恵みのみ – 張ダビデ牧師

Ⅰ. 教会の本質と救済論:ただ恵みによって張ダビデ牧師は、教会の本質を論じる際、救済論を中心に据えるべきだという主張を一貫して強調している。教会が存在する最も根本的な目的はイエス・キリストによる救いの知らせを伝えることにあるので、教会本質の根が「いかにして救いに至るのか」という問題と直結しているというのである。彼は使徒言行録15章に記録されたエルサレム会議の事例を引き合いに出し、初代教会の時代からすでに「信仰のみで救いを得るのか、それとも律法的行いや功績が加えられなければならないのか」という本質的な対立があったと指摘する。そしてこの葛藤は、現代の教会においても形を変えて繰り返されていると分析する。 実際、パウロとバルナバが異邦人への宣教を行い、福音の核心を「恵みによる救い(ソラ・グラティア)」だと明言したとき、エルサレムから下ってきたパリサイ派出身のユダヤ人たちは「割礼を受けなければ救われない」と主張した。これは結局、律法的義務や人間の功績が救いの条件に含まれるべきだという意味であり、張ダビデ牧師はこれを「功績信仰」あるいは「人本主義的救済論」と呼ぶ。彼が見るところ、あらゆる教理論争の成敗は「主イエスの恵みによって救われると信じるか、そうでないか」にかかっており、この視点こそ教会の生命線を成す核心だと考えている。 これに関連して、ガラテヤ書でパウロが力強く宣明した「行いではなく、恵みと信仰によってのみ救われる」という真理は、教会がしっかりつかむべき最も重要なメッセージだという。パウロの「御霊によって始まったのに肉によって仕上げるのか?」という問いかけもまた、人間が自分の義を掲げて行いや儀式を救いの前提条件にしようとする際に生じる誤りを、断固として指摘するものである。張ダビデ牧師は、ここで言う救済論が決して律法の廃止を意味しないことをあらためて強調する。律法は神が与えた尊い御言葉であり、聖徒が聖なる生活を歩む道を指し示す標識ではあるが、救いの必要十分条件として絶対視してはならないということだ。それは使徒言行録15章でペトロが「私たちの先祖たちも、私たち自身も負うことのできなかったくびき」と呼んだ律法主義的要求と軌を一にしている。 この問題は現代の教会でも繰り返し現れる、と彼は見ている。教団や総会が開かれるたび、あるいは宣教地で新しい教会を開拓するときなど、「信仰によってのみ義とされる」という宗教改革以来の原理が果たして十分に守られているのかを点検すべきだというのである。ときには教会の運営や拡張、教勢や財政的理由が優先されるあまり、本質的な救済論が希釈される事例が生まれることがあると、張ダビデ牧師は警告する。彼はこれを「ぶどう酒に水を混ぜて味を薄めてしまうこと」だと比喩し、教会が存在する限り、この問題は絶えず思い起こすべき核心教理だと主張する。 もし救済論が乱れると、教会は人本主義的な宗教へと変質する危険が高く、最終的には愛と力を失ってしまうと彼は指摘する。律法主義や形式主義に陥ると、聖徒たちは救いの確信を失い、さまざまな制度や儀式に縛られて自由を享受できなくなるからだ。張ダビデ牧師がローマ書1章17節の「義人は信仰によって生きる」という御言葉を繰り返し強調するのも、同じ文脈からである。初代教会の論争や中世カトリック教会の免罪符問題、現代教会の制度的誤謬や葛藤も、結局その本質は一つに帰結する。つまり「ただイエス・キリストの恵みが救いへの唯一の通路なのかどうか」であり、そこに人間の功績や律法的行いを付け加えようとするたびに、教会は方向を見失ってきたのだと彼は語る。 このため、張ダビデ牧師は教会のあらゆる働きの中で、絶えず救済論を点検すべきだと力説する。礼拝と説教、牧会者の育成や神学校のカリキュラム、教団総会での信仰告白書や憲法を確定する作業、宣教地の教会開拓や信徒教育に至るまで、すべての領域において「恵み中心の信仰」が揺らいではならないというのである。使徒言行録15章のエルサレム会議が初代教会全体に与えた教理的・霊的影響力を、現代の教会が引き継ぐべきだと見るのもこの理由による。パウロとバルナバが異邦人宣教を拡張する中で経験した葛藤は、実は今日の世界各地の宣教現場や教会制度の中でも繰り返されており、その繰り返しの是非は結局、「ただ恵み、ただ信仰」という福音の核心がどれだけ強調され、守られているかにかかっているというのである。彼は、これが決してほかの要素で代替されることのない絶対的なものだと何度も言及し、結論づけている。 Ⅱ. 恵み中心の宣教と世界教会の拡張張ダビデ牧師は、教会が世界宣教のために存在するという点をいつも強調している。使徒言行録15章のエルサレム会議を「歴史上初の教団総会」と捉え、初代教会が異邦人への宣教拡張を巡って直面した問題が、現代の宣教現場にもそのまま適用されるという事実に注目する。教会が「ただ恵みによって救われる」という本質を守るとき、その福音の力が文化や人種の壁を乗り越えて効果的に伝わる、というのが彼の核心的論理である。 彼はヨーロッパ教会の宣教史を例に挙げながら、一方では文化的優越感によって現地の伝統を抑圧し、また一方では過度に妥協してキリスト教のアイデンティティを希釈してしまった事例が、いずれも問題を引き起こしたと指摘する。これは使徒言行録15章において「割礼をはじめとしたユダヤ文化や律法が異邦人教会の救いの条件になるべきか」という問いと直結する。あのときエルサレム会議でペトロが「わたしたちは彼らも同様に主イエスの恵みによって救われると信じている」と公言したことは、長年の選民意識や律法的救いを手放し、異邦人も同じ恵みのうちにあることを公認した意味を持つ。 張ダビデ牧師は、この場面が現代におけるあらゆる宣教の根本原理として拡張されるべきだという。教会が特定の文化圏を無批判に受け入れたり、逆に極端に排斥したりしてはならず、いかなる場合も福音の本質が損なわれてはならない。最終的に問題となるのは、「イエス・キリストの十字架と復活」という福音の核心が希釈されるか、きちんと維持されるかにかかっている。彼は日本宣教やさまざまな海外宣教の事例を挙げつつ、現地文化を尊重しながらも救済論の本質を守ることこそ、長期的に福音が確実に根付く道であると説明する。 教会が宣教の方向性を定め、教団レベルで国際協力の戦略を立てるときにも、こうした神学的アイデンティティと救済論的な根が揺らいではならないというのが、張ダビデ牧師の確固たる見解である。過度な同化主義や規範だけを押しつける画一主義をともに警戒する必要があり、そうでないと文化的衝突を招いたり、福音そのものが変質してしまいやすいからだ。彼にとって使徒言行録15章は、遠心力と求心力の調和を示している場面である。福音が広く伝わる宣教的な遠心力と、「ただ恵み」という求心力がバランスを保つとき、教会は分裂せずに本質を守れるというのである。 さらに彼は、宣教現場に入り込む異端的な教えを徹底的に警戒すべきだと強調する。歴史的に見ても、免罪符や聖地巡礼、特定の規則履行による救いの条件付与などは、「ただイエス・キリストの恵み」という福音の核心を曇らせる代表的な事例だ。ガラテヤ書でパウロが「ほかの福音はない」と警告したように、何が救いへの唯一の道であるかを明確にしなければ、教会は結局、葛藤と混乱に陥る。したがって張ダビデ牧師は、宣教的な拡張を図る過程においても、教会自らの制度や職制、信仰告白を常に点検し、その中心軸に「恵み中心の救済論」が据えられているかを確認する必要があると言う。救済論のバランスが崩れると、教会は数字や外形的な成長にかかわらず、本質を見失い分裂を経験するからだ。 そうした意味で、宣教の成功を単に教勢拡大や財政増加で判断することはできず、福音の真理がどれだけ明確に宣べ伝えられ、実践されるかが基準になると主張する。使徒言行録15章で決定された「ただ恵みによって救われる」という宣言が、異邦人教会の存立基盤となったように、現代の教会が同じ確信を堅持する時にこそ、真の世界宣教が可能になると彼は信じている。そこに教会の神学的アイデンティティと文化的柔軟性が適切に調和するとき、パウロとバルナバがアンティオキアを拠点にして福音を広げていったようなダイナミズムが、今も再現され得るというのである。 Ⅲ. 神学的葛藤と教会秩序への提言張ダビデ牧師は、教会史を研究し現場を経験する中で、教会内外で発生する神学的葛藤がどのように解決されるべきかを深く考えてきた。彼は使徒言行録15章のエルサレム会議を通して、「歴史上初の教団総会」が既にどんな模範を示したかに注目する。初代教会の指導者たちは、単なる多数決によって結論を下したのではなく、旧約聖書をはじめとした神の歴史的摂理を振り返りつつ、聖霊の実際的な働きを共に確認した上で結論に到達した。ペトロの告白や、バルナバ・パウロの異邦人宣教報告、ヤコブによる旧約引用が結び合わされ、「神が異邦人たちにも同じ恵みを与えられた」という事実を宣言し、「わたしたちにも彼らにも差別はない」という確固たる結論に達したのである。 彼はこの過程を教会の「合意的決断」と呼び、教団総会が開かれるたびにまず見極めるべきは「その争点が福音と救いにかかわる本質的な問題なのか、あるいは教会運営上の行政的・政治的葛藤なのか」という点だと述べる。行政的問題であれば充分な対話や手続きの改善によって解決できるが、救済論と直結する核心的争点であれば、中立的に妥協したり、適当に折衷案を取って合意を図るような扱いではいけないというのが彼の立場である。「福音の本質」はいかなる形でも曖昧になったり妥協されたりしてはならず、この問題に関しては結局、「ただ聖書(Sola Scriptura)」と「聖霊の導き」のもとで確実に結び目をつけなければならないと主張する。 彼は、教会内で繰り返し登場する仮現説やグノーシス主義、リベラル神学などは、人間の理性や経験、知識を通じて福音の絶対的本質を再解釈しようとする試みに起因すると診断する。しかし、こうした試みは「ただ恵み」という原則を損ないやすく、最終的に教会を律法主義や功績主義、さらには人本主義へと導いてしまう。かつての初代教会や宗教改革時代にも、こうした誤りが絶えず現れ、現代にも形を変えて繰り返されているという。 結局、教会が神学的葛藤を健全に解決するには、「聖書へ立ち返る原則」と「聖霊の証しを尊重する態度」、そして「共同体内の一人ひとりの意見を開かれた形で傾聴する合意のプロセス」が不可欠だと彼は説く。使徒言行録15章においても、ペトロやパウロのような著名な使徒一人の独断的決定ではなく、初代教会の指導者たちが一堂に会し、各々の証言を共有しながら旧約聖書の解釈を共に分かち合った末に結論に至った事例であることが重要だ。こうした合意的決断がなされたとき、教会は救いの本質を損なうことなく葛藤を解決し、福音の自由と恵みを守り続けられるという。 彼が現代教会の分裂や異端問題を見て下す結論も同様である。「主イエス・キリストの十字架によってのみ罪の赦しを得て、その恵みを信じる信仰によってのみ救われる」という事実が曖昧になるたび、問題が生じてきたというのだ。職分や儀式、献金制度、洗礼のやり方、聖餐式などは教会生活の中で非常に重要ではあるが、それらを救いの条件として格上げした瞬間、初代教会が享受していた福音の自由と力は失われてしまう。教会の多様な制度や伝統は、恵みをより豊かに享受し分かち合うための通路であって、救いの前提条件であってはならないということを常に喚起する。 張ダビデ牧師は、このような文脈から教団総会を「恵みの福音を再確認する礼拝と献身の場」として活用すべきだと力説する。彼は総会が教権争いの場や政治的な舞台へと転落してしまうとき、教会は停滞を招いてきた歴史を指摘し、真のエキュメニカル精神は神の御言葉と聖霊の導きの前で互いに謙虚に耳を傾け合う態度から生まれると語る。そうしてこそ、初代教会が持っていた生命力ある決断が再現され、愛と仕え合いの精神が教会に息づくようになるという。 彼が現場の牧会と教団のリーダーシップを通して強調するのも、結局「仕えるリーダーシップ」である。イエス自ら「仕えられるためではなく仕えるために来た」と仰ったように、教会の職分者は権威を誇示するのではなく、他者を立て助け、多くの魂が福音を聞き恵みにあずかれるように献身すべきだというのだ。もし教会が覇権主義や階級主義へと傾けば、人間の制度や功績が際立ちはじめ、福音の恵みは後ろへ追いやられてしまう。総会や教団レベルのあらゆる決定で優先されるべき問いは「誰がより偉いのか?」ではなく、「どうすればより多くの魂をイエス・キリストの恵みのうちに招くことができるのか?」であるべきだという。 結局、張ダビデ牧師は、初代教会と現代教会の葛藤の様相は本質的には変わらないと診断する。使徒言行録15章に表れた異邦人教会とユダヤ人教会の衝突は、現在でも似たような葛藤として繰り返されており、その解決策もまたパウロやペトロ、ヤコブらが示したように「ただ恵み、ただ信仰」を基準にするとき、はっきりしてくるというのである。エルサレム会議がすべての教会と教団、さらに宣教地で絶えず参照されるべき原型(アルケタイプ)として残っているのはそのためだ。さらに宗教改革の伝統である「ただ聖書、ただ恵み、ただ信仰」というスローガンとも精巧にかみ合っている点を強調する。 最後に彼は、教理や救済論が単に知的理解にとどまらず、実際の生活の中で愛と仕え合いとして現れなければならないと説く。「恵み」という概念は抽象的な教理や神学的宣言ではなく、罪人だった人間がイエス・キリストによって罪の赦しを得て新しい命を得たという確信であるがゆえに、この恵みを真に悟れば、他者に仕え、共に立て上げようとする動機が自然に生まれるからだ。もしそれがないなら、パウロがコリントの信徒への手紙一13章で指摘したように、「どれだけ多くの知識があっても、愛がなければ何の役にも立たない」という結論に至らざるを得ないと彼は主張する。 かくして張ダビデ牧師は、教会の本質と救済論に対する理解、恵み中心の宣教と世界教会の拡張、そして神学的葛藤と教会秩序の問題を有機的に結びつけて論じる。教会がなぜ存在し、福音とは何であり、どのように拡張され守られるべきかを総合的に考えるときにこそ、初代教会が示したダイナミズムが再現され得ると見るのである。そして使徒言行録15章のエルサレム会議は、この旅路において現代でも最も具体的かつ実際的な指針として機能すると言う。張ダビデ牧師は、各時代において形こそ変われど本質的には同じ葛藤と挑戦に直面してきた教会が、結局「ただ恵み、ただ信仰」という福音の中心軸を握りつつ世界へと前進し続けなければならないと結論づける。そしてそのために教会が教団総会でも宣教現場でも、常に救済論を再確認し、聖書の御言葉と聖霊の導きに依拠し、愛と仕え合いの共同体を目指すべきだと重ねて強調する。それこそが初代教会が持っていた熱情と力を、今日同じように経験する道だと彼は確信しているのである。

Only grace – Pastor David Jang

I. The Essence of the Church and Soteriology: By Grace AlonePastor David Jang consistently emphasizes that when discussing the essence of the church, one must place soteriology at the very center. Because the church’s most fundamental purpose is to proclaim salvation through Jesus Christ, the question of “how we are saved” is directly connected to … Read more

오직 은혜 – 장재형목사

Ⅰ. 교회 본질과 구원론: 오직 은혜 장재형목사는 교회의 본질을 논할 때, 구원론을 중심에 두어야 함을 일관되게 강조한다. 교회가 존재하는 가장 근본적인 목적이 예수 그리스도를 통한 구원의 소식을 전하는 것에 있으므로, 교회 본질의 뿌리가 곧 “어떻게 구원에 이를 수 있는가”라는 문제와 직결된다는 것이다. 그는 사도행전 15장에 기록된 예루살렘회의 사례를 예로 들며, 초대교회 시절부터 이미 “믿음으로만 구원을 얻는가, 아니면 율법적 행위나 공로가 더해져야 하는가?”라는 본질적 대립이 있었다고 지적한다. 그리고 … Read more

La Chute et le Salut – Pasteur David Jang

Voici un compte-rendu de l’enseignement prêché par le pasteur David Jang au sujet de la « chute de l’homme, de l’identité de Satan et de la façon dont le croyant doit y faire face », en s’appuyant principalement sur Genèse 3 et 4. L’exposé englobe également les textes de la Création (Genèse 1 et 2), … Read more

堕落与救赎——张大卫牧师

以下内容整理自张大卫牧师围绕《创世记》第3章和第4章所做的主题讲道,着重探讨“人类的堕落、撒但的真面目,以及信徒当如何应对”的信息。此信息还结合了《创世记》1、2章有关“创造”的经文,并延伸至《以赛亚书》14章、《以西结书》28章、《启示录》12章等相关段落,最终与主祷文中“不要使我们遇见试探”这句祈求相衔接,深入阐释了张大卫牧师所传达的宝贵教训。内容主要讲到:上帝所造的受造物当中,为何会出现撒但?撒但又是如何诱惑人类?信徒应以何种态度应对魔鬼的诡计?等等。 1. 人类的堕落与撒但的战略 张大卫牧师之所以强调要集中研读《创世记》第3章和第4章,正是因为这两章清晰展现了人类堕落的过程以及其根源所在。《创世记》1、2章记载了上帝创造宇宙万有的过程:祂在黑暗中造光,将天与地分开,又造海洋、陆地以及各种生物。最终,在这一切创造的巅峰之处,上帝按自己的形象造了人,创造了男人和女人。张大卫牧师指出,《创世记》1、2章是理解之后人类堕落(3章)与后裔该隐问题(4章)的前提;因为只有先知晓“起初的世界是良善与完美的,没有罪和死亡”,才能观察到其中究竟发生了怎样的“变质”。 然而,到了《创世记》第3章,意想不到的一个存在出现了——“耶和华上帝所造的、比一切田野的活物更狡猾的蛇”。这条蛇接近亚当和夏娃,抛出一个质疑上帝话语的问句:“上帝岂是真说不许你们吃园中一切树上的果子吗?”张大卫牧师指出,这个问题正是人类与撒但接触的最核心关口——要么顺从“上帝所说的话”,要么人类自立标准而违背上帝,走上不归之路。 蛇对夏娃说:“你们不一定死”,这是明显的谎言,却同时极具诱惑力。上帝曾警告:“分别善恶树上的果子,你不可吃;你吃的日子必定死。”照理,凡相信并遵行上帝话语者自会怀着敬畏和警惕;但蛇又加一句“你们不只不会死,而且还会像上帝一样聪明”,煽动起人内心深处的骄傲与私欲。张大卫牧师在这里阐明撒但行事的特点:它会彻底曲解上帝的话,并以看似合理、却暗藏杀机的逻辑或牵强解释,使信徒从“以上帝为中心”一步步滑向“以自我为中心”。 牧师特别注意到夏娃的反应:“那女人见那棵树的果子好作食物,也悦人眼目,且是可喜爱的,能使人有智慧。”这里包含了从“视觉上看见”(看上去可口诱人)→“亲手触碰”(实际接近)→“口中吃下”(付诸行动)的一连串犯罪机制。罪往往从小小的好奇开始,却最终玷污整个人的心思意念,直至带来死亡。 张大卫牧师将这处经文与主祷文“不要使我们遇见试探”紧密相连,指出人所能遭遇的最大试探之一便是“想要取代上帝的位置”,也就是骄傲。人原本是上帝所造、当顺服祂才能得福,却往往想要自掌善恶,成为自己的标准。蛇正是利用了这一点,引诱人自作主张。张大卫牧师认为,这正是整段堕落叙事的核心。 接着,在《创世记》第3章中,亚当和夏娃终于吃了禁果。其首要后果就是二人彼此感觉羞耻,“看见自己赤身露体,就拿无花果树的叶子为自己编做裙子”。同时,当上帝在园中行走时,他们竟害怕而躲藏起来。这些细节充分象征了罪带来的结局:在上帝面前产生羞耻(灵里的羞愧),人开始为自己寻求防御措施(无花果叶子做的裙子),最终远离上帝的同在(躲藏)。 《创世记》第3章的末了,上帝宣告了更彻底的审判:“你本是尘土,仍要归于尘土”,“那人已经与我们相似,能知道善恶,现在恐怕他伸手又摘生命树的果子吃,就永远活着”,于是上帝阻止了人得着永生的通路。撒但最初的谎言是“你们不一定死”,结果却是“人必定要死”。张大卫牧师提醒大家,人类的堕落并非只停留在夏娃吃果子的那一刻,而是成为全人类的原罪——至今,我们都生在这罪性影响之下。 而翻到《创世记》第4章,亚当的后代该隐之事进一步说明了这种罪性如何加速蔓延。该隐因忌妒弟弟亚伯,最终竟把亚伯杀死,可见“以自我为中心的欲望”会何等迅速地发芽结果。张大卫牧师将此视为“撒但所挑起的堕落在另一个层面的扩张”,从个人到家庭,甚至到社会,罪不断扩散。自从罪进入人心,“蛇的谎言”便更容易左右人,使人滑向手足相残的极端罪恶。 细读《创世记》第4章,可见该隐多么自我中心。圣经载明:“耶和华不看中该隐和他的供物。”为什么上帝不悦纳该隐的祭物?对此众说纷纭,但张大卫牧师强调要聚焦于祭物所折射出的“内心动机”。或许该隐心里并非真正把最好的、最尊崇的献给上帝,而是基于自己的方式和想法去“敬拜上帝”,或者只是勉强履行义务罢了。这样一来,上帝自然不会悦纳。后来引发的嫉恨和怒气,更促使他走向杀害弟弟的歧途。 《创世记》3、4章给当代信徒的警示颇为清晰:罪的起点往往是一点疑惑或不信,但若听凭其在心中滋长,就会发展出骄傲、曲解上帝话语、自我中心等态度,最终带来属灵的死亡、人际冲突,甚至杀戮。张大卫牧师强烈呼吁每个基督徒都要回顾这“原初的堕落模式”,从而更深体会为何新约里耶稣基督要来解决这问题。因为若不明了罪性的根基,人就难以真正感受到主耶稣所成就的赎罪与十字架恩典何等伟大。 他继续强调:正是上帝的儿子道成肉身,来恢复上帝原本为人所设计的完美计划。所谓“堕落的开端是‘像上帝一样’的妄想”,而耶稣却以《腓立比书》第2章记载的方式“虚己、取了奴仆的形象”,完全顺服,以此彻底击溃撒但唆使的骄傲。耶稣本是上帝,却甘愿卑微至死,而这正是胜过罪与撒但的方式。故此,真正的救恩之路也是“舍弃骄傲,走谦卑顺服的道路”。张大卫牧师称,借着对《创世记》3、4章的正确认识,我们更能体会:若人不认清罪的根源,就无法真正珍惜耶稣代赎的大爱。而上帝差派爱子,正是要恢复那原本失落的恩典。 由此,他提出,“学习《创世记》3、4章的目的之一,是让我们看清撒但的战略及人性弱点,并在主面前谦卑悔改,不再陷于蛇的诱惑”。要做到这一点,需要我们天天默想上帝的话语,并在教会群体的真理光照下谨慎自省,免得落入自我中心、曲解真理的陷阱。我们应当常常追问:“这真是上帝要我们做的吗?”并且祈求主:“不要使我们遇见试探,救我们脱离凶恶。”保持谦卑警醒,不给撒但留地步,这就是张大卫牧师不断传讲的要义。 2. 撒但的真面目与堕落的天使 张大卫牧师指出,圣经在《启示录》第12章里揭示了那蛇的真实身份,就是“撒但、魔鬼、大龙”。《创世记》第3章出现的蛇,不只是单纯的动物,而是背后代表了“背叛上帝的堕落天使长”或“天使势力之首”。若只把蛇看成一条一般的野兽,就会忽略整本圣经所传达的救赎历史脉络。撒但、路西弗(Lucifer)、魔鬼、大龙、那迷惑普天下的,都指向同一个根源——它本是上帝所造的天使之一,却因心中骄傲,想要与至高者同等,最终堕落成堕天使群的首领。 张大卫牧师引用《以赛亚书》第14章与《以西结书》第28章的“巴比伦王”“推罗王”比喻,说明那些经文的背后暗指撒但。尤其在《以赛亚书》第14章,“明亮之星,清晨之子啊,你何竟从天坠落?你这攻败列国的,何竟被砍倒在地上?”可见“明亮之星”(在拉丁文圣经里作Lucifer)原本在上帝身旁发光,却心生叛逆。“我要升到高云之上,我要与至上者同等”,这是撒但最本质的罪,也是它被摔到深渊的主因。 同理,在《以西结书》第28章,“推罗王”的比喻中提到原先受膏遮掩约柜的基路伯曾在伊甸园,但因罪而被废黜,象征初始的堕落早在人类之先就发生于天使界。张大卫牧师说:“透过这些经文,我们明白不仅人类会犯罪,还有一个主动引诱、攻击、倾覆人类的灵界势力存在。这正是教会必须进行属灵争战的重要原因。” 《启示录》第12章中描绘大龙被摔下,“那古蛇名叫魔鬼,又名撒但,是迷惑普天下的”,带着天上三分之一的星辰一同坠落。这表明堕落的天使数量极其庞大,它们一起背叛了上帝,现今占据空中权势,不断诱惑、迷惑世人,甚至操纵世上的执政掌权者做恶。保罗在《以弗所书》第6章说:“我们并不是与属血气的争战,而是与那些执政的、掌权的、管辖这幽暗世界的、以及天空属灵气的恶魔争战。”正是说明此理。 张大卫牧师提醒,若不明白这灵界战争的实情,我们就容易把许多问题只看成人与人之间的冲突、或制度方面的缺失,却忽略背后的恶势力。事实上,撒但常常透过强权、君王、政权以及各样欲望来实施它的计划。埃及法老用酷刑对付以色列人,或巴比伦王、亚述王暴虐征服四方,这其中都潜藏着撒但“骄傲与暴力”的属性。撒但最渴望的是颠覆上帝的荣耀,让人们去拜偶像,把原本该归于上帝的敬拜转移给它自己。 在旧约时代,各类偶像层出不穷,背后正是撒但要夺取敬拜的图谋:巴力崇拜让人陷入淫乱;摩洛崇拜竟要求用活人献祭;金牛犊崇拜象征对财富和物欲的敬畏。张大卫牧师认为,这一切偶像崇拜背后都有撒但“骄傲与强力支配”的影子,它诱导人离开真神,使人沉迷于淫乱、暴力和自我满足。 这种诱惑并非只存在于旧约时代,新约时代乃至今天仍然如此。耶稣在旷野禁食40天时,撒但曾亲自试探祂三件事:“你若是上帝的儿子,就叫这些石头变成食物吧”“你可以从圣殿顶上跳下去,天使会保护你不受伤害”“你若拜我,我就把万国的荣华都给你”。张大卫牧师指出,这正是撒但试探人的典型模式:挑动肉体(食物)、名誉与炫耀(奇迹)、物质与权势(世上的荣华),从而动摇人的信心。耶稣以“经上记着说”——也就是引述《申命记》的话语每次回击,撒但便无计可施,只得离开,随后天使前来伺候耶稣。这个事件对信徒而言意义重大:若我们熟悉并坚守上帝的话语,就能抵挡撒但所施加的骄傲与贪欲试探。 张大卫牧师进一步说明,这场属灵争战一直延续到今天。当我们有意无意地想要“自己判断善恶”、或“以自我标准凌驾于圣经之上”时,实则正附和撒但的逻辑。即便在教会内部,也可能出现这种现象。福音书里法利赛人和文士抵挡耶稣,拒绝承认祂的权柄,甚至说祂被鬼附、祂违背安息日,这表面披着宗教外衣,却恰恰是站在撒但一边。耶稣称他们为“毒蛇之种”,直言他们无法逃避地狱的刑罚;反倒是那些承认自己有罪、愿意悔改的税吏和妓女,却蒙了主的怜悯与拯救。 《犹大书》1章6~7节也提到那些“不守本位、离开自己住处的天使”,上帝用锁链把他们永远拘留在黑暗之中;有些堕落天使当下就被锁住,有些仍在游荡诱惑人,成为邪灵。《约伯记》1、2章里,撒但以“控告者”身份出现,对上帝说:“约伯岂是无缘无故敬畏你?你若夺去他的一切,他必定当面咒诅你!”于是上帝许可约伯遇到种种苦难。通过这件事,我们看见撒但的“控告”和苦难有时会临到义人,但同时,也看到约伯依然在苦难中敬畏上帝,最终证明撒但的指控是虚假的。张大卫牧师借此说明,上帝为何不马上消灭撒但,也部分允许它活动:撒但控告“人都是有条件才信上帝”,而上帝让苦难发生,反倒在信徒身上彰显更真实的信心,使撒但的指控彻底破产。 从人的角度看,这确实难以理解并痛苦不堪。张大卫牧师指出,我们可能也会困惑:“上帝为何不一下子把撒但灭掉?”但《约伯记》的结局中,约伯比从前更深经历上帝,物质也被加倍赐福,更重要的是他的灵性更成熟。同理,当我们经历试探与苦难,若能持守在话语和祷告中,便能胜过“撒但的控告”。这也正是主祷文里“不要使我们遇见试探,救我们脱离凶恶”背后的真实含义。张大卫牧师强调:“试探不可能完全没有,我们要祈求在试探里得胜!” 综而言之,撒但就是“路西弗,早晨之子”,那原本是天使长,却骄傲背叛,如今寻机吞吃人的大仇敌。然而,耶稣基督在十字架上已经揭露且击败它,最终的审判也早已为它预备。张大卫牧师提醒道:“我们绝不能忘记这一事实。撒但必定失败!”主对门徒说:“我曾看见撒但从天上坠落,像闪电一样”(《路加福音》10章),预示它的败局已定。信徒能奉耶稣的名赶逐邪灵,可是这权柄只有那些谦卑顺服基督、跟从祂脚踪的人才能行使。撒但是因骄傲而堕落;信徒则要因效法耶稣的谦卑而得胜。 3. 信徒的应对与属灵的得胜 张大卫牧师反复强调的结论是:信徒必须倚靠主的教导和圣灵的大能,勇敢抵挡并胜过撒但的权势。前面所提的《创世记》3、4章中人类堕落的起源、《以赛亚书》14章和《以西结书》28章里撒但的骄傲与被审判、《约伯记》的试炼、《启示录》12章的属灵争战,全都与“上帝的救恩历史”息息相关。上帝为了拯救人类、赐人脱离撒但谎言的自由,差派了祂的儿子。耶稣基督作为“第二个亚当”,推翻了第一个亚当的失败,完全胜过撒但的试探,并在十字架上作了完美的赎罪祭。张大卫牧师说:“这正是我们祈求‘不要使我们遇见试探’的根基,也是在基督里我们所享有的奇妙特权。” 主祷文里“不要使我们遇见试探,救我们脱离凶恶”的祈求,也可视为:“上帝啊,求你保护我,脱离蛇的诱惑、撒但的欺骗,并以圣灵掌管我心中的骄傲和自我中心。”张大卫牧师鼓励信徒每天都要实际地这样祷告,因为无论我们在教会中有多老练,每个人心中仍潜藏着来自撒但的“基因”,那就是随时想要抬头的骄傲欲望。一旦它冒出来,我们就要赶紧跪下呼求:“主啊,我愿意让出我作王的宝座,唯独祢才是我生命的主。” 当然,这条路绝不轻松。耶稣在客西马尼园里也曾艰难地祷告:“我父啊,倘若可行,求你叫这杯离开我。然而不要照我的意思,只要照你的意思。”张大卫牧师指明,这就是真实信仰生活的写照:真正的顺服,是放下“我的心意”,去成全“上帝的旨意”。若这件事轻而易举,那么所有人都能做到了。问题是“魔鬼往往在最薄弱处猛烈攻击”,并以“我帮你立刻解决一切”“这没什么大不了”之类的甜蜜谎言来迷惑人。这时,信徒需效法耶稣,坚决说:“不要照我的意思,只要照祢的意思”,并借着不间断的祷告、灵修以及在教会共同体的彼此代求与劝勉,继续打那美好的仗。 张大卫牧师进一步补充:“我们天生就是要在上帝面前谦卑俯伏的受造物,但撒但不断蛊惑我们‘自己判断善恶’、‘自己登上宝座’。骄傲之路看似甜美,却通向灭亡和灵魂的死亡;而谦卑之路起初艰难,却通往永生与复活的荣光。耶稣就是这样走过,之后复活得荣耀。我们也当如此效法。”这正与《腓立比书》第2章6~11节所讲的“基督耶稣的心”为核心:主耶稣本有上帝的形象,却虚己,取了奴仆形象,并顺服至死,因此被赐予超乎万名之上的名。谦卑顺服正是“神国度”的精髓,撒但无从效仿。 然而,若只停留在“头脑认知”层面,我们仍容易在生活中再次跌入撒但的陷阱。为防止这种情形,张大卫牧师大力强调“圣灵充满”与“话语充满”。耶稣在旷野试探时,每一次都用“经上记着说……”击退撒但;我们同样需要用上帝的话语照亮自己,正视《创世记》3、4章揭示的人性堕落事实,并时常祷告说:“主,我是软弱的。我的里面也有撒但播下的骄傲与贪婪。惟愿祢的道洁净我,不要让我陷入试探!”圣灵会将上帝的话语活化在我们内心,当我们不断用真理光照、并为自己私欲悔改认罪时,骄傲自然被挪去,我们就能以“以上帝为中心”的方式去作判断和抉择。 此外,张大卫牧师还强调另一个关键:“我们并不孤单,教会共同体与我们同在。”撒但经常想把人孤立,使人独自承受试探和挣扎——人一旦落入孤军奋战,便会渐渐远离真理,甚至自以为是。但若把苦恼、忧虑坦白分享给牧者、同工、小组长或属灵同伴,让自己的光景被置于“光明中”,那么撒但的黑暗诡计就失去藏身之处。正如光一来,黑暗必然消散;而若有人始终把罪或软弱隐藏,魔鬼就有可乘之机。《雅各书》也说“你们要彼此认罪,互相代求”,目的在于让教会在彼此敞开的状态下破除魔鬼的埋伏。 主祷文的集体宣告也有类似的力量。当教会一同颂念“不要使我们遇见试探,救我们脱离凶恶”时,这简短的一句就成为极其强大的属灵武器。耶稣亲自教导这祷文,其中蕴含极深的真理;若全教会同心合意祈求,圣灵必然大大安慰、赐力量。张大卫牧师说:“主祷文既是教会群体的祈祷,也是个人的祈祷。教会应当成为一起抵挡撒但的属灵军队。”当我们在祷告与研经上持续操练,就会在实际生活中也经历胜过罪与骄傲的得胜。 总之,从《创世记》3、4章对人类堕落的记载,到《以赛亚书》14章、《以西结书》28章关于撒但如何因骄傲而堕落,再到《启示录》12章的天上战事,我们看见撒但不断利用人原本就有的弱点,煽动“我要自定善恶标准”的那颗骄傲之心。但耶稣却以彻底的谦卑、顺服至死扭转了局面;信徒也能在祂的得胜中同得胜利。若我们坚心祈求“不要使我们遇见试探,救我们脱离凶恶”,并时常回到话语中,撒但就无法真正掌控我们。 张大卫牧师总结:“我们的争战已经是得胜之战。主耶稣摧毁了一切‘骄傲’,并替我们付清罪债。然而,在我们还活在肉身之日,撒但如吼叫的狮子,四处寻找可吞吃的人,所以我们仍要警醒。但不必惧怕,因为光明的主与我们同在,黑暗永远无法胜过祂。”当我们实际操练把耶稣的胜利据为己有,日日在灵修与祷告中谨慎自守,就能更多经历与罪断绝、与撒但分离的自由。 因此,人当为起初想“做上帝”的罪心悔改,相信耶稣十字架所成全的救赎,并在圣灵带领下追求圣洁。正如张大卫牧师所言,这便是基督教核心教义,也是一切属灵生活的关键——“你们当以基督耶稣的心为心”(《腓立比书》2章)。基督的心从不骄傲,祂以至死的顺服赢得全胜;而撒但无法模仿也无法得胜。故此,信徒要警惕错误的自信或自以为义,常常省察自己,无论在何种境况都承认“上帝才是善恶的主宰”,我们只不过是受造的儿女和管家,当履行自己当尽的本分。 最后,张大卫牧师提醒,切勿过分惧怕撒但,也不可无视撒但的存在。撒但确实是人的仇敌,会借政治、权力等展开攻击,我们当保持防备。但我们也知道在基督里已经得胜,无须惧怕。只要我们认识那位谦卑至极的耶稣,并且坦然宣告并遵行祂的话,撒但就束手无策。“主祷文的能力”尤其不可小看,其中结尾“因为国度、权柄、荣耀,全是你的,直到永远”更是大能的宣告,让我们知道谁才是永远的真正主宰。 当我们综观以上内容,便会发现《创世记》3、4章所载的人类堕落,并非只是一段“过去的事件”。它反复在每个人心中上演,昭示我们骄傲与悖逆会带来多么深重的破坏;但也同时见证了上帝藉耶稣基督所成就的救赎何其宏大。上帝开启了一条道路,好让我们能回到最初受造时的圣洁。张大卫牧师强调,若我们选择跟随主,就要“用谦卑代替骄傲、用顺服代替悖逆、用光明代替黑暗”;这样,在每天的试探之中必能得胜,并最终获得永远的生命。 因此,他以劝勉作总结:信徒对主祷文里“不要使我们遇见试探”这句祈求,务必要认真对待。张大卫牧师说:“我们要时时用话语、祷告武装自己,并在教会团契的彼此光中敞开分享,杜绝骄傲所留下的破口。”如此一来,无论撒但在历史的角落如何兴风作浪,终究是个失败者,无法拦阻我们走在神指引的道路上。纵然当今世界混沌,人心价值多元,教会也面临各种挑战,只要我们始终坚信“善恶的主权不在于人,而在于上帝”,真理必使我们得自由。 最终,张大卫牧师想传达的结论十分明了:“每日默想《创世记》3、4章的教训,并且记得撒但如何因骄傲而堕落在《以赛亚书》14章、《以西结书》28章、《启示录》12章,以及如何在《约伯记》中控告人与在旷野试探耶稣的事例。勤背并操练主祷文,使它成为你实际的祷告,如此就能在各种诱惑中得胜。”这是他对信徒清晰的勉励和诠释,也是我们观看《创世记》3、4章的核心角度。与骄傲堕落的路西弗相对,比之,耶稣选择极度谦卑,故而获得“超乎万名之上的名”。这对比传递给信徒的功课是:自高终将坠入阴间深渊;自卑蒙恩者则必享永生。若牢牢持守这个真理,胜过骄傲的试探,便能结出神儿女该有的果实。愿众信徒都能一同行走这条道路。阿们。

堕落と救い ― 張ダビデ牧師

張ダビデ牧師が創世記3章と4章を中心に説教した「人間の堕落、サタンの正体、そして聖徒の対応」についてまとめた内容である。創世記1章と2章の「創造」、そして3章と4章の「堕落」、さらにイザヤ書14章、エゼキエル書28章、ヨハネの黙示録12章など関連する箇所を総合的に扱い、最終的に主の祈りの中の「試みに遭わせず(=試みに陥ることなく)」という願いと結びつけながら、張ダビデ牧師が伝える教訓を深く掘り下げている。神が造られた被造物の中でなぜサタンが生じたのか、そのサタンが人間をどのように誘惑するのか、そして聖徒はどのような姿勢で対峙すべきかを取り上げた内容である。 1. 人間の堕落とサタンの戦略 張ダビデ牧師が創世記3章と4章を重点的に考察すべきだと強調する理由は、人間の堕落がどのように起こり、その根源がどこにあるのかを余すところなく把握するためである。創世記1章と2章には、神が全宇宙万物を創造された記録が収められている。神は闇の中に光を創られ、天と地を分け、海と陸、そしてさまざまな生き物を造られた。そしてそのすべての創造の頂点として人間を造られたが、男と女を神のかたちに造られたのである。これが創世記1章と2章の核心である。張ダビデ牧師は、「創世記1、2章を正しく理解することが、その後に登場する人間の堕落(創世記3章)や、その子孫であるカインの問題(創世記4章)を理解するための不可欠な前提だ」と語る。なぜなら、創造そのものが善であり完全であり、罪や死が存在しなかった世界を神が造られたという事実をまず知ってこそ、そこからいかに“変質”が起こったのか観察できるからである。 ところが創世記3章に入ると、全く予想外の存在が登場する。それは「神である主が造られた野の獣のうちで最も狡猾な蛇」である。この蛇は人間、すなわちアダムとエバに近づき、「本当に神は、園のすべての木の実を食べてはならない、と言われたのか?」と問いかけ、彼らの心に疑念を呼び起こす。張ダビデ牧師は、この問いこそが人間とサタンの接点において最も重要な場面だと指摘する。なぜなら、「神が仰せになった言葉」に従うのか、それとも人間が自ら別の基準を立てて不従順に進むのかが決まる分岐点だからである。 蛇はエバに「あなたたちは決して死なない」と語る。これは明らかに偽りである一方、とても魅惑的な宣言でもある。なぜなら神は「善悪を知る木から取って食べてはならない。その実を食べる時には必ず死ぬ」と仰せられたゆえ、それをそのまま信じて従う者には恐れや警戒心が芽生えるからだ。だが蛇はその恐れを崩し、「あなたたちは死なないだけでなく、むしろ神のようになれる」と扇動する。張ダビデ牧師は、この箇所からサタンの作動原理と特徴が明らかになると述べる。サタンは全く自分勝手な悪しき目的のために、神の言葉を偽りへと歪曲する。場合によっては非常にもっともらしく見える論理や、自分の都合に合わせた解釈を持ち出し、結果的に聖徒を「神中心」ではなく「自己中心」の位置へと引きずり下ろすのである。 張ダビデ牧師は創世記3章でのエバの反応に注目する。エバはこの善悪の木の実を「見ると食べるのによさそうで、目に慕わしく、賢くしてくれそうで好ましく思った」と言う。ここには、「見ること」(視覚的刺激)→「手で取ること」(直接的アプローチ)→「口にして食べること」(実際の行為)へと進む、一連の罪のメカニズムが示唆されている。罪は往々にして小さな好奇心から始まるが、最終的には全人格を汚し、やがて死に至らせるものである。 張ダビデ牧師はここに「試みに遭わせないでください」という主の祈りの願いが深く結びついていると説く。人間が受けうる最も大きな試みの一つは「神の座に上ろうとする高慢」であり、サタンが鋭く突いてくる部分だからである。人間は本来、神の被造物としてその言葉に従うことで祝福を享受するよう造られたが、自ら善悪を判断する座、すなわち自分自身を基準とする座に上ろうとするとき、結局は蛇の誘惑に陥る。これこそが張ダビデ牧師が力説する核心的な要旨である。 創世記3章のこうした流れの中で、アダムとエバは結局、禁じられた実を食べてしまう。その結果として最初に現れた兆候は何か。お互いに裸であることを恥じ、いちじくの葉をつづり合わせて腰の覆いを作ったことだ。また神が園を歩まれるとき、「恐れて隠れた」と記録されている。これは罪がもたらす結果を明確に示す象徴だ。罪は神の前で恥ずかしさ(霊的な羞恥心)を生み、そのため人間は自ら防御策を作り出し(いちじくの葉の衣)、最終的にその臨在から遠ざかってしまう(隠れてしまう)。 創世記3章の最後では、より決定的な裁きが宣言される。「あなたはちりであるから、ちりに帰るのだ」「人が善悪を知ることにおいて我々の一人のようになったので、命の木にも手を伸ばして永遠に生きることのないよう、その道が閉ざされた」といったくだりは、人間が「不従順」と「自己中心的な高慢」を選んだ結果招いた悲劇的結末を示す。サタンの最大の嘘は「決して死なない」だったが、実際には「必ず死ぬ」結果へとつながったのである。張ダビデ牧師はここで私たちが忘れてはならない真理を強調する。すなわち、人間の堕落はただエバが善悪の実を取って食べた瞬間にとどまらず、その後すべての人類へと原罪として受け継がれ、今日私たちもその影響下に生まれるという点である。 創世記4章に進むと、アダムの子孫カインの物語が登場する。カインは弟アベルを妬み、ついには殺人にまで至る。これは「自己中心的欲望」がどれほど急速に広がり、罪と死の実を結んでいくかを鮮明に示す事例だ。張ダビデ牧師はカインの堕落を「サタンが引き起こした堕落のさらなる拡大」と解説する。創世記3章で個人的次元から始まった堕落が、創世記4章では兄弟間の殺人によって本格的に世に広がっていく。すでに罪が入り込んだため、人間の心は「蛇の嘘」にますます振り回され、ついには兄弟殺しという極端な罪悪に進んでしまったのである。 聖書を一章ずつ読んでいくと、創世記4章でカインがどれほど自己中心的に振る舞うかが如実に表れている。神は彼がささげた捧げ物を受け入れず、「カインとその捧げ物を顧みられなかった」と記す。なぜ神がカインの捧げ物を喜ばれなかったのか、さまざまな解釈があるが、張ダビデ牧師はその中心の動機に着目すべきだと言う。カインに現れたのは、「自分が望むやり方で神を拝もう」という姿勢だった可能性が高い。心の中心が最初から神に捧げられたものではなく、自己中心的な満足のため、あるいは義務感で捧げた供え物であったならば、当然、神はその捧げ物を喜ばれないであろう。そこで生まれた嫉妬や怒りが、弟アベルを殺す大きな罪へと発展してしまうのだ。 創世記3章と4章のこの叙事が現代に生きる私たちに示唆するところは明白である。罪の始まりはかすかな疑いであるが、それが心に蒔かれ放置されると、高慢と虚偽の解釈、自己中心的判断へと走る。そして人間はその結果、霊的死、他者との葛藤、果てには殺人にさえ至ってしまう。張ダビデ牧師は、すべての聖徒がこの「起源的堕落の様相」をはっきりと認識すべきだと強調する。そうすることで、新約においてイエス・キリストが来られ、この問題を解決されたという事実を、創世記3章と4章の正確な理解を通してより深く悟るようになるからだ。 張ダビデ牧師は、人間が罪の根を正しく悟らなければ、イエス・キリストの贖罪の働きと十字架の恵みがいかに大いなる奇跡であり愛であるかを知ることができないと語る。結局のところ、私たちは創造主なる神が人間に与えられていた完全なご計画から遠ざかったが、その計画を回復するために御子を送られたという壮大なみわざこそが救いの本質なのである。すなわち、創世記3章で蛇が持ち込んだ「神のようになりたい」という野心を、イエス様はピリピ書2章が語るように「ご自分を無にして、しもべのかたちをとられ」ることで真正面から打ち砕かれたのだ。イエス様は神であられたにもかかわらず、徹底的にへりくだり、死に至るまで従順となられることで、サタンが煽った高慢に打ち勝たれた。ゆえに救いもまた、「高慢を捨て、自らを低くする」キリストに従う道においてこそ実を結ぶ。 こうした観点から、張ダビデ牧師は創世記3章と4章を学ぶ目的の一つとして、サタンの戦略と人間の内面の脆さを発見することを挙げる。そしてそれを的確に認識し、主の御前で悔い改めることで、もはや蛇の誘惑に屈しない実践が必要だという。そのためには日々み言葉を黙想し、共同体の中で真理の光に照らされ、自らが誤った道に陥らないよう点検する過程が欠かせない。その過程で常に「本当に神はこれを望まれているのか?」を基準としつつ、「主よ、私を試みに遭わせず、悪からお救いください」と祈りながら自分を省みる姿勢が決定的に重要となる。高慢こそサタンが蒔く最も強力な武器であり、あらゆる罪や堕落を引き起こすがゆえ、聖徒は常に目を覚まして祈り、自らを低く保たなければならないというのが、張ダビデ牧師の教えである。 2. サタンの正体と堕落した天使たち 張ダビデ牧師は、蛇の正体が最終的には「サタン」「悪魔」「竜」であると黙示録12章で明確に示されている、と解説する。蛇は単なる象徴的動物ではなく、神に反逆した堕落した天使長、または天使の群れの頭が具現化した存在である。この観点から、創世記3章の蛇を単なる動物的なヘビだと読むだけでは、聖書全体が語る救いの歴史を見失いかねない。サタン、ルシファー、悪魔、竜、全世界を惑わす者など、聖書のあちこちで多様な呼称が登場するが、その根源は同一である。この存在は神が造られた被造物の一つであったが、自らの地位を離れて高慢を抱き「いと高き方のようになろう」と試みた結果、堕落した天使の群れとなったのである。 張ダビデ牧師は、イザヤ書14章とエゼキエル書28章に言及されている「バビロンの王」や「ツロの王」への比喩が、事実上サタンの姿、特にそれらの王たちの背後にある「堕落した天使」の姿を指し示していると説く。イザヤ書14章の表現を詳しく見ると、「暁の子、明けの明星よ。どうして天から落ちたのか。諸国を倒した者よ。どうして地に切り倒されたのか」とある。この「明けの明星」(ラテン語訳聖書ではルシファーLucifer)は、もともと神のそばで光り輝いていた天使長であったことを暗示する。それにもかかわらず、「北の果ての山の上に座ろう。いと高き方のようになろう」と心に抱き、反逆を企てた。それこそがサタンの本質的な罪であり、彼が奈落へと落とされた最大の理由である。 エゼキエル書28章においてもツロの王への比喩の中で、もともと「油注がれた守護のケルブ」としてエデンの園にいた者が、その仲間とともに堕落し、縛られていくというくだりが出てくる。これは「原初の堕落」が人間より先に天使の世界で起こったことを示している。張ダビデ牧師は、「私たちは聖書を通して、人間だけが堕落した存在なのではなく、人間を誘惑し陥れようとする霊的勢力が実在することをはっきりと知る」と強調する。そして、それこそ教会が霊的な戦いを担わなければならない重要な理由だと説く。 黙示録12章では大きな竜が追い落とされるが、「その古い蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれる者、全世界を惑わす者」とはっきり名指しされる。このサタンが天から落ちるとき、天の星の3分の1を引き連れて地上に落ちたとも記録されている。これは堕落した天使の集団がそれほど多いことを示している。サタンはただ一人で堕落したのではなく、彼を追従する天の軍勢の3分の1ほどが共に反逆したのだ。彼らは空中の権を握り、今もなお絶えず人間に誘惑と欺きの手を伸ばし、ときには支配者や権威者を通じて歴史に働きかける。エペソ書6章に「私たちの戦いは血肉に対するものではなく、支配者たち、権威たち、この暗闇の世界の支配者たち、天上の悪の霊どもに対する」とあるが、まさにこの文脈を指しているのである。 張ダビデ牧師は、この霊的世界を知らなければ、世の多くの問題を単なる人間同士の対立や制度の矛盾だけにとどめてしまい、見落とすことになると警告する。実際の歴史の現場では、サタンは隙間を見つけて権力者や悪の勢力を用い、陰謀をめぐらす。パロが神の民イスラエルを苦しめたときや、バビロンの王やアッシリアの王が周辺国を征服し、残酷に民を虐殺したとき、その背後にはサタンの本性である「高慢と暴力」が潜んでいるという。こうした流れの中で、サタンは常に自分自身を高め、偶像礼拝を助長する。旧約時代に数々の偶像が存在したのも、結局は神の栄光を横取りしようとするサタンの企みの一つの形にほかならない。 バアル礼拝は民を性的に乱れさせ、モレク礼拝は子どもを人身供犠として捧げるという恐るべき行為まで誘導する。金の子牛の崇拝は富や財産を中心に据えるマモン主義を代表する象徴となる。張ダビデ牧師は、こうしたすべての偶像の背後に「サタンの高慢と暴力性が潜んでいる」と語る。サタンは神が受けるべき栄光と礼拝を、自分が横取りするために偶像を発展させ、人間はその誘惑に負けて金の子牛の前で踊り狂い、モレクの前で子どもを火で焼いて捧げるという、無知で残酷な行為を犯してきたのだ。 そしてこのサタンの惑わしは、旧約時代だけでなく新約時代、さらに現代に至るまで続いている。イエスが荒野で40日断食をなさったとき、サタンは自らやってきて三つの試みをしかけた。「もしあなたが神の子なら、この石をパンに変えてみよ」「神殿の頂から飛び降りてみよ。そうすれば天使たちが支えて、あなたは傷つかないだろう」「もし私を拝むなら、世のすべての栄華を与えよう」というふうに。張ダビデ牧師は、これこそサタンが人間を誘惑するときに使う基本パターン、すなわち「肉体的欲求(食べ物)」「名誉や人気(奇跡による羨望)」「物質と権力(世の王国)」を揺さぶり、最終的に信仰を崩そうとする作動原理であると指摘する。イエスは「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」と仰り、もっぱら御言葉によってサタンの誘惑を一蹴された。結局サタンは敗北して立ち去り、イエスのもとに天使たちが仕え始めた。この出来事は聖徒たちに大きな教訓を与える。み言葉を知り、その言葉に徹底的に従うとき、高慢や欲を煽るサタンの奸計を打ち破ることができるのだ。 張ダビデ牧師は、こうした霊的な戦いが今でも続いているのだと力説する。私たちが意識的にも無意識的にも「自分が神のように善悪を判断する」とか「自分がみ言葉より上位に立って独自の基準を設ける」といったとき、実のところサタンの論理に同調していることになる。教会の中でもいくらでもそういうことが起こりうる。パリサイ人や律法学者がイエスに敵対して、主の権威を認めず、「あの人は悪霊に取りつかれている」「安息日を破っている」と非難した姿こそ、宗教的な装いをしてはいるが実際にはサタン側についている典型例といえる。イエスは彼らに対し、「蛇ども、まむしの子らよ、おまえたちはどうして地獄の裁きを逃れることができようか」とまで仰せられた。一方、イエスは娼婦や取税人のように自ら罪を自覚し悔い改める者には救いをお与えになり、その憐れみと愛を体験させてくださった。 ユダの手紙1章6~7節にも、堕落した天使、すなわち自分の地位を守らず、自分の住むべき所を離れた者が、永遠の鎖で暗闇に閉じ込められたと宣言される。堕落した天使の中には即時に拘束された者たちがおり、まだ地上をうろつき人間を誘惑する悪霊もいる。ヨブ記1章と2章を見ると、サタンは「告発者」として登場する。彼は「ヨブが何の理由もなく神を敬うでしょうか。彼の財産と健康をすべて奪ってみてください。必ず神を呪いますよ」と神に訴える。神はヨブに試みを許され、ヨブは極度の苦難を味わう。これは、人間の生活の中でサタンの告発と苦難が避けられないときがあることを示す。しかし同時にヨブは最後まで神を呪わず、苦難の中でも神を信頼し続けることで、サタンの告発が虚偽であると証明する。張ダビデ牧師は、この出来事が神がなぜ一部の堕落天使をただちに完全に滅ぼされず、ある程度彼らの活動を許しておられるのかを説明する例だと主張する。サタンが「人間がどうして心から神を愛するだろうか。みな条件があるから信じているだけだ」というように告発する時、神はその苦難を許すことで、かえって真実な信仰の証を生み出される、ということである。 しかし、これらの過程は人間の側から見ると非常に苦しく、理解しがたいかもしれない。張ダビデ牧師は「なぜ神はすぐにサタンを滅ぼしてくださらないのか」と嘆きたくなることもあるが、ヨブ記の結末を見ると、ヨブは以前にも増して神を深く体験し、物質的祝福も回復し、何よりも霊的成熟へと導かれる。私たちもまた苦難と試みを通過する過程で、もし御言葉によって武装し、祈りつつ目を覚ましているならば、「サタンの告発」を振り払い、勝利を体験することができる。これこそが主の祈りの「我らを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ」という祈りの真の意味である。張ダビデ牧師は「私たちに試みが全くないわけではないが、その試みの中で勝利できるように求める祈りであるべきだ」と強調する。 結局サタンとは、「ルシファー、暁の子、明けの明星」と呼ばれた者が、自らの地位を離れた堕落した天使であり、今なお全地を巡って食い尽くすべき獲物を探している敵対者である。しかし同時に、イエスの十字架と復活によって、その正体はすでに暴かれ、最終的な裁きが備えられている存在でもある。張ダビデ牧師は「その事実を私たちは忘れてはならない」と語る。サタンは必ず敗北する。主が弟子たちに「わたしはサタンが天から電光のように落ちるのを見た」(ルカによる福音書10章)と言われたとき、すでに彼は決定的に敗北したのだ。聖徒はこの勝利を信じ、「イエスの名によって」サタンを追い払う権威を持っている。ただし、この権威はイエスに倣い謙遜に従う人にのみ与えられる。サタンが堕落したやり方が「高慢」だったとすれば、聖徒は「へりくだり、イエスの道に従う」ことによってサタンに打ち勝つのである。 3. 聖徒の対応と霊的勝利 張ダビデ牧師が強調する結論は、最終的に聖徒は主の教えと聖霊の力に依り頼みつつサタンの支配に対抗し、打ち勝たねばならないという点である。これまで見てきた創世記3章と4章が示す人類堕落の始まり、そしてイザヤ書14章やエゼキエル書28章に見るサタンの高慢と裁き、ヨブ記における試み、黙示録12章の霊的戦いなどは、すべて「神の救いの歴史」と切り離せない。神は人類を救うため、またサタンの嘘から解放するために御子を送られたという事実が、新約に至って完全に明かされる。イエス・キリストはアダムの失敗を覆す「第二のアダム」として来られ、サタンの誘惑をすべて退け、十字架で完全ないけにえとして死なれることで罪に対する刑罰を代償された。張ダビデ牧師は「この勝利の福音こそが、『試みに遭わせず』と祈るべき理由であり、同時に私たちに与えられた驚くべき特権」だと解釈する。 主の祈りで「我らを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ」と祈るとき、それは「神さま、私を蛇の誘惑から、サタンの欺きからお守りください。そして私の心の中でうごめく高慢と自己中心的欲望を聖霊によって制御してください」という告白と同じである。張ダビデ牧師は「聖徒は毎日この祈りを実際的に捧げるべきだ」と力説する。なぜなら、いくら長く教会に通っている人でも、自分を高めようとする「サタンのDNA」が心のどこかに潜んでいるからだ。その欲望が目覚めたとき、信仰者が立つべき場所は「主よ、私は主人の座から降ります。ただ主だけが私の人生の主権者です」という謙遜の座なのである。 しかしこの道は決して容易ではない。イエスもゲッセマネの園で「父よ、できることならこの杯をわたしから取り除いてください。しかしわたしの願いではなく、御心のままになさってください」と祈られたほど、従順とはときに非常に苦しい。張ダビデ牧師は、この祈りが信仰生活の本質を表していると解説する。真の従順とは「自分の思い」を折り、「神の御心」を選ぶところから始まるが、それが簡単であれば誰でもできる。しかし現実には「悪魔はしばしば、最も強烈な形で私たちの弱みを刺激し」「一挙にすべての問題を解決してあげよう」とか「これくらい大丈夫だよ」といった甘い嘘をささやく。そのとき聖徒はイエス様のように「わたしが望むのではなく、主がお望みになるように」という態度を取らなければならないが、これは口で言うほど簡単ではない。だからこそ、私たちは日々祈り、み言葉を黙想し、教会共同体の中で健全な霊的助言を受けつつ、信仰の善き戦いを戦い続けねばならない。 張ダビデ牧師はこう語る。「私たちは生まれつき、神の前では謙遜にひれ伏すべき被造物だ。しかしサタンは絶えず『自分で善悪を判断し、自分で王になれ』と誘う。高慢の道はいつも甘美に見えるが、その行き着く先は滅びと霊的死である。一方、謙遜の道は初めは狭く険しいように見えるが、最終的には永遠の命と復活の栄光が待っている。イエス様がその道を歩まれ、復活された。私たちはイエス様に従うべきである。」 この主張はピリピ書2章6~11節が語る「キリスト・イエスの心」と完全に重なる。イエス様は本来神の本質でありながら、ご自身を低くしてしもべの姿を取り、死に至るまで従順であられ、そのゆえにすべての名にまさる名を授けられた。こうした従順と謙遜こそイエスに似ることの本質であり、サタンが決して真似できない「神の国」の核心的価値なのである。 しかし、聖徒がこの事実を頭で知るだけでは、実際の生活の中でサタンの誘惑にまた負けてしまう恐れがある。張ダビデ牧師はこれを防ぐために「聖霊に満たされること」と「み言葉に満たされること」の重要性を強調する。イエスは荒野の試みで、毎回「『…と書いてある』」と申命記の言葉を用いてサタンの嘘を打ち破られた。同様に私たちも、創世記3章と4章が描く人間堕落の本質を認めつつ、「神さま、私は弱いです。私の内にもサタンが蒔いた高慢や欲望があります。しかし主のみ言葉が私を全うしてください。私を試みから救ってください」と祈るとき、聖霊はその「み言葉」を生きた力として私たちの魂に適用してくださる。み言葉によって自分を照らし、自己中心的な動機を絶えず悔い改めるとき、ようやく高慢は砕かれ、神中心の判断と選択が可能になるのだ。 また張ダビデ牧師は、もう一つ大事な点を指摘する。「私たちは一人ではない。教会共同体が共にある」ということだ。サタンは往々にして個人を孤立させ、試みに陥れようとする。悩みを一人で抱え、心配を一人で抱え、解決を一人で模索しようとすると、いつのまにかみ言葉から遠ざかりやすい。そのとき、身近な信仰の同労者や牧師、小グループのリーダー、兄弟姉妹に心を打ち明け、祈りを求めるならば、光の中に置かれることになる。光が差し込めば闇は退くように、サタンは「隠し事」と「密かな領域」でこそさらに力を発揮する。しかし共同体の中で互いに罪を告白し、互いに励まし合い、とりなしの祈りをささげるなら、悪魔がつけ入る隙はなくなる。ヤコブの手紙に「互いに罪を言いあって祈りなさい」とあるのも、この原理による。 特に主の祈りを共に暗唱し、祈るとき、「試みに遭わせず、悪から救い出してください」というこの一行の文言が、どれだけ強力な霊的武器となりうるかを悟らされる。イエス様ご自身が教えてくださった祈りであるがゆえに、そこに込められた霊的意味は深く、かつ教会全体で心を合わせて捧げる祈りのとき、聖霊が与える慰めと力はますます大きくなる。張ダビデ牧師は「主の祈りは教会共同体の祈りであり、同時に私の祈りでもある。教会は共に一つの心でサタンに立ち向かう霊的軍勢となるべきだ」という。そして、このような祈りとみ言葉の訓練を繰り返していくとき、聖徒は実際の生活の中でも罪と高慢に打ち勝つ経験を持てるようになる。 まとめてみると、創世記3章と4章を通して始まった人間の堕落とサタンの誘惑、そしてサタン自体がどのように堕落したのか(イザヤ書14章、エゼキエル書28章、黙示録12章)を学ぶことは、聖徒が霊的に目を覚ましているための不可欠な基礎である。サタンは人間が本来持つ弱さを悪用して、「自分が善悪を判断する」という態度、すなわち高慢へと誘う。しかしイエス様はへりくだりによって、十字架で死に至るまでの従順によって、その道を完全にひっくり返された。私たちはイエス様の勝利にあずかることで、サタンに対抗できる。「試みに遭わせず、悪から救い出してください」と願いつつ、み言葉のうちにとどまるとき、サタンはもはや本質的な影響力を及ぼせなくなるのだ。 張ダビデ牧師は言う。「私たちの戦いはすでに勝利が約束された戦いだ。主があらゆる『高慢』を打ち砕き、私たちの罪の代価を支払われた。しかし私たちがまだこの肉体をまとい地上で生きている間は、サタンは吠えたける獅子のように飲み込む者を探しているから、常に警戒する必要がある。だが恐れる必要はない。光である主が共におられるなら、闇が勝つことは決してできないのだから。」 この確信が聖徒の日常に具体的に適用されるとき、私たちはサタンを縛り、罪から離れ、自由になる恵みを味わうことができる。つまりイエス様はすでに勝利されたが、その勝利を自分のものとして体験するには、日々の御言葉の黙想と祈りが求められるということである。 最終的に、人間は自ら「神のようになろう」とした罪を悔い改め、イエス様が成就された十字架の贖いを信仰によって受け取り、聖霊によって聖なる道を歩むべきである。張ダビデ牧師の教えによれば、これがキリスト教の教理の核心であり、私たちの信仰生活全体を貫く重大な鍵である。「あなたがたのうちにこの思いを抱きなさい。キリスト・イエスの思いを。」(ピリピ書2章)という勧めこそ、サタンの誘惑と試みに勝つ最強の武器である。イエス様の思いは決して高慢ではなく、最後まで従順によって勝利された。だから聖徒は、安易な自信や独善に陥らないよう常に自分を省み、「善悪を主権的に判断されるのは神である」ことを認め、自分は被造物として、子として、また神の委託を任された管理者としての本分を尽くすのが正しい姿なのだ。 張ダビデ牧師は最後に、サタンについて過度に恐れたり、逆にその存在を無視してしまう極端に走らないようにと注意を促す。サタンは明らかに人間の敵であり、誘惑者であり、世の王や権力者を通じて活動するので警戒は必須である。しかし同時に、私たちはすでにイエス様にある勝利を確信できるゆえ、サタンを恐れる理由はない。「自らを低くされるイエス様を知り、その御言葉を大胆に宣言し、御言葉に沿って愛し仕える人に、サタンはどうすることもできない」という結論だ。ここであらためて強調されるのが「主の祈りの力」である。その祈りの最後の文言、「国と力と栄光は永遠にあなたのものです」は、永遠に真の主権者が誰であるかを告白する信仰の祈りだからである。 これらすべてを総合すると、創世記3章と4章の堕落の物語は単なる「過去の出来事」にはとどまらない。それは日々繰り返されうる人間の心の状態であり、高慢と不従順がどのように染み込んでいって極端な破壊をもたらすかを示す警告でもある。しかし同時に、神がイエス・キリストを通じて与えてくださる救いの計画がいかに驚くべき恵みであるかを告げる宣言でもある。人間が本来創造された時に持っていた聖さを回復するように、神はサタンのあらゆる企みを打ち破り、私たちを永遠の御国へ導く道を開いてくださった。だからこそ張ダビデ牧師は「私たちが主に従うなら、高慢の代わりに謙遜を、不従順の代わりに従順を、闇の代わりに光の中を歩むようになる」と力説する。その道を歩むにつれ、私たちは日々の試みの中でも勝利し、やがて永遠の命へと至るのである。 これはすなわち、すべての聖徒が「試みに遭わせずに」という主の祈りの願いを軽く受け流してはいけない、というメッセージで幕を閉じる。張ダビデ牧師は「私たちは常に御言葉と祈りによって武装し、共同体の中で光の中を共に歩み、高慢の扉を閉ざさねばならない」と語る。そうすればサタンが歴史の片隅でいくらあがいても、最終的には敗北した存在なので、私たちの歩みを妨げることはできない。現代の世の中は混沌としており、価値観は多様化し、教会もまた混乱を経験するかもしれない。しかしただ御言葉に基づいて「善悪を判別されるのは人間ではなく神である」と認めるならば、真理が私たちを自由にしてくれるであろう。 結局のところ、張ダビデ牧師が語ろうとしている結論はシンプルである。「創世記3章と4章の場面を毎日黙想しなさい。そして、サタンが高慢によって堕落したイザヤ書14章、エゼキエル書28章、黙示録12章、およびサタンに立ち向かったヨブ記の出来事とイエス様の荒野の試みを忘れないように。主の祈りを熱心に暗唱し、実際の祈りとし、『試みに遭わないように』御言葉のうちに目を覚ましていなさい。そうすれば、どれほどサタンが誘惑しようとも、神の民は勝利するだろう。」 これが張ダビデ牧師が聖徒たちに伝えるはっきりとした勧めであり、創世記3章と4章を見る際の中心的視座である。高慢によって奈落に墜ちたルシファーとは対照的に、イエス様は徹底してご自分を低くされることで「すべての名にまさる名」を授かった。この対比が聖徒に与える教訓は明白だ。自らを高めれば結局は黄泉の穴へ落ちるが、自らを低くして神を崇めれば永遠の命を得る。そのことを最後までしっかりと握り、高慢の試みに打ち勝って神の子どもらしい実を結ぶ道を、すべての聖徒が共に歩むことを切に願うものである。

The Fall and Salvation – Pastor David Jang

1. Humanity’s Fall and Satan’s Strategy Pastor David Jang emphasizes the need to focus on Genesis 3 and 4 because it is there that we see precisely how humanity fell into sin and where its roots originated. Genesis 1 and 2 record God’s creation of the entire universe. God created light amid darkness, separated the … Read more

타락과 구원 – 장재형(장다윗)목사

장재형(장다윗)목사가 설교한 창세기 3장과 4장을 중심으로 한 ‘인간의 타락, 사탄의 정체, 그리고 성도의 대응’에 관하여 정리한 내용이다. 창세기 1장과 2장의 ‘창조’, 그리고 3장과 4장의 ‘타락’, 더 나아가 이사야 14장, 에스겔 28장, 요한계시록 12장 등 관련 구절을 모두 아우르면서, 궁극적으로 주기도문 중 “시험에 들게 하지 마시옵고”라는 청원과 연결하여, 장재형목사가 전달하는 교훈을 심층적으로 다룬다. 하나님께서 지으신 피조물 가운데 어떻게 사탄이 발생했고, 그 사탄이 인간을 어떻게 유혹하는지, 그리고 성도는 어떠한 태도로 맞서야 하는지에 대해 다루었다.  1. 인간의 타락과 사탄의 전략  장재형목사가 창세기 3장과 4장을 집중적으로 살펴야 … Read more