Réalisez l’espérance du Seigneur – Pasteur David Jang

1. Les conflits et la réconciliation au sein de l’Église, et la voie vers l’unité en Christ Dans tout le chapitre 15 de l’Épître aux Romains, l’un des thèmes les plus marquants concerne cette question : « Comment résoudre les conflits au sein de la communauté ecclésiale et avancer vers la réconciliation ? » L’apôtre … Read more

成就主的盼望 —— 张大卫牧师

1. 如何化解教会内部的冲突并在基督里合而为一 在《罗马书》第15章中,最核心的主题之一就是“如何解决教会群体内部产生的冲突,并通过和解走向合一?”使徒保罗针对因不同观点而冲突、彼此对立的弟兄姊妹,强烈劝勉说:“彼此接纳,合而为一,好成就主的盼望。”即使在当今时代,教会内部仍然存在无数冲突案例,比如神学观点的分歧、教会运营方式的碰撞、保守思维与进步思维之间的差异等等。保罗强调,教会绝不可让这些冲突呈现出比世俗社会更丑陋的局面。这与教会“在众人中被拣选而召集,形成的圣徒群体”这一身份认同密切相关。 张大卫牧师常常提及教会的“圣洁身份”。他认为,教会在上帝拯救世人的计划中,一方面是“被分别出来”的(separated),另一方面又肩负着去爱、去服事世界的使命。假如教会无法成为世人的榜样,反而成为福音的绊脚石、遮盖上帝荣耀的存在,那就违背了教会存在的根本目的。尤其是当冲突出现时,张大卫牧师多次强调要拥有“基督的心”,即跟随主所教导的“不是以自我为中心的喜乐,而是为弟兄着想的爱之喜乐”。只有如此,教会群体才能展现出比世上任何组织都更透明、更充满爱、更具属灵清洁的面貌。 在保罗给罗马教会群体的种种劝诫中,有关“强者与弱者”关系的教导(罗马书14~15章)特别关注教会的和解与合一,以及不同信心水平的肢体之间如何彼此体谅、爱护和帮助。保罗指出,“信心坚固的人”绝不可以轻视或忽略“信心软弱的人”(罗15:1)。相反,坚固的人应当担当软弱之人的软弱。这不仅是道德上的劝勉,更是由于我们要效法基督的榜样。耶稣基督从来不拒绝罪人,反而常常主动接近他们,并以仆人的姿态服事他们,而且在服事中体验到喜乐。这喜乐并非世俗的自我满足,而是“在拯救、建立他人的过程中”所得到的“天上的喜乐”。 张大卫牧师也常引用《约翰福音》第15章,强调只有当我们真正明白主对我们的爱时,才能走上“真正的爱之路、彼此接纳的喜乐之路”。这正契合耶稣所说的“要叫我的喜乐存在你们心里,并叫你们的喜乐可以满足”(约15:11)。换言之,唯有通过彼此相爱而获得的喜乐,才能成为教会真正的力量来源。 如果教会无法在内部实践这种爱的喜乐,那么分裂的危机便会随即而至。保罗之所以提醒罗马教会“你们要回到神的话语,记得基督,记得祂曾忍受一切凌辱”(参罗15:3-4),就是这个原因。如果基督曾背负各种侮辱和罪人当受的罪责,以此彰显爱,那么在教会发生冲突时,弟兄姊妹也应当回顾“基督在救赎历史中展现的爱”,而不是坚守“自我中心的判断”。只有这样,教会中的不和与裂痕才能被医治,并能够生出彼此包容和接纳的力量。 张大卫牧师常常重复说:“教会应当通过上帝的话语、在圣灵赐下的‘忍耐与安慰’中抓住盼望(罗15:5),并因此能‘同心合意、同口’荣耀上帝。”如果教会的读经与聚会只停留在表面形式,那么冲突依然难以解决;唯有透过深深默想主的榜样,并把祂“十字架的爱”真正应用在我们日常生活中,才能克服分裂,实现合一。这正是教会内部化解冲突的必经之路。当每位成员都意识到“我们因基督的缘故蒙受恩典,并且都欠着祂的债”,冲突的锋芒才会被放下,彼此接纳的大门才会真正打开。 然而,想要让这种理想的教会面貌真实地呈现,需要每一个信徒“悔改”和“倒空自己”。正如圣经所言,“罪在哪里显多,恩典就更显多”(罗5:20),冲突越大,就越需要更深的悔改与更大的饶恕。这时,当教会彼此认罪:“我们都是罪人”,并向神恳求恩典时,那堵在人心之间的高墙就会被拆毁,教会也能经历真正合一的奇迹。 保罗说:“你们就能同心合意、同口赞美和见证主。”其中所描绘的,是一个团体共同朝向同一个方向、只寻求上帝荣耀的画面。拥有不同背景、文化、性格、恩赐的人,能在耶稣里合而为一,这种奥秘正是教会成为“教会”的核心。张大卫牧师也在多次讲道中提到:“当教会握住因耶稣而有的盼望,就能充满世人无法给予的平安与喜乐。”这个信念与《罗马书》15章13节所宣告的祝福直接呼应:“但愿赐盼望的神,因信将诸般的喜乐和平安充满你们的心……”(参罗15:13)。 要想克服教会内部的冲突,首要的就是彼此的体谅与忍耐。“你们当中是否存在冲突?是否有争执?那就先在主的话语面前审视自己的态度和心思吧。”简而言之,这就是保罗劝勉的核心。张大卫牧师也强调,若处在冲突中,就该先自我反省:“我对待这个问题时,真是怀着基督的心吗?”冲突的最终解决之道是“在主里合一”。当原本对立的双方都仰望主的旨意,并在神的话语光照下谦卑自己时,真和解的契机就会涌现。虽然这条道路并不容易,却是教会迈向圣洁群体、必须经历的关键旅程。 最后,保罗在这一章反复劝勉不同背景、不同传统的群体:“要包容那软弱的,坚固的要服事软弱的,并为他人的喜乐舍己”,效法基督的生命。这绝非单纯“和睦相处”的道德号召,而是教会向这世代彰显天国的根本伦理。教会理应与世俗有所不同,因为教会的主人是基督,也因基督在我们中间动工,这才使教会得以成为“圣洁的群体”的根基与柱石。 2. 彼此担当软弱之人的重担,成为包容外邦人的爱之共同体 在《罗马书》15章开篇,保罗郑重指出:“我们坚固的人应该担待不坚固之人的软弱,不求自己的喜悦”(罗15:1)。这段简短的经文,为教会提供了非常具体的实践准则:彼此顾念与互相体谅,才是教会最基本的样貌。然而,在冲突之中常见的情景却是“强者欺压弱者”,或是“彼此抬高声音、互相轻视”。保罗提出的教会图景却恰恰相反——这是一个彼此分担重担、“同哭同乐”的群体。 张大卫牧师在引用这处经文时强调:“若我们心中真正拥有耶稣的心,当看到弟兄姊妹的软弱时,就会先生出安慰之情,而不是定罪。”他也指出,“若不是只顾取悦自己,而是努力让他人得喜乐,就会产生一种相反却更深邃的属灵喜乐。”这点格外重要,因为人性本能地倾向自私,一旦遭遇困难就很容易缩回自我中心。然而在信仰群体中,透过彼此的爱心付出与体谅,我们能一起享受从天而来的喜乐。 接着,保罗用耶稣基督本身作为榜样。主耶稣“不求自己的喜悦”,反而背负了世人的侮辱与责难(罗15:3)。这正是十字架道路“爱的牺牲”之最佳诠释。正如《约翰福音》15章12~13节教导的:“你们要彼此相爱,为朋友舍命的爱,没有比这更大的了。”耶稣的言行本身就见证了这话语。保罗也认为,这样的原则同样适用于教会内部:为弟兄、为姊妹,甘愿承担属于自己的那份牺牲,这才是真正的爱。通过这样的爱,我们也能尝到“世人无法理解的喜乐”。 这里要注意的另一重点是“接纳外邦人”(罗15:7~13)。在当时,犹太人与外邦人之间的冲突相当严重,并且由来已久,无论是在割礼问题、律法遵行问题,还是在传统习俗上,都存在诸多不和。但保罗清楚指出:“所以你们要彼此接纳,如同基督接纳你们一样,使荣耀归于神”(罗15:7)。保罗也确信,他的使徒职分就是“为外邦人传福音”(罗15:16)。他胸怀从耶路撒冷直到万邦的异象,期待福音传遍天下。 张大卫牧师也在多次讲道中强调:“神的国度超越国界与民族的藩篱。”他说,犹太人与外邦人之间的隔阂被打破,正是教会史上的重大转折。即使在今天,因种族、文化、语言、经济背景等因素,教会中依然会产生冲突,但在基督里,这些隔断之墙早已倒塌,因此我们应当“以更宽广的胸襟”去接纳他人。这种外邦人包容并不仅仅是保罗当时代的议题,而是教会始终都需思考的持续性挑战。只有当我们敞开心扉,接纳周围那些在文化或社会层面被视为“他者”的人,并能与他们一同敬拜,教会才真正实现了普世福音的精神。 保罗在此也引用了多处旧约先知预言与诗篇,宣告“上帝从起初就定意让万国都来赞美祂”(罗15:9~12)。换言之,上帝的拯救范围并不局限于某一个民族或地区,而是广及万国万民。《以弗所书》2章也明确表示:“祂拆毁了中间隔断的墙,使双方合而为一”(参弗2:14)。无论是犹太人还是外邦人,都在耶稣基督里联结成一体。教会正是那“实现合一福音”的地方。 因此,“信心坚固的人”更应该谦卑自己,接纳那些“软弱的人”和拥有不同背景的人。差异固然会成为冲突的诱因,但绝不该成为敌视或排斥的理由。相反,差异可视作丰富多彩的机会,通过彼此的学习与补足来共同成长。保罗提出,这才是“爱之共同体”应走的道路;唯有如此,才能让那“世上无法给予的真喜乐和平安”降临到群体当中(罗15:13)。 张大卫牧师也指出:“今天的教会若要真正内化基督在救赎历史中所体现的爱,并对世上一切‘外邦人’(指尚未听闻福音者、或者在文化上被孤立的人)承担宣教使命,就必须先在内部实现‘彼此服事’并‘打破仇恨之墙’的努力。”此处所说的“爱”既包括对外部世界的“外邦人”,也包括教会内部各类被边缘、被忽视、受伤或因不同见解而遭排斥的人。当教会接纳所有这些群体为“一体”时,冲突往往自然得到化解,合一的喜乐也随之变得更为深厚。 此外,保罗还强调,这个“爱的共同体”要通过“感谢与赞美”而更加凝聚。《罗马书》15章9~12节中引用的诗篇和以赛亚书,正是宣告“万邦都要感谢与赞美神”的未来图景。教会存在的本质就是要充满感恩与赞美。一个真正怀有感恩之心的群体,几乎不会有时间去滋长仇恨与纷争。用赞美来荣耀神的灵魂,也不会浪费精力去揪住他人的缺点,而是会彼此代祷、彼此帮助。那时,教会就会被“恩典与平安”所充满。 于是保罗在这一段最后,宣告:“但愿那赐盼望的神,因信将诸般的喜乐和平安充满你们的心,使你们藉着圣灵的能力大有盼望”(罗15:13)。正如张大卫牧师所言,“教会真正的盼望唯独在于上帝的恩典,而当教会拥有‘合一的异象’时,神的恩典就会以最强大的方式彰显。”无论是软弱与坚固,抑或犹太人与外邦人,乃至于当代教会中拥有各种背景的人,都要凝聚成一个整体,一同向神献上荣耀。这样的图景正是保罗所期盼的教会未来,也同样适用于当今时代,是教会不可或缺的使命。 3. 保罗的见证、前往耶路撒冷的计划,以及为圣徒合一所做的代祷 在《罗马书》第15章后半部分(14~33节),保罗向罗马教会说明了自己迄今为止的事工,也谈及未来打算,以及盼望他们为此代祷的具体请求。这实际上是《罗马书》漫长论述的结尾部分,也展现了保罗深沉的牧养与宣教热忱。 首先,保罗宣告自己是“为外邦人作基督耶稣执事”,担当了福音祭司的职分(罗15:16)。他自豪地提到,福音从耶路撒冷起步,经小亚细亚广大区域传扬,最终触及罗马边境伊利里贡(今巴尔干半岛)附近,这都是他努力的成果。然而,他并不想夸耀自己,而是“惟以基督借我所做之事夸口”(罗15:17-18),即归功于主的恩典。保罗在《哥林多后书》4章5节也曾表明类似立场——“我们并不是传自己,乃是传基督耶稣为主”,这充分展现了他宣教事工的动力与初心。保罗始终存着“要把福音带到尚未听过的地方”的拓荒精神(罗15:20-21)。 张大卫牧师在讲解这段经文时指出:“宣教的本质,并非只在他人已耕耘的田地上安逸地停留,而是要勇于进入新的地区、新的人群、尚未听闻福音的灵魂之中。”若要教会真正保持活力与生命力,就必须不断保持这种“开拓者(pioneer)的精神”,去拓展新的“外邦之地”。在现代社会,这些“外邦之地”不一定单指地理位置,还可能包括网络空间、高科技交流平台、多元文化环境、以及那些被社会与精神层面忽略或排斥的群体等。教会应当勇于向这些领域播撒福音的种子,肩负神圣的挑战。 当我们阅读《罗马书》时,也会发现保罗对“耶路撒冷母会”相当看重。虽然他写信时位于哥林多地区,但却计划先回到耶路撒冷“供给圣徒”(罗15:25-26),然后才前往罗马。因为耶路撒冷的弟兄姊妹正遭受严重饥荒之苦,保罗需要把马其顿和亚该亚等外邦教会捐献的捐款送到那里。保罗对耶路撒冷教会的这番付出与关注,体现了他对“教会合一与一致性”的深切重视。教会一方面要向普世传扬福音,拥有宣教向外扩散的离心力;另一方面又要保持与耶路撒冷母会的紧密联系,保持内在的向心力。 张大卫牧师将这一点概括为“合一与次序”。各地教会虽然分散独立,却需要在主所设立的教会系统里维系“同一身体”的灵里及组织上的合一。保罗居间调解外邦教会与耶路撒冷教会之关系,并送上捐款,这并非单纯的经济往来,更是“同属一个身体的教会彼此服事、彼此鼓励”的象征。保罗说:“若外邦人分享了犹太人属灵的好处,就当在物质上供给他们”(罗15:27),这彰显了教会彼此欠债的属灵意识。 随后,保罗表示:“等我办完了这事,把这捐资交付妥当,就要路过你们那里,往西班牙去”(罗15:28-29)。可以看出,他心怀世界性宣教的远大抱负,也燃烧着对普世敬拜的盼望。他想把福音延伸至更远的西方(西班牙),期盼有朝一日能在万国万民中间,迎来“万民敬拜上帝”的盛大景象。 在结束书信之前,保罗特别向罗马教会提出了三个具体祈求(罗15:30-32)。其一,“求主使我在犹太地不信从的人手中得蒙拯救。”当时保罗在犹太地区受到热心党(Zealots)及犹太民族主义者的强烈反对与威胁,他所传扬的福音普世性与对律法的解释,很可能被视为离经叛道的言论,因而招致迫害。他急需教会在祷告中为他的安全代求。其二,“也求主使我带给耶路撒冷的供给能被圣徒悦纳。”也就是说,外邦教会的捐助与成果若想得到耶路撒冷母会的确认与接纳,教会整体必须更加稳固地合一,不可有分裂。其三,“盼望照着神的旨意,欢欢喜喜地到你们那里,同你们一起得安息。”这是他在艰苦宣教之余,对在罗马弟兄姊妹当中享受团契与同在的期待与渴望,也折射了保罗的真性情。 张大卫牧师将保罗这三个祷告请求的意义总结为“教会的合一与代祷”。教会要用祷告共同参与保罗面对的外部和内部挑战,并寻求神的保护与带领。同时,信徒也要在经济、属灵各方面彼此支持,在基督里互相鼓励与安慰,如此才能使“大使命”——即向万民传扬福音——得到更充分的发展。最后,保罗以“愿赐平安的神常和你们众人同在。阿们。”(罗15:33)祝福结束了罗马书第15章。他强调“赐盼望的神、赐平安的神”才是教会合一之根本,并宣告唯有依靠上帝,才能使我们彼此合一。 这一点在今日同样适用。尽管我们面对个人主义与世俗化的冲击,教会也有可能走向四分五裂,但我们的盼望仍在于“赐盼望的神”,我们的平安也仍由“赐平安的神”所赐。张大卫牧师总结说:“我们本质上是完全依赖上帝的子民,而上帝正是使我们合一的大能者,务要相信这真理。”当教会的内部冲突越演越烈,或者宣教面临更多阻力,我们就更不可停止代祷,而应在彼此帮助和服事之中,完成教会应尽的使命。 综观整章可见,保罗在《罗马书》15章里所传达的信息,至今对教会仍具备极大的现实意义。第一,当教会产生冲突时,要效法基督的爱,彼此忍耐并接纳对方。第二,信心坚固的人要担当软弱者的重担,并以宽广的胸襟包容外邦人或任何“不同”的群体。第三,效法保罗的榜样,在代祷与舍己的服事中,朝向“合一的教会”不断努力。张大卫牧师称这三项为“教会成为真正教会必须坚守的三大支柱”,因为正是这三大支柱支撑教会承担“世上的光和盐”的重大使命。 “那位呼召我们的主,必亲自成为化解冲突的中保,借着圣灵使我们同心合意、同口赞美上帝。”保罗的确信与历代传道者的宣讲,穿越时空地应验在每个教会群体之中。当我们诚心实践这些教导,教会就能成为彰显福音大能的真实器皿,彼此接纳,合而为一,共同成就主所赐的盼望与呼召。阿们。

主の望みを果たせ – 張ダビデ牧師

1. 教会内の葛藤と和解、そしてキリストにあって一つとなる道 ローマ書15章全体において最も重要な主題の一つは、「教会共同体の中で生じる葛藤をどのように解消し、和解へと導き、キリストにあって一つとなるのか」という点です。使徒パウロは、意見が分かれて衝突している兄弟姉妹に対して「互いに受け入れ合い、一つとなって主の望みを果たしなさい」と強く勧めています。今日においても、教会の中には多種多様な葛藤が存在しています。たとえば、神学的見解の違い、教会運営の方針をめぐる対立、保守的考えと進歩的考えなど、さまざまな理由で葛藤が生じます。しかしパウロは、そのような教会内の葛藤が世の中の争いよりも醜い姿を示してはならないと強調します。なぜなら教会は「世の人々の中から選ばれた者たちが呼び出されて形成された共同体」というアイデンティティと直結しているからです。 張ダビデ牧師は、このような「教会の聖なるアイデンティティ」をしばしば強調してきました。教会は世を救おうとされる神のご計画の中で、世から区別(separated)されながらも、同時に世に対する愛と仕える使命を担っている点が重要だというのです。もし教会が世の模範となることができなければ、かえって福音の障害となり、神の栄光を覆い隠す結果を招きます。特に張ダビデ牧師は、葛藤が起こる場面でこそキリストの御心を抱くことがいかに大切かを繰り返し説きました。「自己中心的な喜びではなく、兄弟のための愛の喜び」という主の教えに従うとき、教会共同体は世のどんな組織よりも透明で、愛にあふれ、霊的に澄んだ姿を示せるようになるのだといいます。 パウロがローマ教会の共同体に示した数多くの勧めの中でも、ローマ書14章と15章は「強い者と弱い者」の問題に言及し、教会の和解と一致、そして信仰の水準が異なる共同体の成員たちがどのように互いを配慮し、大切にし、助け合うべきかという具体的な指針を含んでいます。パウロは「信仰の強い者」が決して「弱い者」を軽蔑したり無視したりしてはならないと言います(ローマ15:1)。むしろ、強い者が弱い者の弱さを担いなさいと強く勧めます。これは単なる道徳的な勧告ではなく、キリストの模範に倣うべきという霊的な理由が背景にあります。イエスはいつも罪人たちを受け入れ、彼らに直接近づき、僕(しもべ)の姿で仕えることを示されました。そしてその仕えの中にこそ喜びがあると言われました。この喜びは、世が与える自己満足的な喜びではなく、他者を生かし立て上げる場所で得られる「天の喜び」なのです。 張ダビデ牧師もまた、ヨハネの福音書15章をしばしば引用しながら、「主が私たちに向けて示しておられる愛を悟ってこそ、真の愛の道、互いを受け入れる喜びの道へと入ることができる」と解説します。これは「あなたがたのうちにわたしの喜びがあり、それが満ちあふれるように」(ヨハネ15:11)というイエスの御言葉とも直接つながっています。つまり、他者を愛することによって得られる喜びこそが教会の真の力だ、ということです。 このような愛の喜びが教会の中で実現できないと、すぐに教会は深刻な内部分裂の危機に直面します。パウロがローマの信徒たちに「あなたがたは御言葉に立ち返りなさい。キリストを覚えなさい。主があらゆる辱めを耐え忍ばれたことを思い起こしなさい」と教えるのはこのためです。キリストがありとあらゆる侮辱や非難、そして罪人が負うべき罪責を代わりに背負われ、その愛を証明してくださったのですから、兄弟姉妹もまた葛藤が生じるとき、「自己中心的な判断」より「キリストの贖罪史的な愛」を思い起こすべきなのです。そのような姿勢こそが教会の不和を癒やし、互いを包み込む力となります。 張ダビデ牧師は「教会は常に神の御言葉を通して、御霊が与えてくださる『忍耐と慰め』(ローマ15:5)を握りしめなければならず、その忍耐と慰めによってついに『同じ思いと同じ口』をもって神をあがめることができる」と繰り返し強調します。すなわち、御言葉の黙想や共同体の礼拝が形骸化してしまうと葛藤解決は難しいけれども、実際に主の姿を深く黙想し、その「十字架の愛」を自分の生き方に適用するときにこそ、分裂を克服し、一つとなることが可能になるのです。これは教会内の葛藤を解消する際の必須のプロセスであり、すべての構成員が「私たちはキリストによって恵みを受けた者であり、主に負債を負っているのだ」と悟るその瞬間に、ようやく葛藤を下ろし、互いを受け入れる道が開かれます。 しかし、この理想的な教会の姿が現実の中で実現されるには、各信徒の「悔い改め」と「自己を空しくする」ことが伴わなければなりません。聖書に「罪の増し加わるところに恵みも増し加わる」とあるように、葛藤が大きいほど、さらに大きな悔い改めと許しが必要になります。このとき教会が互いに「私たちは罪人です」と告白しつつ、神の恵みを求めるならば、以前まで閉ざされていた心の壁が取り払われ、真の一致の奇跡を体験するようになるのです。 パウロはこう言います。「あなたがたは同じ思いと同じ口をもって主を賛美し、証しするようになる」。そこには、一つの共同体が同じ方向を見つめ、ただ神の栄光を追い求める姿が示されています。さまざまな背景、文化、性格、才能を持った人々がイエスのうちにあって一つに結ばれるというこの神秘こそ、教会が教会らしくあるための核心と言えるでしょう。張ダビデ牧師は「教会がイエスによる望みをしっかりと握るとき、世の与え得ない平安と喜びが私たちのうちに満ちあふれる」と説教します。この確信はローマ書15章13節の「望みの神が信仰によってすべての喜びと平安とをあなたがたに満たし…」という祝福の宣言とも直接結びついています。 教会内の葛藤を克服するには、何より互いに対する思いやりと忍耐が優先されなければなりません。「皆さんの中に葛藤がありますか? 争点がありますか? それならまず主の御言葉の前で自分の態度や心を点検しなさい」。パウロの勧めを要約すると、このようになるでしょう。張ダビデ牧師も葛藤の状況で、まず自分自身を振り返り、「私は本当にキリストの御心でこの問題に取り組んでいるのだろうか」と深く黙想することが必要だと教えます。葛藤の解決は究極的に「主にあって一つとなる道」です。対立する両者が共に主を仰ぎ、御言葉に照らされてへりくだるとき、そこに真の和解のきっかけが生まれるのです。この道は容易ではありませんが、聖なる共同体となるために必ず通らなければならない道であることを、私たちは心に留めるべきです。 結局パウロは、異なる見解や伝統を持つ共同体に対し「弱い者を受け入れ、強い者は弱い者に仕え、他者の喜びのために自分を犠牲にする」というキリストの生き方を繰り返し勧めます。これは単に「仲良くしましょう」という表面的な道徳的呼びかけではなく、教会がこの地上に神の国を完全に現すための根本的な倫理です。教会は世とは違わねばなりません。なぜなら教会の主はキリストであり、キリストが私たちのうちに働いておられるという事実こそが、教会を「聖なる共同体」として打ち立てる礎だからです。 2. 弱い者の荷を互いに担い、異邦人を受け入れる愛の共同体 パウロはローマ書15章の冒頭でこう力説します。「信仰の強い私たちは、信仰の弱い人々の弱さを担うべきであり、自分自身を喜ばせるべきではありません」(ローマ15:1)。この短い一節こそ、教会の具体的な実践指針であり、互いに配慮し合う姿勢こそ教会の基本的な姿だということを示します。葛藤が生じるとき、往々にして見られるのは、強い者が弱い者を押さえつけたり、互いに主張をぶつけ合って相手を無視したりする態度です。しかしパウロが示す教会の姿はまったく異なります。互いの荷をともに担う、まさに「共に泣き、共に笑う」共同体であるべきだというのです。 張ダビデ牧師はこの御言葉を引用しつつ、「私たちのうちにイエス様の御心がしっかり根を下ろすならば、兄弟の弱さを見たときに裁きよりも慰めが先に立つようになる」と説きます。さらに「自分自身を喜ばせることに没頭するのではなく、他者を喜ばせようと努めるときこそ、むしろ霊的な喜びに満ちあふれるようになる」という逆説的真理を提示します。これは大変重要な点です。なぜなら、人間は本来利己的な傾向が強く、少しでも困難なことが起これば自己中心的になりやすいからです。しかし信仰共同体において大切なのは、互いへの愛の献身と配慮を通して「天の喜び」を味わうことなのです。 あわせてパウロはイエスの模範を示します。イエスはご自身を喜ばせようとはなさらず、あらゆる侮辱や非難を代わりに背負われました(ローマ15:3)。これは十字架の道がまさに「愛の犠牲」を意味していることをはっきり示します。ちょうどヨハネの福音書15章12~13節で「互いに愛し合いなさい。友のために自分の命を捨てること以上の愛はない」と語られた言葉が、イエスの生き方によって証明されたように、パウロは教会共同体の中でも同じ原理が適用されるべきだと示唆します。兄弟のために、姉妹のために、喜んで自分の犠牲を負うことこそが真実の愛であり、そのような愛を通して「世が知らない喜び」を味わうのだ、とパウロは言うのです。 ここでさらに注目すべきは、「異邦人を受け入れる問題」です(ローマ15:7~13)。当時、ユダヤ人と異邦人との対立は非常に根深く重大でした。割礼の問題や律法遵守の問題、慣習や伝統など、互いに相容れない点が多かったからです。しかしパウロは「キリストがあなたがたを受け入れて神に栄光を帰したように、あなたがたも互いに受け入れ合いなさい」(ローマ15:7)と明確に命じます。パウロ自身も「異邦人に福音を伝えること」(ローマ15:16)が自分の使徒職の中心であると確信していました。彼はエルサレムから始まった福音が全世界へ、すなわちすべての国々へと広がっていくビジョンを抱いていたのです。 張ダビデ牧師は多くの説教で、「神の国は国境や民族的境界線を超越する」という事実を強調し、ユダヤ人と異邦人とを隔てていた壁が打ち壊された出来事こそが、教会史における大きな転換点だったと語ります。今日でも、人種、文化、言語、経済的背景の違いなどによって教会内で葛藤が起こる可能性がありますが、すでにキリストのうちにあってすべての壁は取り払われたのだから、私たちは「広い心をもって」他者を受け入れるべきだということです。このように異邦人を受容することは、単にパウロの時代の問題にとどまらず、いつの時代も教会共同体が取り組むべき継続的な課題です。私たちの周囲にいる文化的・社会的な「他者」を開かれた心で迎え入れ、ともに礼拝できるようになってこそ、教会は普遍的福音の精神を実践していると言えるのです。 パウロはこの問題に関連して、詩編やイザヤ書など旧約の予言を引用し、「神は最初から諸国民が主を賛美するよう計画されていた」(ローマ15:9~12)と力強く語ります。すなわち、神が救いを及ぼされる範囲は特定の民族に限られず、万国・万民を包括するということです。エペソ書2章でも「隔ての壁を打ちこわし、両者を一つにされた」(エペソ2:14)と宣言し、ユダヤ人であれ異邦人であれ、イエス・キリストのうちにあって一つにつながっているという真理を伝えます。教会はまさに「一つにする福音」を実践する場所であるべきなのです。 それゆえ、信仰の強い者たちは自分を高ぶらせるのではなく、弱い者や背景の違う人々を積極的に受け入れなければなりません。互いの相違点がときに葛藤を生むことがあっても、その違いを敵意や排除の理由とするのではなく、むしろ豊かな多様性の機会と捉え、互いに学び合い、成長していく道を模索すべきなのです。パウロはこれこそ「愛の共同体」が進むべき道であり、そうすることでこそ世にはない真の喜びと平安が共同体の内に訪れると語ります(ローマ15:13)。 張ダビデ牧師は「今日の教会がキリストの贖罪史的な愛を自らに体現し、この地のあらゆる異邦人(つまり、まだ福音に触れていない人々や文化的に疎外された人々)に対する宣教の使命を果たす道は、まず内部において『互いに仕え合い』、『憎しみの壁を打ち壊そうと努める』ことから始まる」と説きます。愛の対象は外面的な意味での異邦人だけでなく、教会内部にいる疎外された人、弱い人、心を痛めた人、あるいは意見の相違によって疎外されがちな人々も含まれます。そうしたすべての人々を「一つの体」として迎え入れる過程の中で、葛藤は自然と克服され、より大きな一致の喜びが訪れるのです。 さらにパウロは、この愛の共同体が「感謝と賛美」という言葉を通じて結束すると強調します。ローマ書15章9~12節に引用される詩編やイザヤ書の節々は「諸国民が神に感謝と賛美をささげる未来」を歌っています。結局のところ、教会の本質とは感謝と賛美に満ちていることです。本当に感謝する心があるならば、憎しみや紛争を増幅させる余地はありません。賛美によって神を崇める魂は、兄弟の欠点をあげつらうよりも、互いのために祈り合い、助け合う道を探します。そうして教会は「恵みと平安」に満ちあふれるようになるのです。 最終的にパウロは「望みの神が信仰によってすべての喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださるように」(ローマ15:13)という祝祷の言葉でこの部分を結びます。これは張ダビデ牧師の言葉を借りれば、「教会の真の希望はただ神の恵みにかかっており、その恵みは『一つとなるビジョン』のうちで最も力強く働く」という事実をよく示しているのです。弱い者と強い者、ユダヤ人と異邦人、そして現代の教会においてもさまざまな背景を持つ人々が皆、一つの共同体として結ばれ、神をあがめる姿こそが、パウロが思い描いていた教会の未来であり、今も変わらず教会の使命として有効なのです。 3. パウロの証し、エルサレム訪問、そして聖徒の連合のためのとりなしの祈り ローマ書15章後半(14~33節)は、パウロがローマの信徒たちにあてた手紙を締めくくりつつ、自分がどのような働きをしてきたのか、今後どんな計画を抱いているのか、またどのような祈りの課題を持っているのかを示す部分です。事実上、ローマ書全体の長い結論部であると同時に、パウロ自身の牧会的・宣教的情熱が表出している箇所です。 まずパウロは自らが「異邦人のためのキリスト・イエスのしもべ」であり、福音の祭司の務めを担っていることを宣言します(ローマ15:16)。彼はエルサレムから始まった福音を小アジア一帯に広め、さらにローマの国境地域であるイルリコン(現在のバルカン半島近辺)にまで伝わるよう献身してきたことを誇らしげに語ります。しかし、これは自分の業績を誇示する意図ではなく、「ただキリストが与えてくださった恵みによるのだ」という点を繰り返し強調するためです(ローマ15:17~18)。使徒パウロは「私は自分を宣べ伝えるのではなく、ただキリスト・イエスを宣べ伝えるのです」(第二コリント4:5)と語ったときと同じ姿勢を貫いています。このようにパウロの宣教的情熱は、「まだ一度も福音が伝えられていない場所」に福音を伝えようとする開拓精神から生まれます(ローマ15:20~21)。 張ダビデ牧師はこの箇所を取り上げ、「宣教とは、すでに誰かが福音を伝えて基盤を築いた場所に安住するのではなく、新しい地域、新しい人々、まだイエスを知らない魂へと出向いて行くことにその本質的意義がある」と解説します。教会が本当に生き生きしていてダイナミックであるためには、常に「パイオニア精神(pioneer spirit)」をもち、「新たな異邦の地」を切り拓く必要があります。もちろん現代社会において、その「異邦の地」は必ずしも地理的な意味に限定されないかもしれません。インターネット空間や先端科学技術がもたらしたコミュニケーションのチャンネル、多文化環境、精神的・社会的弱者の領域など、いまだ福音が行き届いていない領域は多々あるのです。教会はそこへと「福音の種を蒔こうとする」聖なる挑戦を成し遂げなければなりません。 ローマ書の読者は、パウロが「エルサレム母教会」を非常に重んじていたことにも気づくでしょう。彼は現在コリントの地方でこの手紙を書いていますが、いったんエルサレムに戻って「聖徒を助ける務め」を果たしてから(ローマ15:25~26)、改めてローマを訪れる計画を立てています。エルサレムの兄弟姉妹たちは深刻な飢饉に苦しんでおり、パウロが開拓した異邦人教会(マケドニアやアカヤなど)の信徒たちが集めた献金を届ける必要があったのです。パウロがこうしてエルサレム教会に仕え、献金を携えて戻ろうとする姿は、彼が「教会の一致と連合」をいかに重んじていたかを象徴的に示しています。教会は世界へと広がる宣教的な遠心力をもつ一方で、エルサレム母教会という求心力を失ってはならないと彼は信じていました。 張ダビデ牧師はここを「連合と秩序」と呼びます。各地域の教会がそれぞれ分散して独立して活動しつつも、同時に主が建てられた教会として一つの体をなし、霊的にも組織的にも連帯すべきだということです。パウロが異邦人教会とエルサレム教会を仲立ちし、献金を届ける行為は、単に経済的援助のやりとりにとどまらず、「一つの体とされた教会が互いに仕え合い、励まし合う」という重要な象徴でもあります。パウロは「肉的なもので仕えるのは当然だ」(ローマ15:27)と言い、異邦人教会はユダヤ人教会から霊的恵みを受けたのだから、物質的・経済的な面でもその恵みに報いるべきだと述べます。これがすなわち教会のうちで互いが負債を負っているという霊的な認識を証明する道なのです。 その後パウロは「この務めを終えて初めて、あなたがたのところに立ち寄り、さらにスペインまで行くだろう。エルサレム母教会に自分の宣教の実を示し、それが確証された後、スペインへ向かう道すがらローマの信徒たちにも会いたい」と希望を表明します(ローマ15:28~29)。ここにはパウロの世界宣教ビジョンが盛り込まれており、同時に教会が抱くべき「宇宙的(Cosmic)な礼拝」への憧れが表れています。彼はただいくつかの地域教会に限定するのではなく、地の果てに至るまで万人に福音を宣べ伝えたいと願っていました。そして究極的には「万人が神を賛美する」という壮大な礼拝が展開するという予言的ビジョンを持っていたのです。 手紙の終わりにあたり、パウロはローマの信徒たちに具体的な祈りの課題を三つ要請します(ローマ15:30~32)。第一に、「ユダヤで従わない者たちから救い出されるように」。当時パウロは、熱心党(ゼーロテ)やユダヤ民族主義者から深刻な脅威を受けていました。律法の完成を唱え、福音の普遍性を強調する彼のメッセージは、彼らには異端的で背教行為のように映ったのかもしれません。そこでパウロは、自身の安全のために祈りが必要だと訴えたのです。第二に、「エルサレムに対するこの奉仕を、聖徒たちが喜んで受け入れてくれるように」。つまり、異邦人教会による献金と宣教の実がエルサレム母教会の確認と承認を得てこそ、教会全体が分裂することなく一つの体として強固になるというのです。第三に、「神のみこころによって喜びをもってあなたがた(ローマ教会)のところへ行くことができ、共に憩いを得ることができるように」。これは、宣教地での激しい働きのあと、ローマの信徒たちとの平安な交わりを分かち合いたいというパウロの人間的な望みでもあります。 張ダビデ牧師は、パウロが示したこの祈りの要請が教えているメッセージを「教会の一致ととりなしの祈り」とまとめます。教会はパウロが直面する外的・内的な困難について「共に祈り」で参与し、その中で神の守りと導きを求めなければなりません。また信徒同士が互いに必要な経済的・霊的支援を行い、キリストのうちにある一つの体として励ましと慰めを分かち合うとき、「すべての民族に福音を伝える」という大いなる使命もいっそう弾みを得ることになります。結局パウロは「平和の神が、あなたがたすべてとともにおられるように。アーメン。」(ローマ15:33)という祝祷によってローマ書15章を事実上締めくくります。望みの神、平和の神を説きながら、教会が互いに一つとなる道はただその神にかかっているのだ、と宣言しているのです。 これは現代にもそのまま適用できます。教会が個人主義と世俗主義の波にさらされ、分裂しやすい時代の流れに直面しているとしても、私たちの望みは「望みの神」にあります。私たちの平和もまた「平和の神」にかかっています。張ダビデ牧師はこれについて、「私たちは根本的に神に依存する存在であり、その神こそが私たちを一つにされる力であることを信じなさい」と強調します。教会内の葛藤が深まるほど、また福音宣教の障害が多いほど、私たちはいっそうとりなしの祈りを絶やしてはならず、互いに助け合い、仕え合う使命を担わなければならないのです。 結論として、ローマ書15章に含まれるパウロのメッセージは、現代の教会の状況においても依然として生きた勧めと言えます。第一に、教会の中で葛藤が起こる際、キリストの愛にならい、互いに忍耐し合い、受け入れ合うこと。第二に、信仰の強い者が弱い者の荷を担い、異邦人のような「異なる存在」を広い心で受容すること。第三に、パウロが実際に示したように、教会が互いにとりなし祈りを捧げ、献身的に仕え合うことで「一つとなる教会」を目指すこと。張ダビデ牧師はこれら三つを指して「教会が教会らしくあるために必ず守るべき三本の柱」と呼ぶことがあります。なぜなら、これらの柱こそが主の体なる教会が世に光と塩の役割を果たすように支える土台だからです。 「私たちを召された主が、葛藤を解決する仲裁者となられ、聖霊を通して私たちを同じ思いと同じ口で神を賛美する者へと導いてくださるのです」。パウロの確信と説教者たちの宣言は、時代を越えてあらゆる教会共同体に有効です。私たちがこの御言葉を実際の生活の中で体現しようとするとき、教会は福音の力を世に示す真の管となり、互いに受け入れ合って一つとなり、主の望みを果たすという聖なる召しを全うすることになるのです。

Fulfill the Lord’s Hope – Pastor David Jang

1. Conflict and Reconciliation Within the Church, and the Path to Unity in Christ One of the most crucial themes emerging from the entirety of Romans chapter 15 is: “How should conflicts within the church community be resolved and lead to reconciliation?” The Apostle Paul addresses brothers and sisters who are divided, who clash because … Read more

Cumplid la esperanza del Señor – Pastor David Jang

1. Conflictos y reconciliación en la iglesia, y el camino hacia la unidad en Cristo Uno de los temas más relevantes que resalta en todo el capítulo 15 de Romanos es la cuestión de cómo resolver los conflictos que surgen dentro de la comunidad eclesial y avanzar hacia la reconciliación. El apóstol Pablo exhorta enérgicamente … Read more

주의 소망을 이루라 – 장재형목사

1.교회 내 갈등과 화해, 그리고 그리스도 안에서 하나 되는 길 로마서 15장 전체에서 드러나는 가장 중요한 주제 중 하나는 “교회 공동체 내에서 벌어지는 갈등을 어떻게 해소하고 화해로 나아갈 것인가?”라는 점이다. 사도 바울은 갈라진 형제들, 서로 다른 견해로 인해 충돌하는 이들에게 “서로 받아 하나 되어 주의 소망을 이루라”고 강력하게 권면한다. 오늘날에도 교회 안의 수많은 갈등 사례가 … Read more

L’esprit de l’Église d’Antioche – Pasteur David Jang

1.L’esprit de l’Église d’Antioche L’Église d’Antioche est perçue comme un modèle incontournable dans l’histoire du christianisme. Les Actes des Apôtres et diverses Épîtres nous montrent en effet son identité particulière, distincte de celle de l’Église de Jérusalem. L’une des caractéristiques marquantes de cette communauté est d’avoir été le véritable point de départ de la mission … Read more

安提阿教会的精神 —— 张大卫牧师

1.安提阿教会的精神 安提阿教会在基督教历史中被视为不可或缺的重要典范。从《使徒行传》和各书信中,我们能看出安提阿教会与耶路撒冷教会之间的不同之处,其中一个显著特征便是它成为外邦宣教的正式起点。在这座犹太人、希腊人以及各族外邦人共存的城市里,福音得以跨文化、跨国度地迅速传播,“基督徒”(徒 11:26)这一名称也是在这里首次被使用。关注安提阿教会精神的代表性讲道者之一,就是张大卫牧师。他以安提阿教会为所带领教会和宗派的神学根基,并据此强调教会植堂、世界宣教、大公合一与教义确立等要务。 在张大卫牧师看来,安提阿教会精神可归纳为以下三点。第一,所有事工都以圣灵强烈的作为为起点。安提阿教会的领袖们在禁食祷告时,听见圣灵指示:“要为我分派巴拿巴和保罗……”(徒 13:2~3),由此迈出了世界宣教的第一步。这象征着教会必须将圣灵的引导置于任何人类策略或规划之前。张大卫牧师指出,现代教会同样应在财务、组织、营销策略之前,首先全然倾听圣灵的声音。他特别强调,韩国教会在急速成长过程中,时常只追求“人想要的成果”,却忽略了“神所指明的方向”,要克服这一问题,就必须效法安提阿教会的灵性。 第二,安提阿教会同时兼顾教义确立与大公合一。翻看《使徒行传》第15章,可见他们与耶路撒冷教会保持紧密沟通,就外邦信徒需遵守哪些律法及福音的核心内涵展开激烈讨论。这不仅表明教会不应局限于地方性共同体,也彰显出面对全球化的基督信仰,教会间的彼此协助至关重要。张大卫牧师所称的“安提阿式教会观”正是基于此点。他将安提阿教会的现代化形象称作“新安教会”,并期望它能承担“新的安提阿”角色。大公性的教义基础、以圣灵为中心的敬拜,以及教会间积极的沟通与合一,正是安提阿教会精神在当代的复兴。 第三,安提阿教会是世界宣教的重要前哨。这里所差派的巴拿巴和保罗奔赴小亚细亚与欧洲,把福音带向外邦各地。张大卫牧师常引用“教会是被差往世上的信徒基地营”这句话,强调21世纪韩国教会也应同样实践这一使命。他所领导的宗派不仅在国内建立多间教会,也将大量宣教士派往海外,通过门徒训练和传扬福音不断开拓工场。这不仅是为了扩大宗派规模或追求数字增长,而是源于这样一种神学确信:福音拥有普世(universal)层面的力量,将之与所有人分享,才是教会存在的真正意义。 安提阿教会精神的另一面向,是反对 只在口里停留的信仰,强调在现实生活中彰显信仰。初代教会信徒在教会内外彼此代祷、共享财产,即便遭遇逼迫仍不改初心。张大卫牧师时常在讲道中说:“若没有安提阿教会,保罗使徒那具爆发力的世界宣教也难以实现。”此番话凸显的是:只有当信徒个人真正领受福音,并让祷告与感恩渗透于日常,教会才能开展宏大事工。教会若只追求体制或活动的耀眼,反倒会失去根基;唯有圣灵的运行、教义根基的扎实、大公性合一,以及祷告感恩的果子丰盛,才是安提阿教会精神的实质。 这一安提阿教会精神对今日韩国教会具有多重启示。其一,在高速发展带来的阴影下,韩国教会出现了世俗化和分裂的问题,这精神敦促我们重回初代教会的本源。教会从来不是自发生长的组织,而是自五旬节圣灵降临便延续至今的“圣灵共同体”,同时也属于普世教会的一部分。张大卫牧师不断呼吁要强调“大公性”,超越各宗派的围墙,在基督里重新合一。其二,强调教会植堂与差派的重要性。正如使徒保罗在各城市间建立教会,通过书信教导并鼓励信徒一样,“在这片土地上播种教会”至今仍是有效的宣教策略。其三,唤醒信徒个人对“蒙召为圣徒”身份的自觉,通过门徒训练巩固信仰基础。唯有如此,在个人主义和物质主义泛滥的社会氛围里,教会才能触发颠覆世俗价值观的属灵运动。 总之,安提阿教会精神为当代教会的敬拜和事工提供了有力启示。张大卫牧师多次强调,“教会不要只局限于聚会敬拜、留在安逸舒适之中,而要分散出去传扬福音,并致力于重建教义根基。”在教派林立、教会纷繁的韩国社会,要恢复这精神实属不易,但初代教会的样式始终是我们坚定的指南。过去33年里,张大卫牧师所带领的宗派已在许多地方教会和海外宣教工场撒下福音种子。未来,他也将继续以与时代呼应的方式诠释安提阿教会精神,让信徒时刻回想并守护福音的纯正与热诚。这也正是他神学立场的根本:教会唯一的头乃耶稣基督,在圣灵的作为中守护教义纯净,同为一体,并向全世界传扬福音。 2.《歌罗西书》释经讲道中所体现的教义基础 在张大卫牧师的所有讲道中,释经讲道(Expository Preaching)是最核心的部分。他始终坚持从经文本身出发,阐明其本意,再将之联系到当代教会与信徒的具体生活之中。其中,他特别重视《歌罗西书》,并频繁将其选为讲道主题。为什么偏爱《歌罗西书》?因为它属于一般所称的“监狱书信”,保罗即便身陷囹圄,仍向教会传递了高度基督中心的信息——即在万有之上、在教会之中同时掌权的崇高基督论,也就是“从上而来的基督论”(Christology from Above)。 张大卫牧师反复强调《歌罗西书》中的重要段落如下:《歌罗西书》1章15-17节宣告耶稣基督是“那不能看见之神的像,是在一切被造之先所生的”,并指出祂在创造万物的过程中拥有绝对的主权。紧接着1章18节则说到“祂也是教会这身体的头”,进一步揭示基督才是教会真正的治理者。随后在1章20节以后写道,“借着十字架所流的血成就了和平,使地上天上一切都与神和好”,显示基督的救赎在宇宙层面均有效能。这意味着福音不仅是宗教戒律或伦理教诲,而是改变世界根基秩序的超越性力量。 基于《歌罗西书》的这种基督论,张大卫牧师总结出教会必须紧紧抓住的教义基础:第一,要防备削弱耶稣基督神性,或将其与其他哲学、思想相混淆的诱惑。《歌罗西书》所处的历史背景下,歌罗西教会也曾面临诺斯底主义、灵知主义及部分犹太律法主义的干扰。保罗在信中坚决抵制这种混杂,宣告“神本性一切的丰盛,都有形有体地居住在基督里面”(西 2:9)。这提醒当今教会,在世俗主义和宗教多元化的冲击下,更要守住福音核心。张大卫牧师时常警示,如果只把耶稣当作“伟大的导师”,教会就会失去福音的大能,沦为一般的道德组织。 第二,教会与信徒都应与基督保持紧密结合。《歌罗西书》2章6-7节写道:“你们既然接受了主基督耶稣,就当遵祂而行,在祂里面生根建造……”。张大卫牧师将这段经文解释为:教会不要只停留于敬拜与活动,而应让每个信徒都在基督真理里扎根。为此,门徒训练、教义教导、查经学习等至关重要。仅仅一句“我信”口号尚不足够,必须藉着对经文的深入理解与默想,带来真正的生命转变。 第三,教会应帮助信徒经历《歌罗西书》所说的“听见、明白并结果子”(西 1:6)之福音阶段。保罗说:“这福音传到你们那里,也就如同在普天下并你们中间……自从你们听见福音,真知道神恩惠的日子起,就结果并增长。”张大卫牧师强调,此处“听见”是第一阶段,而“明白”并非单纯的知识获取,而是发自内心的信服与回应,最终在日常生活中结果子,才算真正经历福音,也使教会群体坚固。 第四,《歌罗西书》所呈现的祷告与感恩态度,是强化教会与信徒属灵动力的关键元素。在1章3节,保罗写道:“我们为你们祷告的时候,常常感谢神……”。张大卫牧师进一步拓展,认为教会若能持续为彼此祷告,并同心回顾恩典,那么就能在灵里联合。正如初代教会相隔甚远却能因祷告与感恩彼此连结,如今教会若想跨越地域与宗派的藩篱,唯一可行之道便是记得“我们同蒙主恩”并彼此代求。张大卫牧师领导下的教会群体,设有清晨祷告、通宵祷告,也常与各地区教会协同展开联合祷告聚会,这正是实践大公合一的具体方式。 因此,张大卫牧师在《歌罗西书》释经讲道中,始终聚焦“耶稣基督为教会之头,也是普世的救主”这一真理,并呼吁教会在此根基上巩固自身。若缺少这个根基,教会极易在当今多变的文化或光鲜亮丽的哲学思潮面前动摇。但根基稳固,则教会能在世代交替中依然保有福音的纯正,并培养真正“听见、明白、结出果子”的信徒。张大卫牧师称之为“教义与生活合一”的教会,并相信顺着《歌罗西书》所揭示的教义蓝图与实践路径前行,就能重现安提阿教会的属灵风貌。 张大卫牧师的释经讲道并未局限于经文的注释或神学论述,更是指向“当今教会和信徒应当如何生活”的核心问题。若我们真相信耶稣基督是万有的创造主,又是教会的元首,就该对祂全然顺服;而信徒也应在日常中超越世俗价值观,践行圣洁、奉献、传扬与爱。这与张大卫牧师所推行的教会植堂和世界宣教事工自然契合——因为释经讲道的终极目标,即是把信徒坚立在基督真理上,再差他们往世界各处作见证。《歌罗西书》1章6节所说的“在普天下都结果并增长”,不仅具有地域的涵义,也暗含着福音向万国扩张的远大异象,与张大卫牧师的牧会理念及宣教方向完美呼应。 3.面向世界宣教与福音传播的张大卫牧师异象 安提阿教会精神与《歌罗西书》的崇高基督论,最终自然引向“世界宣教”这一主题。福音从来不应局限于某个地区或民族,而要传遍世界,这是自初代教会起就承载的普世使命。张大卫牧师强调:“教会必须常向万国敞开大门”,并将安提阿教会的历史先例与《歌罗西书》的教义基础结合起来,深入阐释这一使命。 从历史层面看,安提阿教会不止停留在“口头信仰”,而是实际付出与差派的教会。因着耶路撒冷受逼迫而四散的信徒与多元种族组成的安提阿群体,不仅包容各文化,也毫不犹豫地差派巴拿巴与保罗,响应圣灵的呼召开始宣教旅程——“教会将自己的人力、物力毫不保留地交托,并立刻顺从了圣灵的引导。”张大卫牧师指出,这正是当今教会也需要作出的抉择。的确,教会植堂与世界宣教必然伴随风险与消耗,但拥有“存于天上的盼望”(西 1:5)的信徒,不会只顾世俗安逸与利益,而愿意投入到宣教性的生活与使命之中。 从教义层面看,《歌罗西书》所彰显的耶稣基督神性与主权,已超越了任何文化边界,即祂的救赎是“使地上天上一切都与神和好”(西 1:20)的宇宙性事工。张大卫牧师把这称为“福音的全球化”,但他特别指出,这里的“全球化”不等同于世俗意义上的全球化,而是植根于大公性的福音普世性。教会若依靠圣灵的能力,跨越文化、语言、民族之隔膜,将福音带向各方,才是其真正的本分。事实上,他所领导的宗派已经在世界各大洲差派了众多宣教士,与当地教会通力合作,建立神学院或培训本地领袖,充分践行此理念。 那么在后现代的21世纪,我们又该如何推进宣教?张大卫牧师提出几项关键原则:第一,务必坚守福音本质。正如歌罗西教会曾遭受异端和混乱之扰,现代教会同样面临异端、邪教或世俗化冲击。故而,教会领袖应通过扎实的释经讲道与教义训练,帮助信徒牢牢把握“基督的主权”与“十字架的救赎”。第二,必须具备文化适应力。初代教会为向外邦人传福音,曾在“哪些律法仍须遵守,哪些可予宽免”上作出抉择(徒 15章),亦是对当时文化的尊重和灵活应对。同理,宣教士进入陌生文化时,不应盲目排斥当地风俗,而需在不损及福音核心的前提下加以理解与接纳。这一过程需要仰赖教会之间的合一与祷告力量。第三,善用数字化时代的工具。社交媒体、线上礼拜、影音宣教等,是打破地域限制、快速传播福音的强大手段。张大卫牧师将之比作“当代的罗马大道”。就像保罗借助罗马帝国通畅的交通网得以在各地传扬福音,如今教会也可利用数字平台,让福音更迅速地触及远方。 张大卫牧师的世界宣教异象还包含“教会应当不是只在内部举行礼拜、内部消耗资源的共同体,而是不断差派、愿意分流人才的共同体”。就像安提阿教会甘愿“放手”保罗与巴拿巴,若一间健康的教会留住所有优秀人才,拒绝“放行”,就会错失向外扩展福音影响力的机会。有些教会出于害怕“人才流失”或担心财务损失,而不愿差派,但张大卫牧师认为,从“神国视角”看,这种舍与分享恰恰是“真正的教会植堂精神”,亦会使教会在神的恩典中更加丰盛。 在此宣教异象下,不可忽略的关键要素便是祷告和感恩。张大卫牧师相信,若不同语言、文化的教会能彼此联合、持续代祷,一种属灵网络便会形成。初代教会虽分散于耶路撒冷、安提阿、小亚细亚多地,却能如一人般行动——正是凭借祷告与感恩。保罗在写给各地教会的书信中,多次表露“常为你们祷告并感谢神”。祷告与感恩,是维系教会间灵里相通与大公合一的最有力途径。时至今日,要在教会间促成有效协作与联合宣教,这一“属灵法则”依然不可或缺。 综上所述,张大卫牧师的世界宣教思想,将安提阿教会的历史经验与《歌罗西书》的神学透视相结合,为21世纪教会提供了明确的道路:教会有责任向全世界传福音,但其前提是必须经历圣灵火热的工作、维护教义的稳固、大公意义上的合一,以及将祷告和感恩内化于日常生活。若教会忽视或片面强调其中一项,宣教就容易沦为畸形或一时的活动;但若能借助安提阿教会的榜样、《歌罗西书》的教义基础,并汲取张大卫牧师在当今时代的努力方向,教会既能坚守福音根基,又能灵活接纳数位时代的变迁,让福音进一步拓展其影响力。 值得补充的是,张大卫牧师认为“传福音”不仅仅是口头宣讲,还意味着整个人生的奉献。福音不能仅停留在教会之内被“听见和学习”,更要成为在教会之外切实践行的价值观与生活方式。唯有当耶稣基督的爱与真理贯穿于职场、校园、家庭与社会的每个层面,世人才能看到教会活出的真实见证,从而生出“究竟是谁让他们生命如此翻转?”的神圣好奇,而这正是宣教浪潮兴起的重要契机。若教会不只满足于“内部”信仰,而能让福音“流向外部”,正如初代安提阿引领了世界宣教的开端,韩国教会也可在21世纪扮演安提阿的角色。 综合而言,张大卫牧师所阐述的教会蓝图,可以这样概括:“以圣灵之火燃烧的灵性,只单单仰望耶稣基督的教义确信,承认所有教会在主里原为一体的大公合一,以及主动走向世界、对万民尽宣教责任的共同体。”这样的共同体在任何时代都面临巨大挑战,但初代教会已为我们开启了道路,而《歌罗西书》等书信也提供了神学层面的指导。张大卫牧师常常默想安提阿教会精神与《歌罗西书》所启示的基督论,并视培育能在世间活出福音大能的信徒为自己毕生的使命。 过去33年的宗派历程,连同在无数当地教会与海外宣教工场所累积的经验,印证了他提出的并非空谈,而是一套在现实中受检验的牧会理念。各大洲被派遣的宣教士见证了福音在异文化中的扩张,各教会的联合祷告运动见证了神在大公合一中的大能,信徒在各自岗位中的真诚奉献则印证了福音对生活所带来的改变。这些,都在当今21世纪重现了安提阿教会“听见、明白、结果子”的福音循环,与张大卫牧师所不断呼喊的口号——“领受恩典并传扬恩典的生命”——紧密契合。 由此可见,安提阿教会精神、《歌罗西书》所提出的教义根基,以及迈向世界宣教的实践愿景,共同构成了张大卫牧师事工的总体图像,也为当前处于复杂境遇中的韩国教会提供了一条清晰的方向。若要彰显教会本来面貌,首先必须被圣灵更新,并牢守福音真理;在此根基上,祷告与感恩广泛流溢,信徒自觉其身分并在世上活出奉献,教会才会如安提阿教会那般,与普世教会联合,并积极主动地将福音传至地极。这正是张大卫牧师不断强调的核心信息,也是他在教会植堂和世界宣教上始终奔走不息的目标。

アンテオケ教会の精神 – 張ダビデ牧師

1.アンテオケ教会の精神 アンテオケ教会は、キリスト教史において欠かすことのできない重要な模範とされている。『使徒の働き』やパウロ書簡などを通じて見えてくるのは、エルサレム教会とは異なるアンテオケ教会の独自性であり、とりわけ異邦人宣教の本格的な出発点となったという点が象徴的である。ユダヤ人だけでなく、ギリシア人や数多くの異邦人が共存していたアンテオケの地は、福音が国際的かつ多文化的に拡張する決定的なきっかけとなり、「クリスチャン」(使徒の働き11:26)という呼称もここで初めて用いられた。こうしたアンテオケ教会の精神を重視して説教する代表的な人物の一人が、張ダビデ牧師である。彼は、自身が率いる教会と教団の神学的基盤をアンテオケ教会のモデルに置き、それをもとに教会開拓、世界宣教、公同教会性、そして教理確立の必要性を強調してきた。 張ダビデ牧師が説くアンテオケ教会の精神は、おもに三つの特徴に要約される。第一に、聖霊の熱い働きがあらゆる宣教や活動の始動点であるということだ。アンテオケ教会の指導者たちは断食と祈りの中で「バルナバとパウロを選び出し…」(使徒の働き13:2-3)という聖霊の導きを受け取り、世界宣教に第一歩を踏み出した。これは教会が人間的な計画や組織論を優先するのではなく、聖霊の御声に最優先で従う姿を象徴している。張ダビデ牧師は、現代教会こそ財政やマーケティング戦略を立てる前に、まず聖霊への全面的な服従姿勢を取り戻すべきだと訴える。急成長を遂げた韓国教会において、しばしば「神が望まれる方向」よりも「人間が求める成果」に走りがちだった点を猛省し、アンテオケ教会の霊性に学んでいかねばならないというわけである。 第二に、アンテオケ教会は教理的確立と公同教会性を同時に追求した。『使徒の働き』15章では、彼らがエルサレム教会と緊密に協力し、異邦人信徒に課すべき律法や福音の本質をめぐって議論を重ねる様子が記されている。これは教会が特定地域だけに限定されるのではなく、世界へと広がるキリスト教の普遍的真理を守るために互いに協力し合うべきことを示唆する事例だ。張ダビデ牧師が論じる「アンテオケ的教会観」は、まさにこの点で輝きを放つ。彼はアンテオケ教会の本質を現代に適用し、「セアン教会(新しいアンテオケ)」というビジョンを掲げている。教理的基礎の確立、聖霊に重きを置いた礼拝、さらに他教会との活発なコミュニケーションと連合をもって、アンテオケ教会の精神を現代的に甦らせようとしているのである。 第三に、アンテオケ教会は世界宣教の前哨基地としての役割を担った。ここで派遣されたバルナバとパウロは、小アジアやヨーロッパ各地を巡回し、異邦世界に福音を大きく拡散した。張ダビデ牧師は「教会は世へと派遣される聖徒たちのベースキャンプだ」という言葉を好んで引用する。アンテオケ教会が果たした役割を、21世紀の韓国教会もまた継承すべきだと考えるからである。実際、彼の率いる教団では国内外に教会を多数開拓し、宣教師を派遣しながら弟子訓練と福音宣教に力を注いできた。これらは教団の規模拡大や数的成長そのものが目的ではなく、「福音のもつ宇宙的(universal)次元の力」をあまねく人々に届けることが教会の存在意義だという神学的信念に基づいている。 また、アンテオケ教会の精神は、口先だけの信仰 ではなく、実生活で実証される信仰を重視している点にも表れている。初代教会の信徒たちは教会の内外で互いのために祈り合い、財産を分かち合い、迫害と困難の中でも揺るがない献身を示した。張ダビデ牧師は説教でしばしば「アンテオケ教会がなければパウロの世界宣教の躍進もなかっただろう」と付言するが、それは信徒個々が福音を深く体得し、祈りと感謝に根ざした生活をすることこそ、大きな宣教の推進力となるという事実を強調するためである。つまり、教会が制度や行事だけを華やかにしても、聖霊の働き・教理的基礎・公同教会的連合・祈りと感謝が伴わなければ意味が薄い、という強いメッセージを発しているのだ。 このアンテオケ教会の精神は、今日の韓国教会にいくつもの示唆を与えている。第一に、急速な成長の影で世俗化や分裂の問題に苦しむ韓国教会が、改めて初代教会のルーツを想起するきっかけとなる。教会は決して自生的な組織ではなく、五旬節(ペンテコステ)の聖霊降臨によって誕生した「聖霊共同体」であり、普遍教会の一員であることを忘れてはならない。張ダビデ牧師は「公同教会性」の回復を力説し、教団や教派の枠を超えて、キリストにあって一つの体であることを再確認すべきだと語る。 第二に、教会開拓と派遣が持つ重要性である。使徒パウロが各都市に教会を建てつつ手紙で信者を教導し励ましたように、現代でも「この地に教会を植える」という行為は今なお有効な宣教手段といえる。 第三に、聖徒一人ひとりが「神に聖別された者」としてのアイデンティティを自覚し、弟子訓練によって信仰の根幹をしっかりと固めるべきだ。個人主義や物質主義が強まる社会環境の中で、教会が世の価値観を逆転させる霊的運動を起こすには、聖徒のアイデンティティと訓練が不可欠なのである。 こうして見てくると、アンテオケ教会の精神は、現代における教会の礼拝と活動に深い洞察を与えてくれる。張ダビデ牧師が一貫して語るのは、「教会はただ集まって礼拝をし、安住するだけで終わるのではなく、散らされて福音を宣べ伝え、教理的土台を確立していかなければならない」ということである。多くの教団や教会が入り乱れる韓国社会でこの精神を回復するのは容易ではないが、初代教会が示したモデルはいつの時代も変わらぬ羅針盤であり続ける。過去33年間、教団を導きながら多くの地域教会・海外宣教地で種を蒔いてきた張ダビデ牧師は、これからもアンテオケ教会の精神を時代に合わせて再解釈し、信徒たちに福音の純粋性と熱意を絶えず呼び起こしていくだろう。この姿勢こそが、彼の神学的根幹である。「教会の頭(かしら)はイエス・キリストのみ」であり、「聖霊の働きによって教会は教理的純粋性を守り、一つの体として結ばれ、世界へ福音を宣べ伝える」という確信だ。 2.コロサイ書講解説教に表れた教理的基礎 張ダビデ牧師の説教における重要な柱の一つは、いわゆる講解説教(Expository Preaching)である。聖書本文そのものを注解し、その意味を現代の教会や信徒の生活に具体的につなげるアプローチを取り続けてきた。その中でもコロサイ書は、彼の説教にしばしば取り上げられる本文の一つである。なぜコロサイ書なのか。一般的に「獄中書簡」に分類されるコロサイ書は、パウロが投獄された状況下でも教会に訴えたかった、キリスト中心のメッセージが非常に濃厚に描かれているからだ。特にイエス・キリストを単なる「優れた教師」ではなく、万物の主権者であり教会の頭(かしら)であると高らかに宣言する「高いキリスト論」は、この書簡の主軸となっている。 張ダビデ牧師が繰り返し強調するコロサイ書の主要箇所の一つが、1章15〜17節だ。そこでパウロはイエス・キリストを「見えない神のかたちであり、すべての造られたものに先立って生まれた方」と紹介する。さらに1章18節では「この方は、その体である教会の頭」であると宣言し、キリストこそ教会を真に治める主権者であることを示している。さらに1章20節以降で「十字架の血によって平和をなして、地にあるものも天にあるものもすべて和解させた」と記されるように、イエス・キリストの贖いのみわざが宇宙的次元にまで及ぶと教えている。これは福音が単なる宗教的規範や倫理的勧告にとどまらず、世界の根本的秩序を変容させる超越的力であることを示唆する。 張ダビデ牧師は、このようなコロサイ書のキリスト論に基づき、教会が保持すべき教理的基礎をいくつか指摘している。第一に、イエス・キリストの神性を弱体化させたり、他の思想や哲学と“混合”させようとする誘惑に警戒すべきだということ。実際、コロサイ教会はグノーシス主義や特定のユダヤ律法主義者の影響を受け、福音が混乱しかけた。そのときパウロは「キリストのうちにこそ、神の本質がすべて余すところなく宿っている」(コロサイ2:9)と断言して誤りを断ち切った。これは教会が守り抜くべき福音の根幹であり、21世紀の世俗主義や宗教多元主義の風潮に対しても同様に有効だ。張ダビデ牧師は、「イエスを道徳教師程度に引き下ろしてしまうと、教会は福音の力を失い、世の倫理団体と変わらなくなる」と繰り返し警告する。 第二に、教会と信徒はイエス・キリストとの緊密な連合を築かなければならない。コロサイ2章6〜7節でパウロは「あなたがたはキリスト・イエスを主と受け入れたのだから、彼のうちを歩み、彼のうちに根を張り…」とすすめる。張ダビデ牧師はこれを「教会が礼拝や行事の運営にとどまるのではなく、信徒一人ひとりがキリストの真理の上に確固たる根を下ろす」ことだと解釈する。そのためには弟子訓練や教理教育、聖書研究などが欠かせない。「信じます」という口先の告白だけでは不十分であり、みことばを深く学び黙想する中で生活そのものが変わらなければならない、というわけである。 第三に、コロサイ書が強調する「聞き、悟り、実を結ぶ」(コロサイ1:6)福音のプロセスを教会全体で組織的に支援すべきだ。パウロは「この福音がすでにあなたがたに達し、あなたがたがそれを聞いて神の恵みを悟った日から、実を結び成長している」と述べるが、張ダビデ牧師によれば「福音を聞く」という第一段階を経て「悟り」に至るとは、単なる知的理解ではなく、心で受け止め信仰で応答することだという。そしてその悟りが具体的な実を結ぶときにこそ、教会共同体はしっかりと建て上げられるのだ。 第四に、コロサイ書に見られる祈りと感謝の姿勢は、教会と信徒の霊的活力を高める核心要素となる。1章3節でパウロは「あなたがたのために祈るとき、いつも神に感謝している」と述べるが、張ダビデ牧師はこれをさらに拡大し、教会が互いのために祈り合い、共同体全体で受けた恵みを共有し合う文化を築くことの大切さを説く。初代教会が離れた場所にいながらも祈りと感謝によって一つにつながっていたように、今日の教会も教団・教派の壁を超えた連帯を形作るカギは「互いのための祈り」と「神への絶えない感謝」である。張ダビデ牧師が導く教会群では、早天祈祷や徹夜祈祷に限らず、複数の地域教会が連合して祈る集会を盛んに行う伝統を持っている。これは公同教会性を具体的に実践する上でも非常に意味深い方法だと言える。 結論として、張ダビデ牧師が展開するコロサイ書の講解説教の要点は、「イエス・キリストが教会の頭であり、全宇宙の主権者であるという真理を明確に握り、その上に教会を堅固に立てるべきだ」というメッセージに行き着く。この基礎が揺らぐと、教会は世俗文化や多彩な哲学・イデオロギーに容易に流されてしまう。逆に基礎が確かであれば、教会はどんな時代の変化にも動じず福音の純粋性を保ちながら、「福音を聞き、悟り、実を結ぶ」信徒を養うことができる。張ダビデ牧師はこれを「教理と生活が乖離しない教会」と表現し、コロサイ書が描く教理的ビジョンと実践的指針に倣う共同体こそが、最終的にアンテオケ教会の霊性を回復し得るのだと強調する。 このように、彼の講解説教は単なる聖句の注解や教理解説にとどまらず、「今この時代に私たちがどう生きるか」という具体的問いに結びつく。もしイエス・キリストが万物の創造主であり、教会の頭であると真に信じるならば、教会はそのお方に全面的に従い、信徒は世の価値観を超えて聖なる献身と伝道、そして愛を実践せねばならない。これは張ダビデ牧師の教会開拓や世界宣教のビジョンとも自然に合致する。なぜなら、講解説教の最終的な目的は、聖徒をキリストの真理の上に堅く立たせ、その福音を世へ伝えさせることに他ならないからである。コロサイ書が言う「全世界で実を結ぶ」(1:6)というフレーズは、地域的限界を超えて福音が世界的に広がる夢を示しており、これは張ダビデ牧師の牧会哲学と宣教方針を力強く裏づけるものとなっている。 3.世界宣教と福音伝播に向けた張ダビデ牧師のビジョン アンテオケ教会の精神とコロサイ書の高いキリスト論は、自然に世界宣教という主題へと展開していく。福音は特定の民族や地域に限定されず、全世界へと広がるべきだという自覚は、初代教会以来受け継がれてきたキリスト教の普遍的使命である。張ダビデ牧師は「教会はいつの時代も、諸民族に向けて心を開いていなければならない」と繰り返し説き、アンテオケにおける歴史的根拠と、コロサイ書に示された教理的根拠を結び合わせて主張する。 まず歴史的な観点でいえば、アンテオケ教会は 口先だけの信仰 の段階を超え、実際に献身と派遣を果たした教会だった。彼らはエルサレムから離散してきた信徒とも協力して多民族・多文化の共同体を築き、バルナバとパウロを宣教の最前線へ送り出す決断を躊躇しなかった。「教会にある人的・物的資源を惜しまず、聖霊の示唆に即座に従った」という事実は、張ダビデ牧師が現代教会にも必要だと考える肝要なポイントである。教会開拓や世界宣教はコストやリスクを伴うが、「天に蓄えられている望み」(コロサイ1:5)を抱く信徒は、世的な安楽や利益に執着せず、宣教的な生き方へと進むことができるというわけだ。 教理的な面では、コロサイ書がイエス・キリストの神性と主権を宇宙的次元まで拡大して描くことに注目できる。つまり、福音は一文化圏のみに通用する部分的メッセージではなく、「地にあるものも天にあるものも」(1:20)すべてを更新するキリストの和解のみわざだという視点である。張ダビデ牧師はこれを「福音の世界化」と呼ぶが、世俗的な意味でのグローバル化ではなく、公同教会性に基づく普遍性としての世界化を指している。教会が聖霊の力に支えられ、文化・言語・民族を越えて福音を告げ知らせることが重要なのだ。実際に、彼の教団からは多くの宣教師が各大陸へと派遣され、現地の教会との協力や神学校の設立、リーダー育成などを行ってきた。 ではポストモダンの21世紀において、いかに宣教を展開していくべきか。張ダビデ牧師は以下のような原則を示す。 福音の本質を守ることが最優先コロサイ教会に入り込んだ偽りの教師たちのように、現代でも異端やカルト、さらには世俗の価値観が教会を混乱に陥れる可能性がある。だからこそ教会の指導者たちは、講解説教や教理教育によって、信徒が「イエス・キリストの主権」と「十字架の贖い」の核心をしっかり掴むよう導かなければならない。 文化的柔軟性を持つこと初代教会も異邦人伝道の際、ユダヤ律法をどこまで適用するか、どこを免除するかを慎重に検討し(使徒の働き15章)、福音の本質を損なわない範囲で柔軟な対応を図った。現代の宣教師も文化や慣習を頭ごなしに否定するのではなく、受容可能な要素を認め尊重し、福音のエッセンスを伝達すべきだ。その際、教会同士の連合と祈りの力が大きな助けとなる。 デジタル時代のツールを積極的に活用するSNSやオンライン礼拝、メディア伝道などは、地理的距離を超えて福音を広める有力な手段となる。張ダビデ牧師はこれを「現代版ローマの道」と比喩する。パウロがローマ帝国の道路網を使って福音を携え広範囲に移動できたように、今日の教会もデジタル・インフラを福音伝播に大いに生かすべきだというわけである。 張ダビデ牧師の世界宣教ビジョンの根底には、「教会は礼拝しつつ内部で自己完結する共同体ではなく、絶えず派遣される共同体でなければならない」という信念がある。アンテオケ教会がバルナバとパウロを手放したように、健全な教会は有能な人材を内部だけに囲い込まず、彼らを世に送り出して福音を広め、弟子を養成できるよう支援すべきなのだ。これは時に教会の規模拡大と相反する側面があるものの、張ダビデ牧師は「神の国の視点から見れば、こうした派遣と分かち合いこそ真の『教会開拓精神』であり、結果的に教会をいっそう豊かにする道である」と主張する。 さらに、この宣教ビジョンを具体化するために欠かせないのが、祈りと感謝である。張ダビデ牧師は、言語や文化が異なる教会同士が連携し、地理的に離れたコミュニティを継続して祈りで支えるとき、その祈りが強固な霊的ネットワークを築くと考えている。これは初代教会がエルサレムやアンテオケ、小アジアの諸教会へ分散しながらも、一つの体として連動できた根幹的な理由の一つでもある。パウロが書簡のたびに「いつもあなたがたのために祈り、感謝している」と述べているのは、教会間の霊的結束と公同教会性を支える最も強力な手段が、祈りと感謝であることを示す証拠と言えよう。現代においても教会間協力や宣教連合を進めるには、この霊的原理が不可欠であると張ダビデ牧師は強調する。 総括すれば、張ダビデ牧師が展開する世界宣教論は、アンテオケ教会の歴史的モデルとコロサイ書の神学的洞察を結合して、21世紀の教会が目指すべき道筋を具体的に示すものである。教会は全世界へ福音を届けねばならないが、そこに至る前提として、聖霊の強い働きと教理的安定、公同教会性に基づいた連合、そして祈りと感謝の生活が欠かせない。これらの要素を軽視したり、いずれかだけに偏ってしまえば、宣教は歪められたり一過性のイベントに終わってしまうおそれがある。しかし、アンテオケ教会が歩んだ軌跡、コロサイ書が示す教理の基盤、そして現代においてこれを実践しようと努めてきた張ダビデ牧師のビジョンを合わせて見るならば、教会は本質を守りつつ、文化的・デジタル的変化を柔軟に受け入れ、さらに広範囲へ福音を拡張できるはずだ。 加えて、張ダビデ牧師は「福音を宣べ伝える」とは、人生全体を通じての「献身」であると断言する。福音は教会の中だけで「聞いて学ぶ教え」ではなく、教会の外にこそ具体的に適用される価値観と行動様式であるべきだというのだ。イエス・キリストの愛と真理が職場や家庭、社会のあらゆる領域で可視化されるとき、人々は教会を見て「彼らの語るイエスとは何者なのか? なぜこれほど生活を変える力があるのか?」と疑問を抱き、その「聖なる好奇心」が新たな宣教の扉を開く。教会が内向きの満足に陥らず、外へと福音を流し出す時、初代教会のアンテオケがそうであったように、韓国教会もまた21世紀のアンテオケとして再出発し得ると、張ダビデ牧師は強い期待を寄せる。 最終的に、張ダビデ牧師が思い描く教会像を要約すると、「聖霊に燃やされる霊性、ただイエス・キリストを見上げる教理的確信、すべての教会が一体であることを認める公同教会性、そして地の果てまで福音を携え出ていく宣教使命を同時に追い求める共同体」と言える。どの時代においてもそれは困難で挑戦的な道のりだが、初代教会がすでにその道を切り拓き、コロサイ書などの書簡が明確な神学的ガイドラインを示している。張ダビデ牧師は、アンテオケ教会の精神とコロサイ書が告げる高いキリスト論を深く黙想しつつ、この世のただ中で福音の力を体現する聖徒を育てることこそ、自身の使命だと公言する。 これまで33年にわたって教団を率い、多くの教会を開拓し、海外宣教の現場でも活動を重ねてきた経験は、彼の語るビジョンが単なる理念や理論ではなく、実際に検証されてきた牧会哲学であることを裏付ける。世界各地に派遣された宣教師たちが福音を宣べ伝え、教会同士が連合して祈り合い、信徒たちがそれぞれの場所で献身を続ける時、アンテオケ教会が体現していた「聞き、悟り、実を結ぶ」福音の循環が、21世紀にも再現できることを証明している。そして、それは張ダビデ牧師が絶えず唱えるスローガン――「恵みを悟り、それを広める人生」――にもぴったり重なるものである。 まとめると、アンテオケ教会の精神とコロサイ書が示す教理の柱、そして世界宣教へ向かう具体的ビジョンを一体化させた張ダビデ牧師の歩みは、複雑な現代の韓国教会に明確な方向感を与えてくれる。教会が教会らしくあるためには、まず聖霊の感動と福音の真理が躍動していなければならない。その土台の上で祈りと感謝があふれ、信徒一人ひとりが自らの召しを認識し、世のただ中で献身の姿を示すとき、教会はアンテオケ教会のように公同教会の連帯を築きながら、全世界へと福音を運ぶ能動的な宣教共同体へと変容し得る。これこそが張ダビデ牧師の根本的なメッセージであり、彼が教会開拓と世界宣教を通して成し遂げようとしているゴールでもある。

The Spirit of the Antioch Church – Pastor David Jang

1.The Spirit of the Antioch Church The Antioch Church is regarded as a pivotal model in Christian history. Through the Book of Acts and the Epistles, we discover the distinct identity of the Antioch Church—setting it apart from the Jerusalem Church—particularly how it served as a genuine launch point for Gentile missions. In a city … Read more