L’esprit de l’Église d’Antioche – Pasteur David Jang

1.L’esprit de l’Église d’Antioche L’Église d’Antioche est perçue comme un modèle incontournable dans l’histoire du christianisme. Les Actes des Apôtres et diverses Épîtres nous montrent en effet son identité particulière, distincte de celle de l’Église de Jérusalem. L’une des caractéristiques marquantes de cette communauté est d’avoir été le véritable point de départ de la mission … Read more

安提阿教会的精神 —— 张大卫牧师

1.安提阿教会的精神 安提阿教会在基督教历史中被视为不可或缺的重要典范。从《使徒行传》和各书信中,我们能看出安提阿教会与耶路撒冷教会之间的不同之处,其中一个显著特征便是它成为外邦宣教的正式起点。在这座犹太人、希腊人以及各族外邦人共存的城市里,福音得以跨文化、跨国度地迅速传播,“基督徒”(徒 11:26)这一名称也是在这里首次被使用。关注安提阿教会精神的代表性讲道者之一,就是张大卫牧师。他以安提阿教会为所带领教会和宗派的神学根基,并据此强调教会植堂、世界宣教、大公合一与教义确立等要务。 在张大卫牧师看来,安提阿教会精神可归纳为以下三点。第一,所有事工都以圣灵强烈的作为为起点。安提阿教会的领袖们在禁食祷告时,听见圣灵指示:“要为我分派巴拿巴和保罗……”(徒 13:2~3),由此迈出了世界宣教的第一步。这象征着教会必须将圣灵的引导置于任何人类策略或规划之前。张大卫牧师指出,现代教会同样应在财务、组织、营销策略之前,首先全然倾听圣灵的声音。他特别强调,韩国教会在急速成长过程中,时常只追求“人想要的成果”,却忽略了“神所指明的方向”,要克服这一问题,就必须效法安提阿教会的灵性。 第二,安提阿教会同时兼顾教义确立与大公合一。翻看《使徒行传》第15章,可见他们与耶路撒冷教会保持紧密沟通,就外邦信徒需遵守哪些律法及福音的核心内涵展开激烈讨论。这不仅表明教会不应局限于地方性共同体,也彰显出面对全球化的基督信仰,教会间的彼此协助至关重要。张大卫牧师所称的“安提阿式教会观”正是基于此点。他将安提阿教会的现代化形象称作“新安教会”,并期望它能承担“新的安提阿”角色。大公性的教义基础、以圣灵为中心的敬拜,以及教会间积极的沟通与合一,正是安提阿教会精神在当代的复兴。 第三,安提阿教会是世界宣教的重要前哨。这里所差派的巴拿巴和保罗奔赴小亚细亚与欧洲,把福音带向外邦各地。张大卫牧师常引用“教会是被差往世上的信徒基地营”这句话,强调21世纪韩国教会也应同样实践这一使命。他所领导的宗派不仅在国内建立多间教会,也将大量宣教士派往海外,通过门徒训练和传扬福音不断开拓工场。这不仅是为了扩大宗派规模或追求数字增长,而是源于这样一种神学确信:福音拥有普世(universal)层面的力量,将之与所有人分享,才是教会存在的真正意义。 安提阿教会精神的另一面向,是反对 只在口里停留的信仰,强调在现实生活中彰显信仰。初代教会信徒在教会内外彼此代祷、共享财产,即便遭遇逼迫仍不改初心。张大卫牧师时常在讲道中说:“若没有安提阿教会,保罗使徒那具爆发力的世界宣教也难以实现。”此番话凸显的是:只有当信徒个人真正领受福音,并让祷告与感恩渗透于日常,教会才能开展宏大事工。教会若只追求体制或活动的耀眼,反倒会失去根基;唯有圣灵的运行、教义根基的扎实、大公性合一,以及祷告感恩的果子丰盛,才是安提阿教会精神的实质。 这一安提阿教会精神对今日韩国教会具有多重启示。其一,在高速发展带来的阴影下,韩国教会出现了世俗化和分裂的问题,这精神敦促我们重回初代教会的本源。教会从来不是自发生长的组织,而是自五旬节圣灵降临便延续至今的“圣灵共同体”,同时也属于普世教会的一部分。张大卫牧师不断呼吁要强调“大公性”,超越各宗派的围墙,在基督里重新合一。其二,强调教会植堂与差派的重要性。正如使徒保罗在各城市间建立教会,通过书信教导并鼓励信徒一样,“在这片土地上播种教会”至今仍是有效的宣教策略。其三,唤醒信徒个人对“蒙召为圣徒”身份的自觉,通过门徒训练巩固信仰基础。唯有如此,在个人主义和物质主义泛滥的社会氛围里,教会才能触发颠覆世俗价值观的属灵运动。 总之,安提阿教会精神为当代教会的敬拜和事工提供了有力启示。张大卫牧师多次强调,“教会不要只局限于聚会敬拜、留在安逸舒适之中,而要分散出去传扬福音,并致力于重建教义根基。”在教派林立、教会纷繁的韩国社会,要恢复这精神实属不易,但初代教会的样式始终是我们坚定的指南。过去33年里,张大卫牧师所带领的宗派已在许多地方教会和海外宣教工场撒下福音种子。未来,他也将继续以与时代呼应的方式诠释安提阿教会精神,让信徒时刻回想并守护福音的纯正与热诚。这也正是他神学立场的根本:教会唯一的头乃耶稣基督,在圣灵的作为中守护教义纯净,同为一体,并向全世界传扬福音。 2.《歌罗西书》释经讲道中所体现的教义基础 在张大卫牧师的所有讲道中,释经讲道(Expository Preaching)是最核心的部分。他始终坚持从经文本身出发,阐明其本意,再将之联系到当代教会与信徒的具体生活之中。其中,他特别重视《歌罗西书》,并频繁将其选为讲道主题。为什么偏爱《歌罗西书》?因为它属于一般所称的“监狱书信”,保罗即便身陷囹圄,仍向教会传递了高度基督中心的信息——即在万有之上、在教会之中同时掌权的崇高基督论,也就是“从上而来的基督论”(Christology from Above)。 张大卫牧师反复强调《歌罗西书》中的重要段落如下:《歌罗西书》1章15-17节宣告耶稣基督是“那不能看见之神的像,是在一切被造之先所生的”,并指出祂在创造万物的过程中拥有绝对的主权。紧接着1章18节则说到“祂也是教会这身体的头”,进一步揭示基督才是教会真正的治理者。随后在1章20节以后写道,“借着十字架所流的血成就了和平,使地上天上一切都与神和好”,显示基督的救赎在宇宙层面均有效能。这意味着福音不仅是宗教戒律或伦理教诲,而是改变世界根基秩序的超越性力量。 基于《歌罗西书》的这种基督论,张大卫牧师总结出教会必须紧紧抓住的教义基础:第一,要防备削弱耶稣基督神性,或将其与其他哲学、思想相混淆的诱惑。《歌罗西书》所处的历史背景下,歌罗西教会也曾面临诺斯底主义、灵知主义及部分犹太律法主义的干扰。保罗在信中坚决抵制这种混杂,宣告“神本性一切的丰盛,都有形有体地居住在基督里面”(西 2:9)。这提醒当今教会,在世俗主义和宗教多元化的冲击下,更要守住福音核心。张大卫牧师时常警示,如果只把耶稣当作“伟大的导师”,教会就会失去福音的大能,沦为一般的道德组织。 第二,教会与信徒都应与基督保持紧密结合。《歌罗西书》2章6-7节写道:“你们既然接受了主基督耶稣,就当遵祂而行,在祂里面生根建造……”。张大卫牧师将这段经文解释为:教会不要只停留于敬拜与活动,而应让每个信徒都在基督真理里扎根。为此,门徒训练、教义教导、查经学习等至关重要。仅仅一句“我信”口号尚不足够,必须藉着对经文的深入理解与默想,带来真正的生命转变。 第三,教会应帮助信徒经历《歌罗西书》所说的“听见、明白并结果子”(西 1:6)之福音阶段。保罗说:“这福音传到你们那里,也就如同在普天下并你们中间……自从你们听见福音,真知道神恩惠的日子起,就结果并增长。”张大卫牧师强调,此处“听见”是第一阶段,而“明白”并非单纯的知识获取,而是发自内心的信服与回应,最终在日常生活中结果子,才算真正经历福音,也使教会群体坚固。 第四,《歌罗西书》所呈现的祷告与感恩态度,是强化教会与信徒属灵动力的关键元素。在1章3节,保罗写道:“我们为你们祷告的时候,常常感谢神……”。张大卫牧师进一步拓展,认为教会若能持续为彼此祷告,并同心回顾恩典,那么就能在灵里联合。正如初代教会相隔甚远却能因祷告与感恩彼此连结,如今教会若想跨越地域与宗派的藩篱,唯一可行之道便是记得“我们同蒙主恩”并彼此代求。张大卫牧师领导下的教会群体,设有清晨祷告、通宵祷告,也常与各地区教会协同展开联合祷告聚会,这正是实践大公合一的具体方式。 因此,张大卫牧师在《歌罗西书》释经讲道中,始终聚焦“耶稣基督为教会之头,也是普世的救主”这一真理,并呼吁教会在此根基上巩固自身。若缺少这个根基,教会极易在当今多变的文化或光鲜亮丽的哲学思潮面前动摇。但根基稳固,则教会能在世代交替中依然保有福音的纯正,并培养真正“听见、明白、结出果子”的信徒。张大卫牧师称之为“教义与生活合一”的教会,并相信顺着《歌罗西书》所揭示的教义蓝图与实践路径前行,就能重现安提阿教会的属灵风貌。 张大卫牧师的释经讲道并未局限于经文的注释或神学论述,更是指向“当今教会和信徒应当如何生活”的核心问题。若我们真相信耶稣基督是万有的创造主,又是教会的元首,就该对祂全然顺服;而信徒也应在日常中超越世俗价值观,践行圣洁、奉献、传扬与爱。这与张大卫牧师所推行的教会植堂和世界宣教事工自然契合——因为释经讲道的终极目标,即是把信徒坚立在基督真理上,再差他们往世界各处作见证。《歌罗西书》1章6节所说的“在普天下都结果并增长”,不仅具有地域的涵义,也暗含着福音向万国扩张的远大异象,与张大卫牧师的牧会理念及宣教方向完美呼应。 3.面向世界宣教与福音传播的张大卫牧师异象 安提阿教会精神与《歌罗西书》的崇高基督论,最终自然引向“世界宣教”这一主题。福音从来不应局限于某个地区或民族,而要传遍世界,这是自初代教会起就承载的普世使命。张大卫牧师强调:“教会必须常向万国敞开大门”,并将安提阿教会的历史先例与《歌罗西书》的教义基础结合起来,深入阐释这一使命。 从历史层面看,安提阿教会不止停留在“口头信仰”,而是实际付出与差派的教会。因着耶路撒冷受逼迫而四散的信徒与多元种族组成的安提阿群体,不仅包容各文化,也毫不犹豫地差派巴拿巴与保罗,响应圣灵的呼召开始宣教旅程——“教会将自己的人力、物力毫不保留地交托,并立刻顺从了圣灵的引导。”张大卫牧师指出,这正是当今教会也需要作出的抉择。的确,教会植堂与世界宣教必然伴随风险与消耗,但拥有“存于天上的盼望”(西 1:5)的信徒,不会只顾世俗安逸与利益,而愿意投入到宣教性的生活与使命之中。 从教义层面看,《歌罗西书》所彰显的耶稣基督神性与主权,已超越了任何文化边界,即祂的救赎是“使地上天上一切都与神和好”(西 1:20)的宇宙性事工。张大卫牧师把这称为“福音的全球化”,但他特别指出,这里的“全球化”不等同于世俗意义上的全球化,而是植根于大公性的福音普世性。教会若依靠圣灵的能力,跨越文化、语言、民族之隔膜,将福音带向各方,才是其真正的本分。事实上,他所领导的宗派已经在世界各大洲差派了众多宣教士,与当地教会通力合作,建立神学院或培训本地领袖,充分践行此理念。 那么在后现代的21世纪,我们又该如何推进宣教?张大卫牧师提出几项关键原则:第一,务必坚守福音本质。正如歌罗西教会曾遭受异端和混乱之扰,现代教会同样面临异端、邪教或世俗化冲击。故而,教会领袖应通过扎实的释经讲道与教义训练,帮助信徒牢牢把握“基督的主权”与“十字架的救赎”。第二,必须具备文化适应力。初代教会为向外邦人传福音,曾在“哪些律法仍须遵守,哪些可予宽免”上作出抉择(徒 15章),亦是对当时文化的尊重和灵活应对。同理,宣教士进入陌生文化时,不应盲目排斥当地风俗,而需在不损及福音核心的前提下加以理解与接纳。这一过程需要仰赖教会之间的合一与祷告力量。第三,善用数字化时代的工具。社交媒体、线上礼拜、影音宣教等,是打破地域限制、快速传播福音的强大手段。张大卫牧师将之比作“当代的罗马大道”。就像保罗借助罗马帝国通畅的交通网得以在各地传扬福音,如今教会也可利用数字平台,让福音更迅速地触及远方。 张大卫牧师的世界宣教异象还包含“教会应当不是只在内部举行礼拜、内部消耗资源的共同体,而是不断差派、愿意分流人才的共同体”。就像安提阿教会甘愿“放手”保罗与巴拿巴,若一间健康的教会留住所有优秀人才,拒绝“放行”,就会错失向外扩展福音影响力的机会。有些教会出于害怕“人才流失”或担心财务损失,而不愿差派,但张大卫牧师认为,从“神国视角”看,这种舍与分享恰恰是“真正的教会植堂精神”,亦会使教会在神的恩典中更加丰盛。 在此宣教异象下,不可忽略的关键要素便是祷告和感恩。张大卫牧师相信,若不同语言、文化的教会能彼此联合、持续代祷,一种属灵网络便会形成。初代教会虽分散于耶路撒冷、安提阿、小亚细亚多地,却能如一人般行动——正是凭借祷告与感恩。保罗在写给各地教会的书信中,多次表露“常为你们祷告并感谢神”。祷告与感恩,是维系教会间灵里相通与大公合一的最有力途径。时至今日,要在教会间促成有效协作与联合宣教,这一“属灵法则”依然不可或缺。 综上所述,张大卫牧师的世界宣教思想,将安提阿教会的历史经验与《歌罗西书》的神学透视相结合,为21世纪教会提供了明确的道路:教会有责任向全世界传福音,但其前提是必须经历圣灵火热的工作、维护教义的稳固、大公意义上的合一,以及将祷告和感恩内化于日常生活。若教会忽视或片面强调其中一项,宣教就容易沦为畸形或一时的活动;但若能借助安提阿教会的榜样、《歌罗西书》的教义基础,并汲取张大卫牧师在当今时代的努力方向,教会既能坚守福音根基,又能灵活接纳数位时代的变迁,让福音进一步拓展其影响力。 值得补充的是,张大卫牧师认为“传福音”不仅仅是口头宣讲,还意味着整个人生的奉献。福音不能仅停留在教会之内被“听见和学习”,更要成为在教会之外切实践行的价值观与生活方式。唯有当耶稣基督的爱与真理贯穿于职场、校园、家庭与社会的每个层面,世人才能看到教会活出的真实见证,从而生出“究竟是谁让他们生命如此翻转?”的神圣好奇,而这正是宣教浪潮兴起的重要契机。若教会不只满足于“内部”信仰,而能让福音“流向外部”,正如初代安提阿引领了世界宣教的开端,韩国教会也可在21世纪扮演安提阿的角色。 综合而言,张大卫牧师所阐述的教会蓝图,可以这样概括:“以圣灵之火燃烧的灵性,只单单仰望耶稣基督的教义确信,承认所有教会在主里原为一体的大公合一,以及主动走向世界、对万民尽宣教责任的共同体。”这样的共同体在任何时代都面临巨大挑战,但初代教会已为我们开启了道路,而《歌罗西书》等书信也提供了神学层面的指导。张大卫牧师常常默想安提阿教会精神与《歌罗西书》所启示的基督论,并视培育能在世间活出福音大能的信徒为自己毕生的使命。 过去33年的宗派历程,连同在无数当地教会与海外宣教工场所累积的经验,印证了他提出的并非空谈,而是一套在现实中受检验的牧会理念。各大洲被派遣的宣教士见证了福音在异文化中的扩张,各教会的联合祷告运动见证了神在大公合一中的大能,信徒在各自岗位中的真诚奉献则印证了福音对生活所带来的改变。这些,都在当今21世纪重现了安提阿教会“听见、明白、结果子”的福音循环,与张大卫牧师所不断呼喊的口号——“领受恩典并传扬恩典的生命”——紧密契合。 由此可见,安提阿教会精神、《歌罗西书》所提出的教义根基,以及迈向世界宣教的实践愿景,共同构成了张大卫牧师事工的总体图像,也为当前处于复杂境遇中的韩国教会提供了一条清晰的方向。若要彰显教会本来面貌,首先必须被圣灵更新,并牢守福音真理;在此根基上,祷告与感恩广泛流溢,信徒自觉其身分并在世上活出奉献,教会才会如安提阿教会那般,与普世教会联合,并积极主动地将福音传至地极。这正是张大卫牧师不断强调的核心信息,也是他在教会植堂和世界宣教上始终奔走不息的目标。

アンテオケ教会の精神 – 張ダビデ牧師

1.アンテオケ教会の精神 アンテオケ教会は、キリスト教史において欠かすことのできない重要な模範とされている。『使徒の働き』やパウロ書簡などを通じて見えてくるのは、エルサレム教会とは異なるアンテオケ教会の独自性であり、とりわけ異邦人宣教の本格的な出発点となったという点が象徴的である。ユダヤ人だけでなく、ギリシア人や数多くの異邦人が共存していたアンテオケの地は、福音が国際的かつ多文化的に拡張する決定的なきっかけとなり、「クリスチャン」(使徒の働き11:26)という呼称もここで初めて用いられた。こうしたアンテオケ教会の精神を重視して説教する代表的な人物の一人が、張ダビデ牧師である。彼は、自身が率いる教会と教団の神学的基盤をアンテオケ教会のモデルに置き、それをもとに教会開拓、世界宣教、公同教会性、そして教理確立の必要性を強調してきた。 張ダビデ牧師が説くアンテオケ教会の精神は、おもに三つの特徴に要約される。第一に、聖霊の熱い働きがあらゆる宣教や活動の始動点であるということだ。アンテオケ教会の指導者たちは断食と祈りの中で「バルナバとパウロを選び出し…」(使徒の働き13:2-3)という聖霊の導きを受け取り、世界宣教に第一歩を踏み出した。これは教会が人間的な計画や組織論を優先するのではなく、聖霊の御声に最優先で従う姿を象徴している。張ダビデ牧師は、現代教会こそ財政やマーケティング戦略を立てる前に、まず聖霊への全面的な服従姿勢を取り戻すべきだと訴える。急成長を遂げた韓国教会において、しばしば「神が望まれる方向」よりも「人間が求める成果」に走りがちだった点を猛省し、アンテオケ教会の霊性に学んでいかねばならないというわけである。 第二に、アンテオケ教会は教理的確立と公同教会性を同時に追求した。『使徒の働き』15章では、彼らがエルサレム教会と緊密に協力し、異邦人信徒に課すべき律法や福音の本質をめぐって議論を重ねる様子が記されている。これは教会が特定地域だけに限定されるのではなく、世界へと広がるキリスト教の普遍的真理を守るために互いに協力し合うべきことを示唆する事例だ。張ダビデ牧師が論じる「アンテオケ的教会観」は、まさにこの点で輝きを放つ。彼はアンテオケ教会の本質を現代に適用し、「セアン教会(新しいアンテオケ)」というビジョンを掲げている。教理的基礎の確立、聖霊に重きを置いた礼拝、さらに他教会との活発なコミュニケーションと連合をもって、アンテオケ教会の精神を現代的に甦らせようとしているのである。 第三に、アンテオケ教会は世界宣教の前哨基地としての役割を担った。ここで派遣されたバルナバとパウロは、小アジアやヨーロッパ各地を巡回し、異邦世界に福音を大きく拡散した。張ダビデ牧師は「教会は世へと派遣される聖徒たちのベースキャンプだ」という言葉を好んで引用する。アンテオケ教会が果たした役割を、21世紀の韓国教会もまた継承すべきだと考えるからである。実際、彼の率いる教団では国内外に教会を多数開拓し、宣教師を派遣しながら弟子訓練と福音宣教に力を注いできた。これらは教団の規模拡大や数的成長そのものが目的ではなく、「福音のもつ宇宙的(universal)次元の力」をあまねく人々に届けることが教会の存在意義だという神学的信念に基づいている。 また、アンテオケ教会の精神は、口先だけの信仰 ではなく、実生活で実証される信仰を重視している点にも表れている。初代教会の信徒たちは教会の内外で互いのために祈り合い、財産を分かち合い、迫害と困難の中でも揺るがない献身を示した。張ダビデ牧師は説教でしばしば「アンテオケ教会がなければパウロの世界宣教の躍進もなかっただろう」と付言するが、それは信徒個々が福音を深く体得し、祈りと感謝に根ざした生活をすることこそ、大きな宣教の推進力となるという事実を強調するためである。つまり、教会が制度や行事だけを華やかにしても、聖霊の働き・教理的基礎・公同教会的連合・祈りと感謝が伴わなければ意味が薄い、という強いメッセージを発しているのだ。 このアンテオケ教会の精神は、今日の韓国教会にいくつもの示唆を与えている。第一に、急速な成長の影で世俗化や分裂の問題に苦しむ韓国教会が、改めて初代教会のルーツを想起するきっかけとなる。教会は決して自生的な組織ではなく、五旬節(ペンテコステ)の聖霊降臨によって誕生した「聖霊共同体」であり、普遍教会の一員であることを忘れてはならない。張ダビデ牧師は「公同教会性」の回復を力説し、教団や教派の枠を超えて、キリストにあって一つの体であることを再確認すべきだと語る。 第二に、教会開拓と派遣が持つ重要性である。使徒パウロが各都市に教会を建てつつ手紙で信者を教導し励ましたように、現代でも「この地に教会を植える」という行為は今なお有効な宣教手段といえる。 第三に、聖徒一人ひとりが「神に聖別された者」としてのアイデンティティを自覚し、弟子訓練によって信仰の根幹をしっかりと固めるべきだ。個人主義や物質主義が強まる社会環境の中で、教会が世の価値観を逆転させる霊的運動を起こすには、聖徒のアイデンティティと訓練が不可欠なのである。 こうして見てくると、アンテオケ教会の精神は、現代における教会の礼拝と活動に深い洞察を与えてくれる。張ダビデ牧師が一貫して語るのは、「教会はただ集まって礼拝をし、安住するだけで終わるのではなく、散らされて福音を宣べ伝え、教理的土台を確立していかなければならない」ということである。多くの教団や教会が入り乱れる韓国社会でこの精神を回復するのは容易ではないが、初代教会が示したモデルはいつの時代も変わらぬ羅針盤であり続ける。過去33年間、教団を導きながら多くの地域教会・海外宣教地で種を蒔いてきた張ダビデ牧師は、これからもアンテオケ教会の精神を時代に合わせて再解釈し、信徒たちに福音の純粋性と熱意を絶えず呼び起こしていくだろう。この姿勢こそが、彼の神学的根幹である。「教会の頭(かしら)はイエス・キリストのみ」であり、「聖霊の働きによって教会は教理的純粋性を守り、一つの体として結ばれ、世界へ福音を宣べ伝える」という確信だ。 2.コロサイ書講解説教に表れた教理的基礎 張ダビデ牧師の説教における重要な柱の一つは、いわゆる講解説教(Expository Preaching)である。聖書本文そのものを注解し、その意味を現代の教会や信徒の生活に具体的につなげるアプローチを取り続けてきた。その中でもコロサイ書は、彼の説教にしばしば取り上げられる本文の一つである。なぜコロサイ書なのか。一般的に「獄中書簡」に分類されるコロサイ書は、パウロが投獄された状況下でも教会に訴えたかった、キリスト中心のメッセージが非常に濃厚に描かれているからだ。特にイエス・キリストを単なる「優れた教師」ではなく、万物の主権者であり教会の頭(かしら)であると高らかに宣言する「高いキリスト論」は、この書簡の主軸となっている。 張ダビデ牧師が繰り返し強調するコロサイ書の主要箇所の一つが、1章15〜17節だ。そこでパウロはイエス・キリストを「見えない神のかたちであり、すべての造られたものに先立って生まれた方」と紹介する。さらに1章18節では「この方は、その体である教会の頭」であると宣言し、キリストこそ教会を真に治める主権者であることを示している。さらに1章20節以降で「十字架の血によって平和をなして、地にあるものも天にあるものもすべて和解させた」と記されるように、イエス・キリストの贖いのみわざが宇宙的次元にまで及ぶと教えている。これは福音が単なる宗教的規範や倫理的勧告にとどまらず、世界の根本的秩序を変容させる超越的力であることを示唆する。 張ダビデ牧師は、このようなコロサイ書のキリスト論に基づき、教会が保持すべき教理的基礎をいくつか指摘している。第一に、イエス・キリストの神性を弱体化させたり、他の思想や哲学と“混合”させようとする誘惑に警戒すべきだということ。実際、コロサイ教会はグノーシス主義や特定のユダヤ律法主義者の影響を受け、福音が混乱しかけた。そのときパウロは「キリストのうちにこそ、神の本質がすべて余すところなく宿っている」(コロサイ2:9)と断言して誤りを断ち切った。これは教会が守り抜くべき福音の根幹であり、21世紀の世俗主義や宗教多元主義の風潮に対しても同様に有効だ。張ダビデ牧師は、「イエスを道徳教師程度に引き下ろしてしまうと、教会は福音の力を失い、世の倫理団体と変わらなくなる」と繰り返し警告する。 第二に、教会と信徒はイエス・キリストとの緊密な連合を築かなければならない。コロサイ2章6〜7節でパウロは「あなたがたはキリスト・イエスを主と受け入れたのだから、彼のうちを歩み、彼のうちに根を張り…」とすすめる。張ダビデ牧師はこれを「教会が礼拝や行事の運営にとどまるのではなく、信徒一人ひとりがキリストの真理の上に確固たる根を下ろす」ことだと解釈する。そのためには弟子訓練や教理教育、聖書研究などが欠かせない。「信じます」という口先の告白だけでは不十分であり、みことばを深く学び黙想する中で生活そのものが変わらなければならない、というわけである。 第三に、コロサイ書が強調する「聞き、悟り、実を結ぶ」(コロサイ1:6)福音のプロセスを教会全体で組織的に支援すべきだ。パウロは「この福音がすでにあなたがたに達し、あなたがたがそれを聞いて神の恵みを悟った日から、実を結び成長している」と述べるが、張ダビデ牧師によれば「福音を聞く」という第一段階を経て「悟り」に至るとは、単なる知的理解ではなく、心で受け止め信仰で応答することだという。そしてその悟りが具体的な実を結ぶときにこそ、教会共同体はしっかりと建て上げられるのだ。 第四に、コロサイ書に見られる祈りと感謝の姿勢は、教会と信徒の霊的活力を高める核心要素となる。1章3節でパウロは「あなたがたのために祈るとき、いつも神に感謝している」と述べるが、張ダビデ牧師はこれをさらに拡大し、教会が互いのために祈り合い、共同体全体で受けた恵みを共有し合う文化を築くことの大切さを説く。初代教会が離れた場所にいながらも祈りと感謝によって一つにつながっていたように、今日の教会も教団・教派の壁を超えた連帯を形作るカギは「互いのための祈り」と「神への絶えない感謝」である。張ダビデ牧師が導く教会群では、早天祈祷や徹夜祈祷に限らず、複数の地域教会が連合して祈る集会を盛んに行う伝統を持っている。これは公同教会性を具体的に実践する上でも非常に意味深い方法だと言える。 結論として、張ダビデ牧師が展開するコロサイ書の講解説教の要点は、「イエス・キリストが教会の頭であり、全宇宙の主権者であるという真理を明確に握り、その上に教会を堅固に立てるべきだ」というメッセージに行き着く。この基礎が揺らぐと、教会は世俗文化や多彩な哲学・イデオロギーに容易に流されてしまう。逆に基礎が確かであれば、教会はどんな時代の変化にも動じず福音の純粋性を保ちながら、「福音を聞き、悟り、実を結ぶ」信徒を養うことができる。張ダビデ牧師はこれを「教理と生活が乖離しない教会」と表現し、コロサイ書が描く教理的ビジョンと実践的指針に倣う共同体こそが、最終的にアンテオケ教会の霊性を回復し得るのだと強調する。 このように、彼の講解説教は単なる聖句の注解や教理解説にとどまらず、「今この時代に私たちがどう生きるか」という具体的問いに結びつく。もしイエス・キリストが万物の創造主であり、教会の頭であると真に信じるならば、教会はそのお方に全面的に従い、信徒は世の価値観を超えて聖なる献身と伝道、そして愛を実践せねばならない。これは張ダビデ牧師の教会開拓や世界宣教のビジョンとも自然に合致する。なぜなら、講解説教の最終的な目的は、聖徒をキリストの真理の上に堅く立たせ、その福音を世へ伝えさせることに他ならないからである。コロサイ書が言う「全世界で実を結ぶ」(1:6)というフレーズは、地域的限界を超えて福音が世界的に広がる夢を示しており、これは張ダビデ牧師の牧会哲学と宣教方針を力強く裏づけるものとなっている。 3.世界宣教と福音伝播に向けた張ダビデ牧師のビジョン アンテオケ教会の精神とコロサイ書の高いキリスト論は、自然に世界宣教という主題へと展開していく。福音は特定の民族や地域に限定されず、全世界へと広がるべきだという自覚は、初代教会以来受け継がれてきたキリスト教の普遍的使命である。張ダビデ牧師は「教会はいつの時代も、諸民族に向けて心を開いていなければならない」と繰り返し説き、アンテオケにおける歴史的根拠と、コロサイ書に示された教理的根拠を結び合わせて主張する。 まず歴史的な観点でいえば、アンテオケ教会は 口先だけの信仰 の段階を超え、実際に献身と派遣を果たした教会だった。彼らはエルサレムから離散してきた信徒とも協力して多民族・多文化の共同体を築き、バルナバとパウロを宣教の最前線へ送り出す決断を躊躇しなかった。「教会にある人的・物的資源を惜しまず、聖霊の示唆に即座に従った」という事実は、張ダビデ牧師が現代教会にも必要だと考える肝要なポイントである。教会開拓や世界宣教はコストやリスクを伴うが、「天に蓄えられている望み」(コロサイ1:5)を抱く信徒は、世的な安楽や利益に執着せず、宣教的な生き方へと進むことができるというわけだ。 教理的な面では、コロサイ書がイエス・キリストの神性と主権を宇宙的次元まで拡大して描くことに注目できる。つまり、福音は一文化圏のみに通用する部分的メッセージではなく、「地にあるものも天にあるものも」(1:20)すべてを更新するキリストの和解のみわざだという視点である。張ダビデ牧師はこれを「福音の世界化」と呼ぶが、世俗的な意味でのグローバル化ではなく、公同教会性に基づく普遍性としての世界化を指している。教会が聖霊の力に支えられ、文化・言語・民族を越えて福音を告げ知らせることが重要なのだ。実際に、彼の教団からは多くの宣教師が各大陸へと派遣され、現地の教会との協力や神学校の設立、リーダー育成などを行ってきた。 ではポストモダンの21世紀において、いかに宣教を展開していくべきか。張ダビデ牧師は以下のような原則を示す。 福音の本質を守ることが最優先コロサイ教会に入り込んだ偽りの教師たちのように、現代でも異端やカルト、さらには世俗の価値観が教会を混乱に陥れる可能性がある。だからこそ教会の指導者たちは、講解説教や教理教育によって、信徒が「イエス・キリストの主権」と「十字架の贖い」の核心をしっかり掴むよう導かなければならない。 文化的柔軟性を持つこと初代教会も異邦人伝道の際、ユダヤ律法をどこまで適用するか、どこを免除するかを慎重に検討し(使徒の働き15章)、福音の本質を損なわない範囲で柔軟な対応を図った。現代の宣教師も文化や慣習を頭ごなしに否定するのではなく、受容可能な要素を認め尊重し、福音のエッセンスを伝達すべきだ。その際、教会同士の連合と祈りの力が大きな助けとなる。 デジタル時代のツールを積極的に活用するSNSやオンライン礼拝、メディア伝道などは、地理的距離を超えて福音を広める有力な手段となる。張ダビデ牧師はこれを「現代版ローマの道」と比喩する。パウロがローマ帝国の道路網を使って福音を携え広範囲に移動できたように、今日の教会もデジタル・インフラを福音伝播に大いに生かすべきだというわけである。 張ダビデ牧師の世界宣教ビジョンの根底には、「教会は礼拝しつつ内部で自己完結する共同体ではなく、絶えず派遣される共同体でなければならない」という信念がある。アンテオケ教会がバルナバとパウロを手放したように、健全な教会は有能な人材を内部だけに囲い込まず、彼らを世に送り出して福音を広め、弟子を養成できるよう支援すべきなのだ。これは時に教会の規模拡大と相反する側面があるものの、張ダビデ牧師は「神の国の視点から見れば、こうした派遣と分かち合いこそ真の『教会開拓精神』であり、結果的に教会をいっそう豊かにする道である」と主張する。 さらに、この宣教ビジョンを具体化するために欠かせないのが、祈りと感謝である。張ダビデ牧師は、言語や文化が異なる教会同士が連携し、地理的に離れたコミュニティを継続して祈りで支えるとき、その祈りが強固な霊的ネットワークを築くと考えている。これは初代教会がエルサレムやアンテオケ、小アジアの諸教会へ分散しながらも、一つの体として連動できた根幹的な理由の一つでもある。パウロが書簡のたびに「いつもあなたがたのために祈り、感謝している」と述べているのは、教会間の霊的結束と公同教会性を支える最も強力な手段が、祈りと感謝であることを示す証拠と言えよう。現代においても教会間協力や宣教連合を進めるには、この霊的原理が不可欠であると張ダビデ牧師は強調する。 総括すれば、張ダビデ牧師が展開する世界宣教論は、アンテオケ教会の歴史的モデルとコロサイ書の神学的洞察を結合して、21世紀の教会が目指すべき道筋を具体的に示すものである。教会は全世界へ福音を届けねばならないが、そこに至る前提として、聖霊の強い働きと教理的安定、公同教会性に基づいた連合、そして祈りと感謝の生活が欠かせない。これらの要素を軽視したり、いずれかだけに偏ってしまえば、宣教は歪められたり一過性のイベントに終わってしまうおそれがある。しかし、アンテオケ教会が歩んだ軌跡、コロサイ書が示す教理の基盤、そして現代においてこれを実践しようと努めてきた張ダビデ牧師のビジョンを合わせて見るならば、教会は本質を守りつつ、文化的・デジタル的変化を柔軟に受け入れ、さらに広範囲へ福音を拡張できるはずだ。 加えて、張ダビデ牧師は「福音を宣べ伝える」とは、人生全体を通じての「献身」であると断言する。福音は教会の中だけで「聞いて学ぶ教え」ではなく、教会の外にこそ具体的に適用される価値観と行動様式であるべきだというのだ。イエス・キリストの愛と真理が職場や家庭、社会のあらゆる領域で可視化されるとき、人々は教会を見て「彼らの語るイエスとは何者なのか? なぜこれほど生活を変える力があるのか?」と疑問を抱き、その「聖なる好奇心」が新たな宣教の扉を開く。教会が内向きの満足に陥らず、外へと福音を流し出す時、初代教会のアンテオケがそうであったように、韓国教会もまた21世紀のアンテオケとして再出発し得ると、張ダビデ牧師は強い期待を寄せる。 最終的に、張ダビデ牧師が思い描く教会像を要約すると、「聖霊に燃やされる霊性、ただイエス・キリストを見上げる教理的確信、すべての教会が一体であることを認める公同教会性、そして地の果てまで福音を携え出ていく宣教使命を同時に追い求める共同体」と言える。どの時代においてもそれは困難で挑戦的な道のりだが、初代教会がすでにその道を切り拓き、コロサイ書などの書簡が明確な神学的ガイドラインを示している。張ダビデ牧師は、アンテオケ教会の精神とコロサイ書が告げる高いキリスト論を深く黙想しつつ、この世のただ中で福音の力を体現する聖徒を育てることこそ、自身の使命だと公言する。 これまで33年にわたって教団を率い、多くの教会を開拓し、海外宣教の現場でも活動を重ねてきた経験は、彼の語るビジョンが単なる理念や理論ではなく、実際に検証されてきた牧会哲学であることを裏付ける。世界各地に派遣された宣教師たちが福音を宣べ伝え、教会同士が連合して祈り合い、信徒たちがそれぞれの場所で献身を続ける時、アンテオケ教会が体現していた「聞き、悟り、実を結ぶ」福音の循環が、21世紀にも再現できることを証明している。そして、それは張ダビデ牧師が絶えず唱えるスローガン――「恵みを悟り、それを広める人生」――にもぴったり重なるものである。 まとめると、アンテオケ教会の精神とコロサイ書が示す教理の柱、そして世界宣教へ向かう具体的ビジョンを一体化させた張ダビデ牧師の歩みは、複雑な現代の韓国教会に明確な方向感を与えてくれる。教会が教会らしくあるためには、まず聖霊の感動と福音の真理が躍動していなければならない。その土台の上で祈りと感謝があふれ、信徒一人ひとりが自らの召しを認識し、世のただ中で献身の姿を示すとき、教会はアンテオケ教会のように公同教会の連帯を築きながら、全世界へと福音を運ぶ能動的な宣教共同体へと変容し得る。これこそが張ダビデ牧師の根本的なメッセージであり、彼が教会開拓と世界宣教を通して成し遂げようとしているゴールでもある。

The Spirit of the Antioch Church – Pastor David Jang

1.The Spirit of the Antioch Church The Antioch Church is regarded as a pivotal model in Christian history. Through the Book of Acts and the Epistles, we discover the distinct identity of the Antioch Church—setting it apart from the Jerusalem Church—particularly how it served as a genuine launch point for Gentile missions. In a city … Read more

안디옥교회의 정신 – 장재형목사

1.안디옥교회 정신 안디옥교회는 기독교 역사에서 빼놓을 수 없는 중요한 본보기로 간주된다. 사도행전과 서신서들을 통해 우리는 예루살렘교회와 구별되는 안디옥교회의 독특한 정체성을 발견하게 되는데, 그 특징 중 하나가 바로 이방 선교의 본격적 출발점이 되었다는 점이다. 유대인뿐 아니라 헬라인과 여러 이방인이 공존하던 이 도시는 복음이 국제적·다문화적으로 확장되는 결정적 기폭제가 되었고, 여기서 ‘그리스도인’(행 11:26)이라는 명칭까지 처음으로 사용되었다. 이러한 안디옥교회 … Read more

Bâtir l’Église avec amour et ordre – Rev. David Jang

Introduction : L’époque du Saint-Esprit et le contexte de l’Église primitive Le pasteur Jang Jae-hyung, en expliquant le chapitre 14 de la première épître aux Corinthiens, décrit d’abord le contexte historique et culturel de l’Église primitive. À cette époque, l’Église ne disposait pas encore d’une théologie solidement établie, d’une organisation ecclésiale traditionnelle, ni d’un canon … Read more

愛と秩序によって教会を築く- 張ダビデ牧師

序論:聖霊の時代と初代教会の背景 チャン・ジェヒョン(장재형)牧師はコリント人への第一の手紙14章を解説するにあたり、まず初代教会の歴史的・文化的背景を示している。当時、確立された神学体系や伝統的な教会組織、また確定した新約聖書正典はまだ存在していなかった。信徒たちは家の教会(ハウスチャーチ)で集まり、礼拝の順序や形式も現代のように定式化されていなかった。この柔軟な環境は、聖霊の賜物や超自然的現象が教会内で自由に現れる土壌となった。 パウロがコリント前書12~14章で霊的な賜物の使用について詳述した理由は、豊かな霊的体験がしばしば秩序なき混乱を招く可能性があったためである。たとえば、使徒行伝2章に見られるペンテコステにおける聖霊降臨と多様な言語での発話(異言)は、聖霊の強力な臨在と福音宣教のしるしとなった。しかし、コリント教会のように秩序なく乱用されると、共同体全体に混乱をもたらすことがあった。 チャン・ジェヒョン牧師は、このような状況の中で、パウロが示す原則—「愛と秩序」—が今日でも重要であると強調する。聖霊の時代はすでに開かれており(ヨエル2:28参照)、今や老若男女、身分を問わず誰でも聖霊の賜物を受けることができる。これは教会共同体が人間的慣習や理性に閉ざされず、神の超越的な導きの下に生きる信仰共同体であることを意味する。 1. 異言と預言の基本的性格 パウロはコリント前書12~14章で多様な霊的賜物に言及している(1コリント12:4「賜物は種々あるが、御霊は同じである」)が、特に14章では異言と預言を対照的に扱う。チャン・ジェヒョン牧師はこの対比を通して、両者の基本的性質を明確にしている。 (1) 異言(Tongues) 異言は人間の理性を超えた霊的言語であり、語る者と神との深い交わりに焦点がある(1コリント14:2)。異言によって信徒は長時間祈り、霊的感覚を研ぎ澄まし、神との親密な関係を築くことができる。これは徹夜祈祷や長期的なとりなしの祈りで大いに役立つ。また、異言は不信者や初来会者にとって「ここで神が生きて働いておられる」という印象を与えるしるし(1コリント14:22)となり、教会が単なる宗教的集まりでなく超自然的な臨在の場であることを示す。 しかし、異言はそのままでは意味が伝わりにくく、共同体全体を直接的に建て上げるには限界がある(1コリント14:4)。それゆえ、パウロは公の礼拝における異言の使用を制限し、通訳者がいる場合のみ許可することで(1コリント14:27-28)、共同体に有益となるような秩序を示している。 (2) 預言(Prophecy) 預言は神のメッセージが人々に直接与えられる賜物である。預言者は神の御心を明らかにし、教会共同体や各信徒を建て上げ、勧め、慰める働きをする(1コリント14:3)。こうして預言によって共同体全体が神の御心を悟り(1コリント14:24-25)、霊的に成長する助けとなる。 パウロは特に預言を熱心に求めるよう勧めている(1コリント14:1)。なぜなら、預言はすべての人が理解できる言語で神の御旨を伝えるため、不信者や霊的に未熟な者もメッセージを聞いて悔い改め、変わる道へと進むことができるからである。共同体の一致、教理的成長、霊的成熟は預言を通して豊かにされる。 2. 異言と預言使用に関するパウロの指針:愛と秩序 パウロは13章で愛のない賜物の虚しさを強調した後、14章で賜物を具体的に運用する原理を示す。その核心は「愛と秩序」である。愛を土台として賜物を用いれば教会が建てられ、秩序によって賜物は礼拝全体で調和をもって表される(1コリント14:40)。 (1) 愛による賜物の運用 コリント前書13章は、すべての賜物の土台が愛であることを強調する。愛は共同体の益を求め、賜物を誇示や優越性誇示の道具にすることを防ぐ。異言と預言の両方とも、愛のうちに用いられるとき、初めて教会を建て上げ、成長をもたらす実を結ぶ。 異言は個人の霊的成長には有益だが、公の礼拝で他者を排除する形で用いてはならない。同様に、預言も愛をもって伝えるとき、勧めと慰めを与え、公義による回復をも可能にする。たとえ罪を責める場合でも、愛の中で行われる賜物は最終的に相手を立ち直らせ、回復へと導く。 (2) 秩序の重要性 パウロはコリント教会に蔓延する無秩序を懸念し、賜物が乱舞しても適切な順序と規律をもって行われるように勧める(1コリント14:33,40)。異言は通訳者がいなければ神に対してだけ語るべきであり(1コリント14:28)、預言も2、3人が順番に語り、他の者がそれを吟味できるようにする(1コリント14:29-31)。 このような秩序は混乱を防ぎ、メッセージを明確にし、参加者全員が理解し共感できる環境を整える。賜物の目的は単なる超自然的体験ではなく、教会を建て上げ(1コリント14:12)、神に立ち返らせることである。 3. 異言と預言の益:個人と共同体双方の成長のために チャン・ジェヒョン牧師は、異言と預言がともに聖霊から来る貴重な賜物であり、個人と教会全体の益になると語る。ただし、常に「愛と秩序」の原則を前提としなければならない。 (1) 異言の益 異言は信徒の霊的生活を深め、祈りの幅を広げる。理性的言語の限界を超え、神と霊的に交流することで、信徒は内面が強められ、祈りに満ちた性質を身につける。また、異言は不信者にとって神が生きている証として作用する。 しかし、通訳なしの異言は共同礼拝における理解と共感を制限する。そのため、異言は個人祈祷や通訳者を通じて公の礼拝に活用するなど、秩序だった運用によって教会全体にも益をもたらすことができる。 (2) 預言の益 預言は神の御心を教会に直接伝え、霊的分別力や成長、慰め、回復を可能にする。預言者が建て上げる言葉を伝えるとき、教会全体は神の声をより明確に聞き、自らの罪や弱さを悟って神に立ち帰る契機となる(1コリント14:24-25)。愛をもって伝えられる預言は、悔い改めと成熟、変化と希望への道を開く。 4. 礼拝の多元性と共存:霊的体験の調和 初代教会の礼拝は、特定の牧会者や説教者だけがメッセージを述べるのではなく、様々な賜物を持つ信徒たちが参加し、ダイナミックな環境を作り出した。これは聖霊の自由な働きを支える風土であった。しかし、パウロはこの自由の中にも基本的な秩序を強調する。過度な形式主義も完全な無秩序も避けるべきである。 現代の教会も同様である。主日礼拝は整理された順序と明確なメッセージによってすべての信徒が神の御旨を受け取りやすくし、週中の祈祷会や特別集会では、より自由な形式を取り入れ、異言や預言を含む多様な賜物が発揮される環境を整えることができる。その際も愛と秩序は不変の指針となる。 5. 不信者と信者の双方への証し:異言と預言の目的 パウロは異言が不信者に対するしるしになりうると述べている(1コリント14:22)。これは超自然的現象を通して不信者が神に関心を抱き、立ち返るきっかけとなる。一方、預言は主に信者を建て上げるが、不信者もそれを聞いて内なる罪を明らかにされ、神にひれ伏す体験をする可能性がある(1コリント14:24-25)。 このように、異言と預言は不信者と信者の双方に神の実在を示す証しとなる。ただし、その活用には通訳、分別、検証といったプロセスが求められる。ここでも愛と秩序の原則が必要となる。 6. 結論:異言と預言、愛と秩序によって教会を建て上げる賜物 チャン・ジェヒョン(장다윗、オリベット大学設立)牧師の説教で強調される核心は次の通りである。 (1) 異言と預言を含む賜物は、聖霊が与えた尊い贈り物である。 (2) これらの賜物によって神との直接的交わりが可能となり、教会共同体を建て上げ、不信者にも神の実在を示すことができる。 (3) 賜物の本来の目的は教会を建て上げ、愛の中で成長させることである。 (4) パウロが示した「すべてを適切に、秩序をもって行え」(1コリント14:40)という原則は今日でも有効である。 … Read more

Building the Church with Love and Order – David Jang

Introduction: The Era of the Holy Spirit and the Early Church Context As Pastor Jang Jae-hyung explains 1 Corinthians 14, he first presents the historical and cultural background of the early church. At that time, there was no fully established theological system, traditional church organization, or finalized New Testament canon. Believers met in house churches, … Read more

Edificando la iglesia con amor y orden _ David Jang

Introducción: La era del Espíritu Santo y el contexto de la iglesia primitiva Al explicar 1 Corintios 14, el pastor Jang Jae-hyung presenta primero el trasfondo histórico y cultural de la iglesia primitiva. En ese tiempo, la iglesia no contaba con un sistema teológico plenamente desarrollado, una organización eclesiástica tradicional ni un canon del Nuevo … Read more