堕落と救い ― 張ダビデ牧師

張ダビデ牧師が創世記3章と4章を中心に説教した「人間の堕落、サタンの正体、そして聖徒の対応」についてまとめた内容である。創世記1章と2章の「創造」、そして3章と4章の「堕落」、さらにイザヤ書14章、エゼキエル書28章、ヨハネの黙示録12章など関連する箇所を総合的に扱い、最終的に主の祈りの中の「試みに遭わせず(=試みに陥ることなく)」という願いと結びつけながら、張ダビデ牧師が伝える教訓を深く掘り下げている。神が造られた被造物の中でなぜサタンが生じたのか、そのサタンが人間をどのように誘惑するのか、そして聖徒はどのような姿勢で対峙すべきかを取り上げた内容である。 1. 人間の堕落とサタンの戦略 張ダビデ牧師が創世記3章と4章を重点的に考察すべきだと強調する理由は、人間の堕落がどのように起こり、その根源がどこにあるのかを余すところなく把握するためである。創世記1章と2章には、神が全宇宙万物を創造された記録が収められている。神は闇の中に光を創られ、天と地を分け、海と陸、そしてさまざまな生き物を造られた。そしてそのすべての創造の頂点として人間を造られたが、男と女を神のかたちに造られたのである。これが創世記1章と2章の核心である。張ダビデ牧師は、「創世記1、2章を正しく理解することが、その後に登場する人間の堕落(創世記3章)や、その子孫であるカインの問題(創世記4章)を理解するための不可欠な前提だ」と語る。なぜなら、創造そのものが善であり完全であり、罪や死が存在しなかった世界を神が造られたという事実をまず知ってこそ、そこからいかに“変質”が起こったのか観察できるからである。 ところが創世記3章に入ると、全く予想外の存在が登場する。それは「神である主が造られた野の獣のうちで最も狡猾な蛇」である。この蛇は人間、すなわちアダムとエバに近づき、「本当に神は、園のすべての木の実を食べてはならない、と言われたのか?」と問いかけ、彼らの心に疑念を呼び起こす。張ダビデ牧師は、この問いこそが人間とサタンの接点において最も重要な場面だと指摘する。なぜなら、「神が仰せになった言葉」に従うのか、それとも人間が自ら別の基準を立てて不従順に進むのかが決まる分岐点だからである。 蛇はエバに「あなたたちは決して死なない」と語る。これは明らかに偽りである一方、とても魅惑的な宣言でもある。なぜなら神は「善悪を知る木から取って食べてはならない。その実を食べる時には必ず死ぬ」と仰せられたゆえ、それをそのまま信じて従う者には恐れや警戒心が芽生えるからだ。だが蛇はその恐れを崩し、「あなたたちは死なないだけでなく、むしろ神のようになれる」と扇動する。張ダビデ牧師は、この箇所からサタンの作動原理と特徴が明らかになると述べる。サタンは全く自分勝手な悪しき目的のために、神の言葉を偽りへと歪曲する。場合によっては非常にもっともらしく見える論理や、自分の都合に合わせた解釈を持ち出し、結果的に聖徒を「神中心」ではなく「自己中心」の位置へと引きずり下ろすのである。 張ダビデ牧師は創世記3章でのエバの反応に注目する。エバはこの善悪の木の実を「見ると食べるのによさそうで、目に慕わしく、賢くしてくれそうで好ましく思った」と言う。ここには、「見ること」(視覚的刺激)→「手で取ること」(直接的アプローチ)→「口にして食べること」(実際の行為)へと進む、一連の罪のメカニズムが示唆されている。罪は往々にして小さな好奇心から始まるが、最終的には全人格を汚し、やがて死に至らせるものである。 張ダビデ牧師はここに「試みに遭わせないでください」という主の祈りの願いが深く結びついていると説く。人間が受けうる最も大きな試みの一つは「神の座に上ろうとする高慢」であり、サタンが鋭く突いてくる部分だからである。人間は本来、神の被造物としてその言葉に従うことで祝福を享受するよう造られたが、自ら善悪を判断する座、すなわち自分自身を基準とする座に上ろうとするとき、結局は蛇の誘惑に陥る。これこそが張ダビデ牧師が力説する核心的な要旨である。 創世記3章のこうした流れの中で、アダムとエバは結局、禁じられた実を食べてしまう。その結果として最初に現れた兆候は何か。お互いに裸であることを恥じ、いちじくの葉をつづり合わせて腰の覆いを作ったことだ。また神が園を歩まれるとき、「恐れて隠れた」と記録されている。これは罪がもたらす結果を明確に示す象徴だ。罪は神の前で恥ずかしさ(霊的な羞恥心)を生み、そのため人間は自ら防御策を作り出し(いちじくの葉の衣)、最終的にその臨在から遠ざかってしまう(隠れてしまう)。 創世記3章の最後では、より決定的な裁きが宣言される。「あなたはちりであるから、ちりに帰るのだ」「人が善悪を知ることにおいて我々の一人のようになったので、命の木にも手を伸ばして永遠に生きることのないよう、その道が閉ざされた」といったくだりは、人間が「不従順」と「自己中心的な高慢」を選んだ結果招いた悲劇的結末を示す。サタンの最大の嘘は「決して死なない」だったが、実際には「必ず死ぬ」結果へとつながったのである。張ダビデ牧師はここで私たちが忘れてはならない真理を強調する。すなわち、人間の堕落はただエバが善悪の実を取って食べた瞬間にとどまらず、その後すべての人類へと原罪として受け継がれ、今日私たちもその影響下に生まれるという点である。 創世記4章に進むと、アダムの子孫カインの物語が登場する。カインは弟アベルを妬み、ついには殺人にまで至る。これは「自己中心的欲望」がどれほど急速に広がり、罪と死の実を結んでいくかを鮮明に示す事例だ。張ダビデ牧師はカインの堕落を「サタンが引き起こした堕落のさらなる拡大」と解説する。創世記3章で個人的次元から始まった堕落が、創世記4章では兄弟間の殺人によって本格的に世に広がっていく。すでに罪が入り込んだため、人間の心は「蛇の嘘」にますます振り回され、ついには兄弟殺しという極端な罪悪に進んでしまったのである。 聖書を一章ずつ読んでいくと、創世記4章でカインがどれほど自己中心的に振る舞うかが如実に表れている。神は彼がささげた捧げ物を受け入れず、「カインとその捧げ物を顧みられなかった」と記す。なぜ神がカインの捧げ物を喜ばれなかったのか、さまざまな解釈があるが、張ダビデ牧師はその中心の動機に着目すべきだと言う。カインに現れたのは、「自分が望むやり方で神を拝もう」という姿勢だった可能性が高い。心の中心が最初から神に捧げられたものではなく、自己中心的な満足のため、あるいは義務感で捧げた供え物であったならば、当然、神はその捧げ物を喜ばれないであろう。そこで生まれた嫉妬や怒りが、弟アベルを殺す大きな罪へと発展してしまうのだ。 創世記3章と4章のこの叙事が現代に生きる私たちに示唆するところは明白である。罪の始まりはかすかな疑いであるが、それが心に蒔かれ放置されると、高慢と虚偽の解釈、自己中心的判断へと走る。そして人間はその結果、霊的死、他者との葛藤、果てには殺人にさえ至ってしまう。張ダビデ牧師は、すべての聖徒がこの「起源的堕落の様相」をはっきりと認識すべきだと強調する。そうすることで、新約においてイエス・キリストが来られ、この問題を解決されたという事実を、創世記3章と4章の正確な理解を通してより深く悟るようになるからだ。 張ダビデ牧師は、人間が罪の根を正しく悟らなければ、イエス・キリストの贖罪の働きと十字架の恵みがいかに大いなる奇跡であり愛であるかを知ることができないと語る。結局のところ、私たちは創造主なる神が人間に与えられていた完全なご計画から遠ざかったが、その計画を回復するために御子を送られたという壮大なみわざこそが救いの本質なのである。すなわち、創世記3章で蛇が持ち込んだ「神のようになりたい」という野心を、イエス様はピリピ書2章が語るように「ご自分を無にして、しもべのかたちをとられ」ることで真正面から打ち砕かれたのだ。イエス様は神であられたにもかかわらず、徹底的にへりくだり、死に至るまで従順となられることで、サタンが煽った高慢に打ち勝たれた。ゆえに救いもまた、「高慢を捨て、自らを低くする」キリストに従う道においてこそ実を結ぶ。 こうした観点から、張ダビデ牧師は創世記3章と4章を学ぶ目的の一つとして、サタンの戦略と人間の内面の脆さを発見することを挙げる。そしてそれを的確に認識し、主の御前で悔い改めることで、もはや蛇の誘惑に屈しない実践が必要だという。そのためには日々み言葉を黙想し、共同体の中で真理の光に照らされ、自らが誤った道に陥らないよう点検する過程が欠かせない。その過程で常に「本当に神はこれを望まれているのか?」を基準としつつ、「主よ、私を試みに遭わせず、悪からお救いください」と祈りながら自分を省みる姿勢が決定的に重要となる。高慢こそサタンが蒔く最も強力な武器であり、あらゆる罪や堕落を引き起こすがゆえ、聖徒は常に目を覚まして祈り、自らを低く保たなければならないというのが、張ダビデ牧師の教えである。 2. サタンの正体と堕落した天使たち 張ダビデ牧師は、蛇の正体が最終的には「サタン」「悪魔」「竜」であると黙示録12章で明確に示されている、と解説する。蛇は単なる象徴的動物ではなく、神に反逆した堕落した天使長、または天使の群れの頭が具現化した存在である。この観点から、創世記3章の蛇を単なる動物的なヘビだと読むだけでは、聖書全体が語る救いの歴史を見失いかねない。サタン、ルシファー、悪魔、竜、全世界を惑わす者など、聖書のあちこちで多様な呼称が登場するが、その根源は同一である。この存在は神が造られた被造物の一つであったが、自らの地位を離れて高慢を抱き「いと高き方のようになろう」と試みた結果、堕落した天使の群れとなったのである。 張ダビデ牧師は、イザヤ書14章とエゼキエル書28章に言及されている「バビロンの王」や「ツロの王」への比喩が、事実上サタンの姿、特にそれらの王たちの背後にある「堕落した天使」の姿を指し示していると説く。イザヤ書14章の表現を詳しく見ると、「暁の子、明けの明星よ。どうして天から落ちたのか。諸国を倒した者よ。どうして地に切り倒されたのか」とある。この「明けの明星」(ラテン語訳聖書ではルシファーLucifer)は、もともと神のそばで光り輝いていた天使長であったことを暗示する。それにもかかわらず、「北の果ての山の上に座ろう。いと高き方のようになろう」と心に抱き、反逆を企てた。それこそがサタンの本質的な罪であり、彼が奈落へと落とされた最大の理由である。 エゼキエル書28章においてもツロの王への比喩の中で、もともと「油注がれた守護のケルブ」としてエデンの園にいた者が、その仲間とともに堕落し、縛られていくというくだりが出てくる。これは「原初の堕落」が人間より先に天使の世界で起こったことを示している。張ダビデ牧師は、「私たちは聖書を通して、人間だけが堕落した存在なのではなく、人間を誘惑し陥れようとする霊的勢力が実在することをはっきりと知る」と強調する。そして、それこそ教会が霊的な戦いを担わなければならない重要な理由だと説く。 黙示録12章では大きな竜が追い落とされるが、「その古い蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれる者、全世界を惑わす者」とはっきり名指しされる。このサタンが天から落ちるとき、天の星の3分の1を引き連れて地上に落ちたとも記録されている。これは堕落した天使の集団がそれほど多いことを示している。サタンはただ一人で堕落したのではなく、彼を追従する天の軍勢の3分の1ほどが共に反逆したのだ。彼らは空中の権を握り、今もなお絶えず人間に誘惑と欺きの手を伸ばし、ときには支配者や権威者を通じて歴史に働きかける。エペソ書6章に「私たちの戦いは血肉に対するものではなく、支配者たち、権威たち、この暗闇の世界の支配者たち、天上の悪の霊どもに対する」とあるが、まさにこの文脈を指しているのである。 張ダビデ牧師は、この霊的世界を知らなければ、世の多くの問題を単なる人間同士の対立や制度の矛盾だけにとどめてしまい、見落とすことになると警告する。実際の歴史の現場では、サタンは隙間を見つけて権力者や悪の勢力を用い、陰謀をめぐらす。パロが神の民イスラエルを苦しめたときや、バビロンの王やアッシリアの王が周辺国を征服し、残酷に民を虐殺したとき、その背後にはサタンの本性である「高慢と暴力」が潜んでいるという。こうした流れの中で、サタンは常に自分自身を高め、偶像礼拝を助長する。旧約時代に数々の偶像が存在したのも、結局は神の栄光を横取りしようとするサタンの企みの一つの形にほかならない。 バアル礼拝は民を性的に乱れさせ、モレク礼拝は子どもを人身供犠として捧げるという恐るべき行為まで誘導する。金の子牛の崇拝は富や財産を中心に据えるマモン主義を代表する象徴となる。張ダビデ牧師は、こうしたすべての偶像の背後に「サタンの高慢と暴力性が潜んでいる」と語る。サタンは神が受けるべき栄光と礼拝を、自分が横取りするために偶像を発展させ、人間はその誘惑に負けて金の子牛の前で踊り狂い、モレクの前で子どもを火で焼いて捧げるという、無知で残酷な行為を犯してきたのだ。 そしてこのサタンの惑わしは、旧約時代だけでなく新約時代、さらに現代に至るまで続いている。イエスが荒野で40日断食をなさったとき、サタンは自らやってきて三つの試みをしかけた。「もしあなたが神の子なら、この石をパンに変えてみよ」「神殿の頂から飛び降りてみよ。そうすれば天使たちが支えて、あなたは傷つかないだろう」「もし私を拝むなら、世のすべての栄華を与えよう」というふうに。張ダビデ牧師は、これこそサタンが人間を誘惑するときに使う基本パターン、すなわち「肉体的欲求(食べ物)」「名誉や人気(奇跡による羨望)」「物質と権力(世の王国)」を揺さぶり、最終的に信仰を崩そうとする作動原理であると指摘する。イエスは「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」と仰り、もっぱら御言葉によってサタンの誘惑を一蹴された。結局サタンは敗北して立ち去り、イエスのもとに天使たちが仕え始めた。この出来事は聖徒たちに大きな教訓を与える。み言葉を知り、その言葉に徹底的に従うとき、高慢や欲を煽るサタンの奸計を打ち破ることができるのだ。 張ダビデ牧師は、こうした霊的な戦いが今でも続いているのだと力説する。私たちが意識的にも無意識的にも「自分が神のように善悪を判断する」とか「自分がみ言葉より上位に立って独自の基準を設ける」といったとき、実のところサタンの論理に同調していることになる。教会の中でもいくらでもそういうことが起こりうる。パリサイ人や律法学者がイエスに敵対して、主の権威を認めず、「あの人は悪霊に取りつかれている」「安息日を破っている」と非難した姿こそ、宗教的な装いをしてはいるが実際にはサタン側についている典型例といえる。イエスは彼らに対し、「蛇ども、まむしの子らよ、おまえたちはどうして地獄の裁きを逃れることができようか」とまで仰せられた。一方、イエスは娼婦や取税人のように自ら罪を自覚し悔い改める者には救いをお与えになり、その憐れみと愛を体験させてくださった。 ユダの手紙1章6~7節にも、堕落した天使、すなわち自分の地位を守らず、自分の住むべき所を離れた者が、永遠の鎖で暗闇に閉じ込められたと宣言される。堕落した天使の中には即時に拘束された者たちがおり、まだ地上をうろつき人間を誘惑する悪霊もいる。ヨブ記1章と2章を見ると、サタンは「告発者」として登場する。彼は「ヨブが何の理由もなく神を敬うでしょうか。彼の財産と健康をすべて奪ってみてください。必ず神を呪いますよ」と神に訴える。神はヨブに試みを許され、ヨブは極度の苦難を味わう。これは、人間の生活の中でサタンの告発と苦難が避けられないときがあることを示す。しかし同時にヨブは最後まで神を呪わず、苦難の中でも神を信頼し続けることで、サタンの告発が虚偽であると証明する。張ダビデ牧師は、この出来事が神がなぜ一部の堕落天使をただちに完全に滅ぼされず、ある程度彼らの活動を許しておられるのかを説明する例だと主張する。サタンが「人間がどうして心から神を愛するだろうか。みな条件があるから信じているだけだ」というように告発する時、神はその苦難を許すことで、かえって真実な信仰の証を生み出される、ということである。 しかし、これらの過程は人間の側から見ると非常に苦しく、理解しがたいかもしれない。張ダビデ牧師は「なぜ神はすぐにサタンを滅ぼしてくださらないのか」と嘆きたくなることもあるが、ヨブ記の結末を見ると、ヨブは以前にも増して神を深く体験し、物質的祝福も回復し、何よりも霊的成熟へと導かれる。私たちもまた苦難と試みを通過する過程で、もし御言葉によって武装し、祈りつつ目を覚ましているならば、「サタンの告発」を振り払い、勝利を体験することができる。これこそが主の祈りの「我らを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ」という祈りの真の意味である。張ダビデ牧師は「私たちに試みが全くないわけではないが、その試みの中で勝利できるように求める祈りであるべきだ」と強調する。 結局サタンとは、「ルシファー、暁の子、明けの明星」と呼ばれた者が、自らの地位を離れた堕落した天使であり、今なお全地を巡って食い尽くすべき獲物を探している敵対者である。しかし同時に、イエスの十字架と復活によって、その正体はすでに暴かれ、最終的な裁きが備えられている存在でもある。張ダビデ牧師は「その事実を私たちは忘れてはならない」と語る。サタンは必ず敗北する。主が弟子たちに「わたしはサタンが天から電光のように落ちるのを見た」(ルカによる福音書10章)と言われたとき、すでに彼は決定的に敗北したのだ。聖徒はこの勝利を信じ、「イエスの名によって」サタンを追い払う権威を持っている。ただし、この権威はイエスに倣い謙遜に従う人にのみ与えられる。サタンが堕落したやり方が「高慢」だったとすれば、聖徒は「へりくだり、イエスの道に従う」ことによってサタンに打ち勝つのである。 3. 聖徒の対応と霊的勝利 張ダビデ牧師が強調する結論は、最終的に聖徒は主の教えと聖霊の力に依り頼みつつサタンの支配に対抗し、打ち勝たねばならないという点である。これまで見てきた創世記3章と4章が示す人類堕落の始まり、そしてイザヤ書14章やエゼキエル書28章に見るサタンの高慢と裁き、ヨブ記における試み、黙示録12章の霊的戦いなどは、すべて「神の救いの歴史」と切り離せない。神は人類を救うため、またサタンの嘘から解放するために御子を送られたという事実が、新約に至って完全に明かされる。イエス・キリストはアダムの失敗を覆す「第二のアダム」として来られ、サタンの誘惑をすべて退け、十字架で完全ないけにえとして死なれることで罪に対する刑罰を代償された。張ダビデ牧師は「この勝利の福音こそが、『試みに遭わせず』と祈るべき理由であり、同時に私たちに与えられた驚くべき特権」だと解釈する。 主の祈りで「我らを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ」と祈るとき、それは「神さま、私を蛇の誘惑から、サタンの欺きからお守りください。そして私の心の中でうごめく高慢と自己中心的欲望を聖霊によって制御してください」という告白と同じである。張ダビデ牧師は「聖徒は毎日この祈りを実際的に捧げるべきだ」と力説する。なぜなら、いくら長く教会に通っている人でも、自分を高めようとする「サタンのDNA」が心のどこかに潜んでいるからだ。その欲望が目覚めたとき、信仰者が立つべき場所は「主よ、私は主人の座から降ります。ただ主だけが私の人生の主権者です」という謙遜の座なのである。 しかしこの道は決して容易ではない。イエスもゲッセマネの園で「父よ、できることならこの杯をわたしから取り除いてください。しかしわたしの願いではなく、御心のままになさってください」と祈られたほど、従順とはときに非常に苦しい。張ダビデ牧師は、この祈りが信仰生活の本質を表していると解説する。真の従順とは「自分の思い」を折り、「神の御心」を選ぶところから始まるが、それが簡単であれば誰でもできる。しかし現実には「悪魔はしばしば、最も強烈な形で私たちの弱みを刺激し」「一挙にすべての問題を解決してあげよう」とか「これくらい大丈夫だよ」といった甘い嘘をささやく。そのとき聖徒はイエス様のように「わたしが望むのではなく、主がお望みになるように」という態度を取らなければならないが、これは口で言うほど簡単ではない。だからこそ、私たちは日々祈り、み言葉を黙想し、教会共同体の中で健全な霊的助言を受けつつ、信仰の善き戦いを戦い続けねばならない。 張ダビデ牧師はこう語る。「私たちは生まれつき、神の前では謙遜にひれ伏すべき被造物だ。しかしサタンは絶えず『自分で善悪を判断し、自分で王になれ』と誘う。高慢の道はいつも甘美に見えるが、その行き着く先は滅びと霊的死である。一方、謙遜の道は初めは狭く険しいように見えるが、最終的には永遠の命と復活の栄光が待っている。イエス様がその道を歩まれ、復活された。私たちはイエス様に従うべきである。」 この主張はピリピ書2章6~11節が語る「キリスト・イエスの心」と完全に重なる。イエス様は本来神の本質でありながら、ご自身を低くしてしもべの姿を取り、死に至るまで従順であられ、そのゆえにすべての名にまさる名を授けられた。こうした従順と謙遜こそイエスに似ることの本質であり、サタンが決して真似できない「神の国」の核心的価値なのである。 しかし、聖徒がこの事実を頭で知るだけでは、実際の生活の中でサタンの誘惑にまた負けてしまう恐れがある。張ダビデ牧師はこれを防ぐために「聖霊に満たされること」と「み言葉に満たされること」の重要性を強調する。イエスは荒野の試みで、毎回「『…と書いてある』」と申命記の言葉を用いてサタンの嘘を打ち破られた。同様に私たちも、創世記3章と4章が描く人間堕落の本質を認めつつ、「神さま、私は弱いです。私の内にもサタンが蒔いた高慢や欲望があります。しかし主のみ言葉が私を全うしてください。私を試みから救ってください」と祈るとき、聖霊はその「み言葉」を生きた力として私たちの魂に適用してくださる。み言葉によって自分を照らし、自己中心的な動機を絶えず悔い改めるとき、ようやく高慢は砕かれ、神中心の判断と選択が可能になるのだ。 また張ダビデ牧師は、もう一つ大事な点を指摘する。「私たちは一人ではない。教会共同体が共にある」ということだ。サタンは往々にして個人を孤立させ、試みに陥れようとする。悩みを一人で抱え、心配を一人で抱え、解決を一人で模索しようとすると、いつのまにかみ言葉から遠ざかりやすい。そのとき、身近な信仰の同労者や牧師、小グループのリーダー、兄弟姉妹に心を打ち明け、祈りを求めるならば、光の中に置かれることになる。光が差し込めば闇は退くように、サタンは「隠し事」と「密かな領域」でこそさらに力を発揮する。しかし共同体の中で互いに罪を告白し、互いに励まし合い、とりなしの祈りをささげるなら、悪魔がつけ入る隙はなくなる。ヤコブの手紙に「互いに罪を言いあって祈りなさい」とあるのも、この原理による。 特に主の祈りを共に暗唱し、祈るとき、「試みに遭わせず、悪から救い出してください」というこの一行の文言が、どれだけ強力な霊的武器となりうるかを悟らされる。イエス様ご自身が教えてくださった祈りであるがゆえに、そこに込められた霊的意味は深く、かつ教会全体で心を合わせて捧げる祈りのとき、聖霊が与える慰めと力はますます大きくなる。張ダビデ牧師は「主の祈りは教会共同体の祈りであり、同時に私の祈りでもある。教会は共に一つの心でサタンに立ち向かう霊的軍勢となるべきだ」という。そして、このような祈りとみ言葉の訓練を繰り返していくとき、聖徒は実際の生活の中でも罪と高慢に打ち勝つ経験を持てるようになる。 まとめてみると、創世記3章と4章を通して始まった人間の堕落とサタンの誘惑、そしてサタン自体がどのように堕落したのか(イザヤ書14章、エゼキエル書28章、黙示録12章)を学ぶことは、聖徒が霊的に目を覚ましているための不可欠な基礎である。サタンは人間が本来持つ弱さを悪用して、「自分が善悪を判断する」という態度、すなわち高慢へと誘う。しかしイエス様はへりくだりによって、十字架で死に至るまでの従順によって、その道を完全にひっくり返された。私たちはイエス様の勝利にあずかることで、サタンに対抗できる。「試みに遭わせず、悪から救い出してください」と願いつつ、み言葉のうちにとどまるとき、サタンはもはや本質的な影響力を及ぼせなくなるのだ。 張ダビデ牧師は言う。「私たちの戦いはすでに勝利が約束された戦いだ。主があらゆる『高慢』を打ち砕き、私たちの罪の代価を支払われた。しかし私たちがまだこの肉体をまとい地上で生きている間は、サタンは吠えたける獅子のように飲み込む者を探しているから、常に警戒する必要がある。だが恐れる必要はない。光である主が共におられるなら、闇が勝つことは決してできないのだから。」 この確信が聖徒の日常に具体的に適用されるとき、私たちはサタンを縛り、罪から離れ、自由になる恵みを味わうことができる。つまりイエス様はすでに勝利されたが、その勝利を自分のものとして体験するには、日々の御言葉の黙想と祈りが求められるということである。 最終的に、人間は自ら「神のようになろう」とした罪を悔い改め、イエス様が成就された十字架の贖いを信仰によって受け取り、聖霊によって聖なる道を歩むべきである。張ダビデ牧師の教えによれば、これがキリスト教の教理の核心であり、私たちの信仰生活全体を貫く重大な鍵である。「あなたがたのうちにこの思いを抱きなさい。キリスト・イエスの思いを。」(ピリピ書2章)という勧めこそ、サタンの誘惑と試みに勝つ最強の武器である。イエス様の思いは決して高慢ではなく、最後まで従順によって勝利された。だから聖徒は、安易な自信や独善に陥らないよう常に自分を省み、「善悪を主権的に判断されるのは神である」ことを認め、自分は被造物として、子として、また神の委託を任された管理者としての本分を尽くすのが正しい姿なのだ。 張ダビデ牧師は最後に、サタンについて過度に恐れたり、逆にその存在を無視してしまう極端に走らないようにと注意を促す。サタンは明らかに人間の敵であり、誘惑者であり、世の王や権力者を通じて活動するので警戒は必須である。しかし同時に、私たちはすでにイエス様にある勝利を確信できるゆえ、サタンを恐れる理由はない。「自らを低くされるイエス様を知り、その御言葉を大胆に宣言し、御言葉に沿って愛し仕える人に、サタンはどうすることもできない」という結論だ。ここであらためて強調されるのが「主の祈りの力」である。その祈りの最後の文言、「国と力と栄光は永遠にあなたのものです」は、永遠に真の主権者が誰であるかを告白する信仰の祈りだからである。 これらすべてを総合すると、創世記3章と4章の堕落の物語は単なる「過去の出来事」にはとどまらない。それは日々繰り返されうる人間の心の状態であり、高慢と不従順がどのように染み込んでいって極端な破壊をもたらすかを示す警告でもある。しかし同時に、神がイエス・キリストを通じて与えてくださる救いの計画がいかに驚くべき恵みであるかを告げる宣言でもある。人間が本来創造された時に持っていた聖さを回復するように、神はサタンのあらゆる企みを打ち破り、私たちを永遠の御国へ導く道を開いてくださった。だからこそ張ダビデ牧師は「私たちが主に従うなら、高慢の代わりに謙遜を、不従順の代わりに従順を、闇の代わりに光の中を歩むようになる」と力説する。その道を歩むにつれ、私たちは日々の試みの中でも勝利し、やがて永遠の命へと至るのである。 これはすなわち、すべての聖徒が「試みに遭わせずに」という主の祈りの願いを軽く受け流してはいけない、というメッセージで幕を閉じる。張ダビデ牧師は「私たちは常に御言葉と祈りによって武装し、共同体の中で光の中を共に歩み、高慢の扉を閉ざさねばならない」と語る。そうすればサタンが歴史の片隅でいくらあがいても、最終的には敗北した存在なので、私たちの歩みを妨げることはできない。現代の世の中は混沌としており、価値観は多様化し、教会もまた混乱を経験するかもしれない。しかしただ御言葉に基づいて「善悪を判別されるのは人間ではなく神である」と認めるならば、真理が私たちを自由にしてくれるであろう。 結局のところ、張ダビデ牧師が語ろうとしている結論はシンプルである。「創世記3章と4章の場面を毎日黙想しなさい。そして、サタンが高慢によって堕落したイザヤ書14章、エゼキエル書28章、黙示録12章、およびサタンに立ち向かったヨブ記の出来事とイエス様の荒野の試みを忘れないように。主の祈りを熱心に暗唱し、実際の祈りとし、『試みに遭わないように』御言葉のうちに目を覚ましていなさい。そうすれば、どれほどサタンが誘惑しようとも、神の民は勝利するだろう。」 これが張ダビデ牧師が聖徒たちに伝えるはっきりとした勧めであり、創世記3章と4章を見る際の中心的視座である。高慢によって奈落に墜ちたルシファーとは対照的に、イエス様は徹底してご自分を低くされることで「すべての名にまさる名」を授かった。この対比が聖徒に与える教訓は明白だ。自らを高めれば結局は黄泉の穴へ落ちるが、自らを低くして神を崇めれば永遠の命を得る。そのことを最後までしっかりと握り、高慢の試みに打ち勝って神の子どもらしい実を結ぶ道を、すべての聖徒が共に歩むことを切に願うものである。

The Fall and Salvation – Pastor David Jang

1. Humanity’s Fall and Satan’s Strategy Pastor David Jang emphasizes the need to focus on Genesis 3 and 4 because it is there that we see precisely how humanity fell into sin and where its roots originated. Genesis 1 and 2 record God’s creation of the entire universe. God created light amid darkness, separated the … Read more

타락과 구원 – 장재형(장다윗)목사

장재형(장다윗)목사가 설교한 창세기 3장과 4장을 중심으로 한 ‘인간의 타락, 사탄의 정체, 그리고 성도의 대응’에 관하여 정리한 내용이다. 창세기 1장과 2장의 ‘창조’, 그리고 3장과 4장의 ‘타락’, 더 나아가 이사야 14장, 에스겔 28장, 요한계시록 12장 등 관련 구절을 모두 아우르면서, 궁극적으로 주기도문 중 “시험에 들게 하지 마시옵고”라는 청원과 연결하여, 장재형목사가 전달하는 교훈을 심층적으로 다룬다. 하나님께서 지으신 피조물 가운데 어떻게 사탄이 발생했고, 그 사탄이 인간을 어떻게 유혹하는지, 그리고 성도는 어떠한 태도로 맞서야 하는지에 대해 다루었다.  1. 인간의 타락과 사탄의 전략  장재형목사가 창세기 3장과 4장을 집중적으로 살펴야 … Read more

Réalisez l’espérance du Seigneur – Pasteur David Jang

1. Les conflits et la réconciliation au sein de l’Église, et la voie vers l’unité en Christ Dans tout le chapitre 15 de l’Épître aux Romains, l’un des thèmes les plus marquants concerne cette question : « Comment résoudre les conflits au sein de la communauté ecclésiale et avancer vers la réconciliation ? » L’apôtre … Read more

成就主的盼望 —— 张大卫牧师

1. 如何化解教会内部的冲突并在基督里合而为一 在《罗马书》第15章中,最核心的主题之一就是“如何解决教会群体内部产生的冲突,并通过和解走向合一?”使徒保罗针对因不同观点而冲突、彼此对立的弟兄姊妹,强烈劝勉说:“彼此接纳,合而为一,好成就主的盼望。”即使在当今时代,教会内部仍然存在无数冲突案例,比如神学观点的分歧、教会运营方式的碰撞、保守思维与进步思维之间的差异等等。保罗强调,教会绝不可让这些冲突呈现出比世俗社会更丑陋的局面。这与教会“在众人中被拣选而召集,形成的圣徒群体”这一身份认同密切相关。 张大卫牧师常常提及教会的“圣洁身份”。他认为,教会在上帝拯救世人的计划中,一方面是“被分别出来”的(separated),另一方面又肩负着去爱、去服事世界的使命。假如教会无法成为世人的榜样,反而成为福音的绊脚石、遮盖上帝荣耀的存在,那就违背了教会存在的根本目的。尤其是当冲突出现时,张大卫牧师多次强调要拥有“基督的心”,即跟随主所教导的“不是以自我为中心的喜乐,而是为弟兄着想的爱之喜乐”。只有如此,教会群体才能展现出比世上任何组织都更透明、更充满爱、更具属灵清洁的面貌。 在保罗给罗马教会群体的种种劝诫中,有关“强者与弱者”关系的教导(罗马书14~15章)特别关注教会的和解与合一,以及不同信心水平的肢体之间如何彼此体谅、爱护和帮助。保罗指出,“信心坚固的人”绝不可以轻视或忽略“信心软弱的人”(罗15:1)。相反,坚固的人应当担当软弱之人的软弱。这不仅是道德上的劝勉,更是由于我们要效法基督的榜样。耶稣基督从来不拒绝罪人,反而常常主动接近他们,并以仆人的姿态服事他们,而且在服事中体验到喜乐。这喜乐并非世俗的自我满足,而是“在拯救、建立他人的过程中”所得到的“天上的喜乐”。 张大卫牧师也常引用《约翰福音》第15章,强调只有当我们真正明白主对我们的爱时,才能走上“真正的爱之路、彼此接纳的喜乐之路”。这正契合耶稣所说的“要叫我的喜乐存在你们心里,并叫你们的喜乐可以满足”(约15:11)。换言之,唯有通过彼此相爱而获得的喜乐,才能成为教会真正的力量来源。 如果教会无法在内部实践这种爱的喜乐,那么分裂的危机便会随即而至。保罗之所以提醒罗马教会“你们要回到神的话语,记得基督,记得祂曾忍受一切凌辱”(参罗15:3-4),就是这个原因。如果基督曾背负各种侮辱和罪人当受的罪责,以此彰显爱,那么在教会发生冲突时,弟兄姊妹也应当回顾“基督在救赎历史中展现的爱”,而不是坚守“自我中心的判断”。只有这样,教会中的不和与裂痕才能被医治,并能够生出彼此包容和接纳的力量。 张大卫牧师常常重复说:“教会应当通过上帝的话语、在圣灵赐下的‘忍耐与安慰’中抓住盼望(罗15:5),并因此能‘同心合意、同口’荣耀上帝。”如果教会的读经与聚会只停留在表面形式,那么冲突依然难以解决;唯有透过深深默想主的榜样,并把祂“十字架的爱”真正应用在我们日常生活中,才能克服分裂,实现合一。这正是教会内部化解冲突的必经之路。当每位成员都意识到“我们因基督的缘故蒙受恩典,并且都欠着祂的债”,冲突的锋芒才会被放下,彼此接纳的大门才会真正打开。 然而,想要让这种理想的教会面貌真实地呈现,需要每一个信徒“悔改”和“倒空自己”。正如圣经所言,“罪在哪里显多,恩典就更显多”(罗5:20),冲突越大,就越需要更深的悔改与更大的饶恕。这时,当教会彼此认罪:“我们都是罪人”,并向神恳求恩典时,那堵在人心之间的高墙就会被拆毁,教会也能经历真正合一的奇迹。 保罗说:“你们就能同心合意、同口赞美和见证主。”其中所描绘的,是一个团体共同朝向同一个方向、只寻求上帝荣耀的画面。拥有不同背景、文化、性格、恩赐的人,能在耶稣里合而为一,这种奥秘正是教会成为“教会”的核心。张大卫牧师也在多次讲道中提到:“当教会握住因耶稣而有的盼望,就能充满世人无法给予的平安与喜乐。”这个信念与《罗马书》15章13节所宣告的祝福直接呼应:“但愿赐盼望的神,因信将诸般的喜乐和平安充满你们的心……”(参罗15:13)。 要想克服教会内部的冲突,首要的就是彼此的体谅与忍耐。“你们当中是否存在冲突?是否有争执?那就先在主的话语面前审视自己的态度和心思吧。”简而言之,这就是保罗劝勉的核心。张大卫牧师也强调,若处在冲突中,就该先自我反省:“我对待这个问题时,真是怀着基督的心吗?”冲突的最终解决之道是“在主里合一”。当原本对立的双方都仰望主的旨意,并在神的话语光照下谦卑自己时,真和解的契机就会涌现。虽然这条道路并不容易,却是教会迈向圣洁群体、必须经历的关键旅程。 最后,保罗在这一章反复劝勉不同背景、不同传统的群体:“要包容那软弱的,坚固的要服事软弱的,并为他人的喜乐舍己”,效法基督的生命。这绝非单纯“和睦相处”的道德号召,而是教会向这世代彰显天国的根本伦理。教会理应与世俗有所不同,因为教会的主人是基督,也因基督在我们中间动工,这才使教会得以成为“圣洁的群体”的根基与柱石。 2. 彼此担当软弱之人的重担,成为包容外邦人的爱之共同体 在《罗马书》15章开篇,保罗郑重指出:“我们坚固的人应该担待不坚固之人的软弱,不求自己的喜悦”(罗15:1)。这段简短的经文,为教会提供了非常具体的实践准则:彼此顾念与互相体谅,才是教会最基本的样貌。然而,在冲突之中常见的情景却是“强者欺压弱者”,或是“彼此抬高声音、互相轻视”。保罗提出的教会图景却恰恰相反——这是一个彼此分担重担、“同哭同乐”的群体。 张大卫牧师在引用这处经文时强调:“若我们心中真正拥有耶稣的心,当看到弟兄姊妹的软弱时,就会先生出安慰之情,而不是定罪。”他也指出,“若不是只顾取悦自己,而是努力让他人得喜乐,就会产生一种相反却更深邃的属灵喜乐。”这点格外重要,因为人性本能地倾向自私,一旦遭遇困难就很容易缩回自我中心。然而在信仰群体中,透过彼此的爱心付出与体谅,我们能一起享受从天而来的喜乐。 接着,保罗用耶稣基督本身作为榜样。主耶稣“不求自己的喜悦”,反而背负了世人的侮辱与责难(罗15:3)。这正是十字架道路“爱的牺牲”之最佳诠释。正如《约翰福音》15章12~13节教导的:“你们要彼此相爱,为朋友舍命的爱,没有比这更大的了。”耶稣的言行本身就见证了这话语。保罗也认为,这样的原则同样适用于教会内部:为弟兄、为姊妹,甘愿承担属于自己的那份牺牲,这才是真正的爱。通过这样的爱,我们也能尝到“世人无法理解的喜乐”。 这里要注意的另一重点是“接纳外邦人”(罗15:7~13)。在当时,犹太人与外邦人之间的冲突相当严重,并且由来已久,无论是在割礼问题、律法遵行问题,还是在传统习俗上,都存在诸多不和。但保罗清楚指出:“所以你们要彼此接纳,如同基督接纳你们一样,使荣耀归于神”(罗15:7)。保罗也确信,他的使徒职分就是“为外邦人传福音”(罗15:16)。他胸怀从耶路撒冷直到万邦的异象,期待福音传遍天下。 张大卫牧师也在多次讲道中强调:“神的国度超越国界与民族的藩篱。”他说,犹太人与外邦人之间的隔阂被打破,正是教会史上的重大转折。即使在今天,因种族、文化、语言、经济背景等因素,教会中依然会产生冲突,但在基督里,这些隔断之墙早已倒塌,因此我们应当“以更宽广的胸襟”去接纳他人。这种外邦人包容并不仅仅是保罗当时代的议题,而是教会始终都需思考的持续性挑战。只有当我们敞开心扉,接纳周围那些在文化或社会层面被视为“他者”的人,并能与他们一同敬拜,教会才真正实现了普世福音的精神。 保罗在此也引用了多处旧约先知预言与诗篇,宣告“上帝从起初就定意让万国都来赞美祂”(罗15:9~12)。换言之,上帝的拯救范围并不局限于某一个民族或地区,而是广及万国万民。《以弗所书》2章也明确表示:“祂拆毁了中间隔断的墙,使双方合而为一”(参弗2:14)。无论是犹太人还是外邦人,都在耶稣基督里联结成一体。教会正是那“实现合一福音”的地方。 因此,“信心坚固的人”更应该谦卑自己,接纳那些“软弱的人”和拥有不同背景的人。差异固然会成为冲突的诱因,但绝不该成为敌视或排斥的理由。相反,差异可视作丰富多彩的机会,通过彼此的学习与补足来共同成长。保罗提出,这才是“爱之共同体”应走的道路;唯有如此,才能让那“世上无法给予的真喜乐和平安”降临到群体当中(罗15:13)。 张大卫牧师也指出:“今天的教会若要真正内化基督在救赎历史中所体现的爱,并对世上一切‘外邦人’(指尚未听闻福音者、或者在文化上被孤立的人)承担宣教使命,就必须先在内部实现‘彼此服事’并‘打破仇恨之墙’的努力。”此处所说的“爱”既包括对外部世界的“外邦人”,也包括教会内部各类被边缘、被忽视、受伤或因不同见解而遭排斥的人。当教会接纳所有这些群体为“一体”时,冲突往往自然得到化解,合一的喜乐也随之变得更为深厚。 此外,保罗还强调,这个“爱的共同体”要通过“感谢与赞美”而更加凝聚。《罗马书》15章9~12节中引用的诗篇和以赛亚书,正是宣告“万邦都要感谢与赞美神”的未来图景。教会存在的本质就是要充满感恩与赞美。一个真正怀有感恩之心的群体,几乎不会有时间去滋长仇恨与纷争。用赞美来荣耀神的灵魂,也不会浪费精力去揪住他人的缺点,而是会彼此代祷、彼此帮助。那时,教会就会被“恩典与平安”所充满。 于是保罗在这一段最后,宣告:“但愿那赐盼望的神,因信将诸般的喜乐和平安充满你们的心,使你们藉着圣灵的能力大有盼望”(罗15:13)。正如张大卫牧师所言,“教会真正的盼望唯独在于上帝的恩典,而当教会拥有‘合一的异象’时,神的恩典就会以最强大的方式彰显。”无论是软弱与坚固,抑或犹太人与外邦人,乃至于当代教会中拥有各种背景的人,都要凝聚成一个整体,一同向神献上荣耀。这样的图景正是保罗所期盼的教会未来,也同样适用于当今时代,是教会不可或缺的使命。 3. 保罗的见证、前往耶路撒冷的计划,以及为圣徒合一所做的代祷 在《罗马书》第15章后半部分(14~33节),保罗向罗马教会说明了自己迄今为止的事工,也谈及未来打算,以及盼望他们为此代祷的具体请求。这实际上是《罗马书》漫长论述的结尾部分,也展现了保罗深沉的牧养与宣教热忱。 首先,保罗宣告自己是“为外邦人作基督耶稣执事”,担当了福音祭司的职分(罗15:16)。他自豪地提到,福音从耶路撒冷起步,经小亚细亚广大区域传扬,最终触及罗马边境伊利里贡(今巴尔干半岛)附近,这都是他努力的成果。然而,他并不想夸耀自己,而是“惟以基督借我所做之事夸口”(罗15:17-18),即归功于主的恩典。保罗在《哥林多后书》4章5节也曾表明类似立场——“我们并不是传自己,乃是传基督耶稣为主”,这充分展现了他宣教事工的动力与初心。保罗始终存着“要把福音带到尚未听过的地方”的拓荒精神(罗15:20-21)。 张大卫牧师在讲解这段经文时指出:“宣教的本质,并非只在他人已耕耘的田地上安逸地停留,而是要勇于进入新的地区、新的人群、尚未听闻福音的灵魂之中。”若要教会真正保持活力与生命力,就必须不断保持这种“开拓者(pioneer)的精神”,去拓展新的“外邦之地”。在现代社会,这些“外邦之地”不一定单指地理位置,还可能包括网络空间、高科技交流平台、多元文化环境、以及那些被社会与精神层面忽略或排斥的群体等。教会应当勇于向这些领域播撒福音的种子,肩负神圣的挑战。 当我们阅读《罗马书》时,也会发现保罗对“耶路撒冷母会”相当看重。虽然他写信时位于哥林多地区,但却计划先回到耶路撒冷“供给圣徒”(罗15:25-26),然后才前往罗马。因为耶路撒冷的弟兄姊妹正遭受严重饥荒之苦,保罗需要把马其顿和亚该亚等外邦教会捐献的捐款送到那里。保罗对耶路撒冷教会的这番付出与关注,体现了他对“教会合一与一致性”的深切重视。教会一方面要向普世传扬福音,拥有宣教向外扩散的离心力;另一方面又要保持与耶路撒冷母会的紧密联系,保持内在的向心力。 张大卫牧师将这一点概括为“合一与次序”。各地教会虽然分散独立,却需要在主所设立的教会系统里维系“同一身体”的灵里及组织上的合一。保罗居间调解外邦教会与耶路撒冷教会之关系,并送上捐款,这并非单纯的经济往来,更是“同属一个身体的教会彼此服事、彼此鼓励”的象征。保罗说:“若外邦人分享了犹太人属灵的好处,就当在物质上供给他们”(罗15:27),这彰显了教会彼此欠债的属灵意识。 随后,保罗表示:“等我办完了这事,把这捐资交付妥当,就要路过你们那里,往西班牙去”(罗15:28-29)。可以看出,他心怀世界性宣教的远大抱负,也燃烧着对普世敬拜的盼望。他想把福音延伸至更远的西方(西班牙),期盼有朝一日能在万国万民中间,迎来“万民敬拜上帝”的盛大景象。 在结束书信之前,保罗特别向罗马教会提出了三个具体祈求(罗15:30-32)。其一,“求主使我在犹太地不信从的人手中得蒙拯救。”当时保罗在犹太地区受到热心党(Zealots)及犹太民族主义者的强烈反对与威胁,他所传扬的福音普世性与对律法的解释,很可能被视为离经叛道的言论,因而招致迫害。他急需教会在祷告中为他的安全代求。其二,“也求主使我带给耶路撒冷的供给能被圣徒悦纳。”也就是说,外邦教会的捐助与成果若想得到耶路撒冷母会的确认与接纳,教会整体必须更加稳固地合一,不可有分裂。其三,“盼望照着神的旨意,欢欢喜喜地到你们那里,同你们一起得安息。”这是他在艰苦宣教之余,对在罗马弟兄姊妹当中享受团契与同在的期待与渴望,也折射了保罗的真性情。 张大卫牧师将保罗这三个祷告请求的意义总结为“教会的合一与代祷”。教会要用祷告共同参与保罗面对的外部和内部挑战,并寻求神的保护与带领。同时,信徒也要在经济、属灵各方面彼此支持,在基督里互相鼓励与安慰,如此才能使“大使命”——即向万民传扬福音——得到更充分的发展。最后,保罗以“愿赐平安的神常和你们众人同在。阿们。”(罗15:33)祝福结束了罗马书第15章。他强调“赐盼望的神、赐平安的神”才是教会合一之根本,并宣告唯有依靠上帝,才能使我们彼此合一。 这一点在今日同样适用。尽管我们面对个人主义与世俗化的冲击,教会也有可能走向四分五裂,但我们的盼望仍在于“赐盼望的神”,我们的平安也仍由“赐平安的神”所赐。张大卫牧师总结说:“我们本质上是完全依赖上帝的子民,而上帝正是使我们合一的大能者,务要相信这真理。”当教会的内部冲突越演越烈,或者宣教面临更多阻力,我们就更不可停止代祷,而应在彼此帮助和服事之中,完成教会应尽的使命。 综观整章可见,保罗在《罗马书》15章里所传达的信息,至今对教会仍具备极大的现实意义。第一,当教会产生冲突时,要效法基督的爱,彼此忍耐并接纳对方。第二,信心坚固的人要担当软弱者的重担,并以宽广的胸襟包容外邦人或任何“不同”的群体。第三,效法保罗的榜样,在代祷与舍己的服事中,朝向“合一的教会”不断努力。张大卫牧师称这三项为“教会成为真正教会必须坚守的三大支柱”,因为正是这三大支柱支撑教会承担“世上的光和盐”的重大使命。 “那位呼召我们的主,必亲自成为化解冲突的中保,借着圣灵使我们同心合意、同口赞美上帝。”保罗的确信与历代传道者的宣讲,穿越时空地应验在每个教会群体之中。当我们诚心实践这些教导,教会就能成为彰显福音大能的真实器皿,彼此接纳,合而为一,共同成就主所赐的盼望与呼召。阿们。

主の望みを果たせ – 張ダビデ牧師

1. 教会内の葛藤と和解、そしてキリストにあって一つとなる道 ローマ書15章全体において最も重要な主題の一つは、「教会共同体の中で生じる葛藤をどのように解消し、和解へと導き、キリストにあって一つとなるのか」という点です。使徒パウロは、意見が分かれて衝突している兄弟姉妹に対して「互いに受け入れ合い、一つとなって主の望みを果たしなさい」と強く勧めています。今日においても、教会の中には多種多様な葛藤が存在しています。たとえば、神学的見解の違い、教会運営の方針をめぐる対立、保守的考えと進歩的考えなど、さまざまな理由で葛藤が生じます。しかしパウロは、そのような教会内の葛藤が世の中の争いよりも醜い姿を示してはならないと強調します。なぜなら教会は「世の人々の中から選ばれた者たちが呼び出されて形成された共同体」というアイデンティティと直結しているからです。 張ダビデ牧師は、このような「教会の聖なるアイデンティティ」をしばしば強調してきました。教会は世を救おうとされる神のご計画の中で、世から区別(separated)されながらも、同時に世に対する愛と仕える使命を担っている点が重要だというのです。もし教会が世の模範となることができなければ、かえって福音の障害となり、神の栄光を覆い隠す結果を招きます。特に張ダビデ牧師は、葛藤が起こる場面でこそキリストの御心を抱くことがいかに大切かを繰り返し説きました。「自己中心的な喜びではなく、兄弟のための愛の喜び」という主の教えに従うとき、教会共同体は世のどんな組織よりも透明で、愛にあふれ、霊的に澄んだ姿を示せるようになるのだといいます。 パウロがローマ教会の共同体に示した数多くの勧めの中でも、ローマ書14章と15章は「強い者と弱い者」の問題に言及し、教会の和解と一致、そして信仰の水準が異なる共同体の成員たちがどのように互いを配慮し、大切にし、助け合うべきかという具体的な指針を含んでいます。パウロは「信仰の強い者」が決して「弱い者」を軽蔑したり無視したりしてはならないと言います(ローマ15:1)。むしろ、強い者が弱い者の弱さを担いなさいと強く勧めます。これは単なる道徳的な勧告ではなく、キリストの模範に倣うべきという霊的な理由が背景にあります。イエスはいつも罪人たちを受け入れ、彼らに直接近づき、僕(しもべ)の姿で仕えることを示されました。そしてその仕えの中にこそ喜びがあると言われました。この喜びは、世が与える自己満足的な喜びではなく、他者を生かし立て上げる場所で得られる「天の喜び」なのです。 張ダビデ牧師もまた、ヨハネの福音書15章をしばしば引用しながら、「主が私たちに向けて示しておられる愛を悟ってこそ、真の愛の道、互いを受け入れる喜びの道へと入ることができる」と解説します。これは「あなたがたのうちにわたしの喜びがあり、それが満ちあふれるように」(ヨハネ15:11)というイエスの御言葉とも直接つながっています。つまり、他者を愛することによって得られる喜びこそが教会の真の力だ、ということです。 このような愛の喜びが教会の中で実現できないと、すぐに教会は深刻な内部分裂の危機に直面します。パウロがローマの信徒たちに「あなたがたは御言葉に立ち返りなさい。キリストを覚えなさい。主があらゆる辱めを耐え忍ばれたことを思い起こしなさい」と教えるのはこのためです。キリストがありとあらゆる侮辱や非難、そして罪人が負うべき罪責を代わりに背負われ、その愛を証明してくださったのですから、兄弟姉妹もまた葛藤が生じるとき、「自己中心的な判断」より「キリストの贖罪史的な愛」を思い起こすべきなのです。そのような姿勢こそが教会の不和を癒やし、互いを包み込む力となります。 張ダビデ牧師は「教会は常に神の御言葉を通して、御霊が与えてくださる『忍耐と慰め』(ローマ15:5)を握りしめなければならず、その忍耐と慰めによってついに『同じ思いと同じ口』をもって神をあがめることができる」と繰り返し強調します。すなわち、御言葉の黙想や共同体の礼拝が形骸化してしまうと葛藤解決は難しいけれども、実際に主の姿を深く黙想し、その「十字架の愛」を自分の生き方に適用するときにこそ、分裂を克服し、一つとなることが可能になるのです。これは教会内の葛藤を解消する際の必須のプロセスであり、すべての構成員が「私たちはキリストによって恵みを受けた者であり、主に負債を負っているのだ」と悟るその瞬間に、ようやく葛藤を下ろし、互いを受け入れる道が開かれます。 しかし、この理想的な教会の姿が現実の中で実現されるには、各信徒の「悔い改め」と「自己を空しくする」ことが伴わなければなりません。聖書に「罪の増し加わるところに恵みも増し加わる」とあるように、葛藤が大きいほど、さらに大きな悔い改めと許しが必要になります。このとき教会が互いに「私たちは罪人です」と告白しつつ、神の恵みを求めるならば、以前まで閉ざされていた心の壁が取り払われ、真の一致の奇跡を体験するようになるのです。 パウロはこう言います。「あなたがたは同じ思いと同じ口をもって主を賛美し、証しするようになる」。そこには、一つの共同体が同じ方向を見つめ、ただ神の栄光を追い求める姿が示されています。さまざまな背景、文化、性格、才能を持った人々がイエスのうちにあって一つに結ばれるというこの神秘こそ、教会が教会らしくあるための核心と言えるでしょう。張ダビデ牧師は「教会がイエスによる望みをしっかりと握るとき、世の与え得ない平安と喜びが私たちのうちに満ちあふれる」と説教します。この確信はローマ書15章13節の「望みの神が信仰によってすべての喜びと平安とをあなたがたに満たし…」という祝福の宣言とも直接結びついています。 教会内の葛藤を克服するには、何より互いに対する思いやりと忍耐が優先されなければなりません。「皆さんの中に葛藤がありますか? 争点がありますか? それならまず主の御言葉の前で自分の態度や心を点検しなさい」。パウロの勧めを要約すると、このようになるでしょう。張ダビデ牧師も葛藤の状況で、まず自分自身を振り返り、「私は本当にキリストの御心でこの問題に取り組んでいるのだろうか」と深く黙想することが必要だと教えます。葛藤の解決は究極的に「主にあって一つとなる道」です。対立する両者が共に主を仰ぎ、御言葉に照らされてへりくだるとき、そこに真の和解のきっかけが生まれるのです。この道は容易ではありませんが、聖なる共同体となるために必ず通らなければならない道であることを、私たちは心に留めるべきです。 結局パウロは、異なる見解や伝統を持つ共同体に対し「弱い者を受け入れ、強い者は弱い者に仕え、他者の喜びのために自分を犠牲にする」というキリストの生き方を繰り返し勧めます。これは単に「仲良くしましょう」という表面的な道徳的呼びかけではなく、教会がこの地上に神の国を完全に現すための根本的な倫理です。教会は世とは違わねばなりません。なぜなら教会の主はキリストであり、キリストが私たちのうちに働いておられるという事実こそが、教会を「聖なる共同体」として打ち立てる礎だからです。 2. 弱い者の荷を互いに担い、異邦人を受け入れる愛の共同体 パウロはローマ書15章の冒頭でこう力説します。「信仰の強い私たちは、信仰の弱い人々の弱さを担うべきであり、自分自身を喜ばせるべきではありません」(ローマ15:1)。この短い一節こそ、教会の具体的な実践指針であり、互いに配慮し合う姿勢こそ教会の基本的な姿だということを示します。葛藤が生じるとき、往々にして見られるのは、強い者が弱い者を押さえつけたり、互いに主張をぶつけ合って相手を無視したりする態度です。しかしパウロが示す教会の姿はまったく異なります。互いの荷をともに担う、まさに「共に泣き、共に笑う」共同体であるべきだというのです。 張ダビデ牧師はこの御言葉を引用しつつ、「私たちのうちにイエス様の御心がしっかり根を下ろすならば、兄弟の弱さを見たときに裁きよりも慰めが先に立つようになる」と説きます。さらに「自分自身を喜ばせることに没頭するのではなく、他者を喜ばせようと努めるときこそ、むしろ霊的な喜びに満ちあふれるようになる」という逆説的真理を提示します。これは大変重要な点です。なぜなら、人間は本来利己的な傾向が強く、少しでも困難なことが起これば自己中心的になりやすいからです。しかし信仰共同体において大切なのは、互いへの愛の献身と配慮を通して「天の喜び」を味わうことなのです。 あわせてパウロはイエスの模範を示します。イエスはご自身を喜ばせようとはなさらず、あらゆる侮辱や非難を代わりに背負われました(ローマ15:3)。これは十字架の道がまさに「愛の犠牲」を意味していることをはっきり示します。ちょうどヨハネの福音書15章12~13節で「互いに愛し合いなさい。友のために自分の命を捨てること以上の愛はない」と語られた言葉が、イエスの生き方によって証明されたように、パウロは教会共同体の中でも同じ原理が適用されるべきだと示唆します。兄弟のために、姉妹のために、喜んで自分の犠牲を負うことこそが真実の愛であり、そのような愛を通して「世が知らない喜び」を味わうのだ、とパウロは言うのです。 ここでさらに注目すべきは、「異邦人を受け入れる問題」です(ローマ15:7~13)。当時、ユダヤ人と異邦人との対立は非常に根深く重大でした。割礼の問題や律法遵守の問題、慣習や伝統など、互いに相容れない点が多かったからです。しかしパウロは「キリストがあなたがたを受け入れて神に栄光を帰したように、あなたがたも互いに受け入れ合いなさい」(ローマ15:7)と明確に命じます。パウロ自身も「異邦人に福音を伝えること」(ローマ15:16)が自分の使徒職の中心であると確信していました。彼はエルサレムから始まった福音が全世界へ、すなわちすべての国々へと広がっていくビジョンを抱いていたのです。 張ダビデ牧師は多くの説教で、「神の国は国境や民族的境界線を超越する」という事実を強調し、ユダヤ人と異邦人とを隔てていた壁が打ち壊された出来事こそが、教会史における大きな転換点だったと語ります。今日でも、人種、文化、言語、経済的背景の違いなどによって教会内で葛藤が起こる可能性がありますが、すでにキリストのうちにあってすべての壁は取り払われたのだから、私たちは「広い心をもって」他者を受け入れるべきだということです。このように異邦人を受容することは、単にパウロの時代の問題にとどまらず、いつの時代も教会共同体が取り組むべき継続的な課題です。私たちの周囲にいる文化的・社会的な「他者」を開かれた心で迎え入れ、ともに礼拝できるようになってこそ、教会は普遍的福音の精神を実践していると言えるのです。 パウロはこの問題に関連して、詩編やイザヤ書など旧約の予言を引用し、「神は最初から諸国民が主を賛美するよう計画されていた」(ローマ15:9~12)と力強く語ります。すなわち、神が救いを及ぼされる範囲は特定の民族に限られず、万国・万民を包括するということです。エペソ書2章でも「隔ての壁を打ちこわし、両者を一つにされた」(エペソ2:14)と宣言し、ユダヤ人であれ異邦人であれ、イエス・キリストのうちにあって一つにつながっているという真理を伝えます。教会はまさに「一つにする福音」を実践する場所であるべきなのです。 それゆえ、信仰の強い者たちは自分を高ぶらせるのではなく、弱い者や背景の違う人々を積極的に受け入れなければなりません。互いの相違点がときに葛藤を生むことがあっても、その違いを敵意や排除の理由とするのではなく、むしろ豊かな多様性の機会と捉え、互いに学び合い、成長していく道を模索すべきなのです。パウロはこれこそ「愛の共同体」が進むべき道であり、そうすることでこそ世にはない真の喜びと平安が共同体の内に訪れると語ります(ローマ15:13)。 張ダビデ牧師は「今日の教会がキリストの贖罪史的な愛を自らに体現し、この地のあらゆる異邦人(つまり、まだ福音に触れていない人々や文化的に疎外された人々)に対する宣教の使命を果たす道は、まず内部において『互いに仕え合い』、『憎しみの壁を打ち壊そうと努める』ことから始まる」と説きます。愛の対象は外面的な意味での異邦人だけでなく、教会内部にいる疎外された人、弱い人、心を痛めた人、あるいは意見の相違によって疎外されがちな人々も含まれます。そうしたすべての人々を「一つの体」として迎え入れる過程の中で、葛藤は自然と克服され、より大きな一致の喜びが訪れるのです。 さらにパウロは、この愛の共同体が「感謝と賛美」という言葉を通じて結束すると強調します。ローマ書15章9~12節に引用される詩編やイザヤ書の節々は「諸国民が神に感謝と賛美をささげる未来」を歌っています。結局のところ、教会の本質とは感謝と賛美に満ちていることです。本当に感謝する心があるならば、憎しみや紛争を増幅させる余地はありません。賛美によって神を崇める魂は、兄弟の欠点をあげつらうよりも、互いのために祈り合い、助け合う道を探します。そうして教会は「恵みと平安」に満ちあふれるようになるのです。 最終的にパウロは「望みの神が信仰によってすべての喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださるように」(ローマ15:13)という祝祷の言葉でこの部分を結びます。これは張ダビデ牧師の言葉を借りれば、「教会の真の希望はただ神の恵みにかかっており、その恵みは『一つとなるビジョン』のうちで最も力強く働く」という事実をよく示しているのです。弱い者と強い者、ユダヤ人と異邦人、そして現代の教会においてもさまざまな背景を持つ人々が皆、一つの共同体として結ばれ、神をあがめる姿こそが、パウロが思い描いていた教会の未来であり、今も変わらず教会の使命として有効なのです。 3. パウロの証し、エルサレム訪問、そして聖徒の連合のためのとりなしの祈り ローマ書15章後半(14~33節)は、パウロがローマの信徒たちにあてた手紙を締めくくりつつ、自分がどのような働きをしてきたのか、今後どんな計画を抱いているのか、またどのような祈りの課題を持っているのかを示す部分です。事実上、ローマ書全体の長い結論部であると同時に、パウロ自身の牧会的・宣教的情熱が表出している箇所です。 まずパウロは自らが「異邦人のためのキリスト・イエスのしもべ」であり、福音の祭司の務めを担っていることを宣言します(ローマ15:16)。彼はエルサレムから始まった福音を小アジア一帯に広め、さらにローマの国境地域であるイルリコン(現在のバルカン半島近辺)にまで伝わるよう献身してきたことを誇らしげに語ります。しかし、これは自分の業績を誇示する意図ではなく、「ただキリストが与えてくださった恵みによるのだ」という点を繰り返し強調するためです(ローマ15:17~18)。使徒パウロは「私は自分を宣べ伝えるのではなく、ただキリスト・イエスを宣べ伝えるのです」(第二コリント4:5)と語ったときと同じ姿勢を貫いています。このようにパウロの宣教的情熱は、「まだ一度も福音が伝えられていない場所」に福音を伝えようとする開拓精神から生まれます(ローマ15:20~21)。 張ダビデ牧師はこの箇所を取り上げ、「宣教とは、すでに誰かが福音を伝えて基盤を築いた場所に安住するのではなく、新しい地域、新しい人々、まだイエスを知らない魂へと出向いて行くことにその本質的意義がある」と解説します。教会が本当に生き生きしていてダイナミックであるためには、常に「パイオニア精神(pioneer spirit)」をもち、「新たな異邦の地」を切り拓く必要があります。もちろん現代社会において、その「異邦の地」は必ずしも地理的な意味に限定されないかもしれません。インターネット空間や先端科学技術がもたらしたコミュニケーションのチャンネル、多文化環境、精神的・社会的弱者の領域など、いまだ福音が行き届いていない領域は多々あるのです。教会はそこへと「福音の種を蒔こうとする」聖なる挑戦を成し遂げなければなりません。 ローマ書の読者は、パウロが「エルサレム母教会」を非常に重んじていたことにも気づくでしょう。彼は現在コリントの地方でこの手紙を書いていますが、いったんエルサレムに戻って「聖徒を助ける務め」を果たしてから(ローマ15:25~26)、改めてローマを訪れる計画を立てています。エルサレムの兄弟姉妹たちは深刻な飢饉に苦しんでおり、パウロが開拓した異邦人教会(マケドニアやアカヤなど)の信徒たちが集めた献金を届ける必要があったのです。パウロがこうしてエルサレム教会に仕え、献金を携えて戻ろうとする姿は、彼が「教会の一致と連合」をいかに重んじていたかを象徴的に示しています。教会は世界へと広がる宣教的な遠心力をもつ一方で、エルサレム母教会という求心力を失ってはならないと彼は信じていました。 張ダビデ牧師はここを「連合と秩序」と呼びます。各地域の教会がそれぞれ分散して独立して活動しつつも、同時に主が建てられた教会として一つの体をなし、霊的にも組織的にも連帯すべきだということです。パウロが異邦人教会とエルサレム教会を仲立ちし、献金を届ける行為は、単に経済的援助のやりとりにとどまらず、「一つの体とされた教会が互いに仕え合い、励まし合う」という重要な象徴でもあります。パウロは「肉的なもので仕えるのは当然だ」(ローマ15:27)と言い、異邦人教会はユダヤ人教会から霊的恵みを受けたのだから、物質的・経済的な面でもその恵みに報いるべきだと述べます。これがすなわち教会のうちで互いが負債を負っているという霊的な認識を証明する道なのです。 その後パウロは「この務めを終えて初めて、あなたがたのところに立ち寄り、さらにスペインまで行くだろう。エルサレム母教会に自分の宣教の実を示し、それが確証された後、スペインへ向かう道すがらローマの信徒たちにも会いたい」と希望を表明します(ローマ15:28~29)。ここにはパウロの世界宣教ビジョンが盛り込まれており、同時に教会が抱くべき「宇宙的(Cosmic)な礼拝」への憧れが表れています。彼はただいくつかの地域教会に限定するのではなく、地の果てに至るまで万人に福音を宣べ伝えたいと願っていました。そして究極的には「万人が神を賛美する」という壮大な礼拝が展開するという予言的ビジョンを持っていたのです。 手紙の終わりにあたり、パウロはローマの信徒たちに具体的な祈りの課題を三つ要請します(ローマ15:30~32)。第一に、「ユダヤで従わない者たちから救い出されるように」。当時パウロは、熱心党(ゼーロテ)やユダヤ民族主義者から深刻な脅威を受けていました。律法の完成を唱え、福音の普遍性を強調する彼のメッセージは、彼らには異端的で背教行為のように映ったのかもしれません。そこでパウロは、自身の安全のために祈りが必要だと訴えたのです。第二に、「エルサレムに対するこの奉仕を、聖徒たちが喜んで受け入れてくれるように」。つまり、異邦人教会による献金と宣教の実がエルサレム母教会の確認と承認を得てこそ、教会全体が分裂することなく一つの体として強固になるというのです。第三に、「神のみこころによって喜びをもってあなたがた(ローマ教会)のところへ行くことができ、共に憩いを得ることができるように」。これは、宣教地での激しい働きのあと、ローマの信徒たちとの平安な交わりを分かち合いたいというパウロの人間的な望みでもあります。 張ダビデ牧師は、パウロが示したこの祈りの要請が教えているメッセージを「教会の一致ととりなしの祈り」とまとめます。教会はパウロが直面する外的・内的な困難について「共に祈り」で参与し、その中で神の守りと導きを求めなければなりません。また信徒同士が互いに必要な経済的・霊的支援を行い、キリストのうちにある一つの体として励ましと慰めを分かち合うとき、「すべての民族に福音を伝える」という大いなる使命もいっそう弾みを得ることになります。結局パウロは「平和の神が、あなたがたすべてとともにおられるように。アーメン。」(ローマ15:33)という祝祷によってローマ書15章を事実上締めくくります。望みの神、平和の神を説きながら、教会が互いに一つとなる道はただその神にかかっているのだ、と宣言しているのです。 これは現代にもそのまま適用できます。教会が個人主義と世俗主義の波にさらされ、分裂しやすい時代の流れに直面しているとしても、私たちの望みは「望みの神」にあります。私たちの平和もまた「平和の神」にかかっています。張ダビデ牧師はこれについて、「私たちは根本的に神に依存する存在であり、その神こそが私たちを一つにされる力であることを信じなさい」と強調します。教会内の葛藤が深まるほど、また福音宣教の障害が多いほど、私たちはいっそうとりなしの祈りを絶やしてはならず、互いに助け合い、仕え合う使命を担わなければならないのです。 結論として、ローマ書15章に含まれるパウロのメッセージは、現代の教会の状況においても依然として生きた勧めと言えます。第一に、教会の中で葛藤が起こる際、キリストの愛にならい、互いに忍耐し合い、受け入れ合うこと。第二に、信仰の強い者が弱い者の荷を担い、異邦人のような「異なる存在」を広い心で受容すること。第三に、パウロが実際に示したように、教会が互いにとりなし祈りを捧げ、献身的に仕え合うことで「一つとなる教会」を目指すこと。張ダビデ牧師はこれら三つを指して「教会が教会らしくあるために必ず守るべき三本の柱」と呼ぶことがあります。なぜなら、これらの柱こそが主の体なる教会が世に光と塩の役割を果たすように支える土台だからです。 「私たちを召された主が、葛藤を解決する仲裁者となられ、聖霊を通して私たちを同じ思いと同じ口で神を賛美する者へと導いてくださるのです」。パウロの確信と説教者たちの宣言は、時代を越えてあらゆる教会共同体に有効です。私たちがこの御言葉を実際の生活の中で体現しようとするとき、教会は福音の力を世に示す真の管となり、互いに受け入れ合って一つとなり、主の望みを果たすという聖なる召しを全うすることになるのです。

Fulfill the Lord’s Hope – Pastor David Jang

1. Conflict and Reconciliation Within the Church, and the Path to Unity in Christ One of the most crucial themes emerging from the entirety of Romans chapter 15 is: “How should conflicts within the church community be resolved and lead to reconciliation?” The Apostle Paul addresses brothers and sisters who are divided, who clash because … Read more

Cumplid la esperanza del Señor – Pastor David Jang

1. Conflictos y reconciliación en la iglesia, y el camino hacia la unidad en Cristo Uno de los temas más relevantes que resalta en todo el capítulo 15 de Romanos es la cuestión de cómo resolver los conflictos que surgen dentro de la comunidad eclesial y avanzar hacia la reconciliación. El apóstol Pablo exhorta enérgicamente … Read more

주의 소망을 이루라 – 장재형목사

1.교회 내 갈등과 화해, 그리고 그리스도 안에서 하나 되는 길 로마서 15장 전체에서 드러나는 가장 중요한 주제 중 하나는 “교회 공동체 내에서 벌어지는 갈등을 어떻게 해소하고 화해로 나아갈 것인가?”라는 점이다. 사도 바울은 갈라진 형제들, 서로 다른 견해로 인해 충돌하는 이들에게 “서로 받아 하나 되어 주의 소망을 이루라”고 강력하게 권면한다. 오늘날에도 교회 안의 수많은 갈등 사례가 … Read more