牧会哲学と宣教方針を力強く裏づけるものとなっている。 3.世界宣教と福音伝播に向けた張ダビデ牧師のビジョン アンテオケ教会の精神とコロサイ書の高いキリスト論は、自然に世界宣教という主題へと展開していく。福音は特定の民族や地域に限定されず、全世界へと広がるべきだという自覚は、初代教会以来受け継がれてきたキリスト教の普遍的使命である。張ダビデ牧師は「教会はいつの時代も、諸民族に向けて心を開いていなければならない」と繰り返し説き、アンテオケにおける歴史的根拠と、コロサイ書に示された教理的根拠を結び合わせて主張する。 まず歴史的な観点でいえば、アンテオケ教会は 口先だけの信仰 の段階を超え、実際に献身と派遣を果たした教会だった。彼らはエルサレムから離散してきた信徒とも協力して多民族・多文化の共同体を築き、バルナバとパウロを宣教の最前線へ送り出す決断を躊躇しなかった。「教会にある人的・物的資源を惜しまず、聖霊の示唆に即座に従った」という事実は、張ダビデ牧師が現代教会にも必要だと考える肝要なポイントである。教会開拓や世界宣教はコストやリスクを伴うが、「天に蓄えられている望み」(コロサイ1:5)を抱く信徒は、世的な安楽や利益に執着せず、宣教的な生き方へと進むことができるというわけだ。 教理的な面では、コロサイ書がイエス・キリストの神性と主権を宇宙的次元まで拡大して描くことに注目できる。つまり、福音は一文化圏のみに通用する部分的メッセージではなく、「地にあるものも天にあるものも」(1:20)すべてを更新するキリストの和解のみわざだという視点である。張ダビデ牧師はこれを「福音の世界化」と呼ぶが、世俗的な意味でのグローバル化ではなく、公同教会性に基づく普遍性としての世界化を指している。教会が聖霊の力に支えられ、文化・言語・民族を越えて福音を告げ知らせることが重要なのだ。実際に、彼の教団からは多くの宣教師が各大陸へと派遣され、現地の教会との協力や神学校の設立、リーダー育成などを行ってきた。 ではポストモダンの21世紀において、いかに宣教を展開していくべきか。張ダビデ牧師は以下のような原則を示す。 福音の本質を守ることが最優先コロサイ教会に入り込んだ偽りの教師たちのように、現代でも異端やカルト、さらには世俗の価値観が教会を混乱に陥れる可能性がある。だからこそ教会の指導者たちは、講解説教や教理教育によって、信徒が「イエス・キリストの主権」と「十字架の贖い」の核心をしっかり掴むよう導かなければならない。 文化的柔軟性を持つこと初代教会も異邦人伝道の際、ユダヤ律法をどこまで適用するか、どこを免除するかを慎重に検討し(使徒の働き15章)、福音の本質を損なわない範囲で柔軟な対応を図った。現代の宣教師も文化や慣習を頭ごなしに否定するのではなく、受容可能な要素を認め尊重し、福音のエッセンスを伝達すべきだ。その際、教会同士の連合と祈りの力が大きな助けとなる。 デジタル時代のツールを積極的に活用するSNSやオンライン礼拝、メディア伝道などは、地理的距離を超えて福音を広める有力な手段となる。張ダビデ牧師はこれを「現代版ローマの道」と比喩する。パウロがローマ帝国の道路網を使って福音を携え広範囲に移動できたように、今日の教会もデジタル・インフラを福音伝播に大いに生かすべきだというわけである。 張ダビデ牧師の世界宣教ビジョンの根底には、「教会は礼拝しつつ内部で自己完結する共同体ではなく、絶えず派遣される共同体でなければならない」という信念がある。アンテオケ教会がバルナバとパウロを手放したように、健全な教会は有能な人材を内部だけに囲い込まず、彼らを世に送り出して福音を広め、弟子を養成できるよう支援すべきなのだ。これは時に教会の規模拡大と相反する側面があるものの、張ダビデ牧師は「神の国の視点から見れば、こうした派遣と分かち合いこそ真の『教会開拓精神』であり、結果的に教会をいっそう豊かにする道である」と主張する。 さらに、この宣教ビジョンを具体化するために欠かせないのが、祈りと感謝である。張ダビデ牧師は、言語や文化が異なる教会同士が連携し、地理的に離れたコミュニティを継続して祈りで支えるとき、その祈りが強固な霊的ネットワークを築くと考えている。これは初代教会がエルサレムやアンテオケ、小アジアの諸教会へ分散しながらも、一つの体として連動できた根幹的な理由の一つでもある。パウロが書簡のたびに「いつもあなたがたのために祈り、感謝している」と述べているのは、教会間の霊的結束と公同教会性を支える最も強力な手段が、祈りと感謝であることを示す証拠と言えよう。現代においても教会間協力や宣教連合を進めるには、この霊的原理が不可欠であると張ダビデ牧師は強調する。 総括すれば、張ダビデ牧師が展開する世界宣教論は、アンテオケ教会の歴史的モデルとコロサイ書の神学的洞察を結合して、21世紀の教会が目指すべき道筋を具体的に示すものである。教会は全世界へ福音を届けねばならないが、そこに至る前提として、聖霊の強い働きと教理的安定、公同教会性に基づいた連合、そして祈りと感謝の生活が欠かせない。これらの要素を軽視したり、いずれかだけに偏ってしまえば、宣教は歪められたり一過性のイベントに終わってしまうおそれがある。しかし、アンテオケ教会が歩んだ軌跡、コロサイ書が示す教理の基盤、そして現代においてこれを実践しようと努めてきた張ダビデ牧師のビジョンを合わせて見るならば、教会は本質を守りつつ、文化的・デジタル的変化を柔軟に受け入れ、さらに広範囲へ福音を拡張できるはずだ。 加えて、張ダビデ牧師は「福音を宣べ伝える」とは、人生全体を通じての「献身」であると断言する。福音は教会の中だけで「聞いて学ぶ教え」ではなく、教会の外にこそ具体的に適用される価値観と行動様式であるべきだというのだ。イエス・キリストの愛と真理が職場や家庭、社会のあらゆる領域で可視化されるとき、人々は教会を見て「彼らの語るイエスとは何者なのか? なぜこれほど生活を変える力があるのか?」と疑問を抱き、その「聖なる好奇心」が新たな宣教の扉を開く。教会が内向きの満足に陥らず、外へと福音を流し出す時、初代教会のアンテオケがそうであったように、韓国教会もまた21世紀のアンテオケとして再出発し得ると、張ダビデ牧師は強い期待を寄せる。 最終的に、張ダビデ牧師が思い描く教会像を要約すると、「聖霊に燃やされる霊性、ただイエス・キリストを見上げる教理的確信、すべての教会が一体であることを認める公同教会性、そして地の果てまで福音を携え出ていく宣教使命を同時に追い求める共同体」と言える。どの時代においてもそれは困難で挑戦的な道のりだが、初代教会がすでにその道を切り拓き、コロサイ書などの書簡が明確な神学的ガイドラインを示している。張ダビデ牧師は、アンテオケ教会の精神とコロサイ書が告げる高いキリスト論を深く黙想しつつ、この世のただ中で福音の力を体現する聖徒を育てることこそ、自身の使命だと公言する。 これまで33年にわたって教団を率い、多くの教会を開拓し、海外宣教の現場でも活動を重ねてきた経験は、彼の語るビジョンが単なる理念や理論ではなく、実際に検証されてきた牧会哲学であることを裏付ける。世界各地に派遣された宣教師たちが福音を宣べ伝え、教会同士が連合して祈り合い、信徒たちがそれぞれの場所で献身を続ける時、アンテオケ教会が体現していた「聞き、悟り、実を結ぶ」福音の循環が、21世紀にも再現できることを証明している。そして、それは張ダビデ牧師が絶えず唱えるスローガン――「恵みを悟り、それを広める人生」――にもぴったり重なるものである。 まとめると、アンテオケ教会の精神とコロサイ書が示す教理の柱、そして世界宣教へ向かう具体的ビジョンを一体化させた張ダビデ牧師の歩みは、複雑な現代の韓国教会に明確な方向感を与えてくれる。教会が教会らしくあるためには、まず聖霊の感動と福音の真理が躍動していなければならない。その土台の上で祈りと感謝があふれ、信徒一人ひとりが自らの召しを認識し、世のただ中で献身の姿を示すとき、教会はアンテオケ教会のように公同教会の連帯を築きながら、全世界へと福音を運ぶ能動的な宣教共同体へと変容し得る。これこそが張ダビデ牧師の根本的なメッセージであり、彼が教会開拓と世界宣教を通して成し遂げようとしているゴールでもある。